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グルーとは誰か? 知日派の生態 [戦争・原爆]

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毎日新聞 2011年9月4日 東京朝刊
今週の本棚:五百旗頭真・評 『グルー-真の日本の友』=廣部泉・著
 ◇五百旗頭(いおきべ)真・評
 (ミネルヴァ書房・3150円)

このケッタイな書評?が気になったので、図書館にリクエストしてやっとのことで読み終えた。

ケッタイな、というのは五百旗頭真の書評が書評になっていないからである。つまり、己の主張と同じ流れの論者の本を取り上げ、グルーへの賛辞を連ねた書評(書評に名を借りた、評者の主題に対する心情吐露)を書いていること。廣部泉は、五百旗頭真のグループに世話になったとあとがきで謝辞を述べている。

副題の「真の日本の友」は、吉田茂がグルーを評した言葉である。それをそっくり副題に戴いている、ということでこの本の主張は尽きていよう。吉田茂は、宮中派のスポークスマンとしてつとに有名。終戦期には国体維持のために暗躍した男である。グルーは10年間(32~42)日本大使として日本に縁が深かった、といわれているが彼の交際範囲は宮中グループが中心でありもちろん彼が反感をもった陸海軍とは交際していない。彼が愛したと言われる日本、には日本の民衆は含まれていない。大衆を蔑視し、敗戦による革命を恐れた宮中グループが、グルーの愛する「日本」の実体である。

知日派、とはいったい何なのか?

44年以前から日本の敗戦は決定的であるにも拘わらず、米軍の空襲を放置し日本を焼け野原にした責任は誰にあるのか。44年四月から始まった沖縄戦により沖縄住民十万人が死んだ(日本軍もほぼ同数の死者。米軍も1万五千の死者を数えこれは米軍にとっては驚愕の数字であった)。これでも天皇は敗北を決断しなかった。最後の一撃をくわえての終戦にこだわったのである。一体戦争とはなんなのか。誰のための戦争なのか。

グルーはそれでも天皇制護持を信条として唱え続けるのである。

グルーを「反共主義者」(であり、反共主義者であったことが日本(=天皇制)を救った、と著者は繰り返し述べている。しかし、いかにしてグルーが反共主義者になったのか、は説明されていない。グルーの出自はボストンの由緒ある家柄、しかも、この本では1行しか触れられていないがグルー家はモルガン財閥(原発開発に係わった)と親戚である。

グルーもトルーマンもルーズベルトの下では冷や飯を食わされた。そういう意味では同じ釜の米である。トルーマンもグルーもヤルタ会談密約を知らされたのはルーズベルトの死(4/12)の後であり、トルーマンは副大統領であったにもかかわらず原爆開発の事実を教えてもらっていなかったのである。グルーが原発開発の事実を、スチムソン(陸軍長官)から教えてもらって知ったのは5月に入ってからだ。もっとも原発開発は議会にも内緒であり米国内でも知っていたのはごくわずかであった。当時の金で20億ドル、携わった人数2万人という巨大な、しかも超短期の大プロジェクトであった。原発実験が成功するのがポツダム会議(7月17日~8月2日)の開催中である。

あとがきで、米国内のグルー評価が紹介されている。「性格は良いが、幾分知的に凡庸」とする評価にわたしは同意する。その一面は、44年5月12日の対ソ連武器輸出を禁止した政策であろう(グルーが手回しした)。この一件は重要であると思うのだが(グルーの、外交官としてはまれに見る凡庸さ軽率さの象徴である、という意味で)、廣部泉は1行も触れていない。

対ソ武器輸出禁止はスターリンの猛抗議ですぐに撤回された。トルーマンは軽率にもグルーの禁輸提議にメクラ判(署名)を押してしまったことを後悔し、これ以後、グルーを信用しなくなったという。このことは重要であるはずだが廣部泉は本書でひと言も触れていない(五百旗頭真も、自分の著作でおそらく触れていまい)。ソ連側対応を含めた詳細は長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』(2006年。原本となる英本は2005年)に記述してある。長谷川毅はソ連研究家であり米国に帰化している歴史家。敗戦期日本の研究家としてこれほどふさわしいひともいまい。この本は原著が英語、本人が英著を大幅改定して和訳したもの。これ一冊読めば太平洋終戦の実相は十分、といえるほどの内容である。

五百旗頭真は書評でポツダム宣言へのグルーの係わりを強調しているが、中村政則『象徴天皇制への道』(1989年)は、グルーはポツダム宣言を起草していないことを明らかにし、五百旗頭真『日本の占領政策』におけるグルーが起草したという記述の誤りを指摘している。五百旗頭真はどこかでこの記述の誤りを修正したのか?

終戦直前まで(あるいはソ連の満州侵攻といったほうがいいか)日本は愚かにもソ連に対し、米国との講和の仲介を依頼し続けていた。米国は41年から日本の対外電報をすべて解読しており、ソ連への仲介依頼も知っていた。また、米国は原爆開発はソ連に対しても機密にしていたがソ連はスパイを放って開発の内情は承知していた。

グルーは原爆投下に反対したのだろうか?グルーの意図に拘わらず、あるいはトルーマンの意図に拘わらず、原爆投下は陸軍を中心としたルーズベルト政権生き残りの既定方針であり、すでに、巨額の予算を費消し完成間近のプロジェクトをなんの成果ももたらさずに途中放棄することは新任大統領にはできかねる相談だった(もちろん、完成したならば、という条件付きだが)。幸か不幸か、ポツダム会議中に原爆実験は成功した。トルーマンにとっては、ソ連の侵攻(ヤルタ会談で、ドイツ敗北の3ヶ月後にソ連は日本に侵攻する、と決定されていた。ドイツは5/8に無条件降伏。その三ヶ月後とは8/8である)の前に日本が降伏しては困る(巨大予算を費やした原爆を使用できなくなる)、しかも、降伏が遅すぎても困る=つまりソ連が参戦する、というこれ以上ないほどの制約の多い数週間であった。

 
かりに原発開発が数ヶ月、あるいは半年遅れたらどうなるか。おそらく使用されなかったろう。かわりに米軍とソ連軍が南と北から日本に侵攻し、軍隊も住民も壊滅的な打撃を受けたろう。日本は文字通りの焼け野原になったろう。その帰結は?天皇の命は消えたろう、ということ。

すなわち、原爆こそが天皇の命を救ったのである。だからこそ、天皇は原爆投下を待望したのである。

グルーが救いたかった宮中グループは結局、グルーの意図通り救われたがそれは結果論である。宮中グループを米国政府が救ったのは戦後の米国による支配を容易にするためである。グルーがそれに異を唱えることはありえない。というより彼の意図に拘わらずそのためにグルーは存在した。冷戦を経て後、日本が米国の属国になることが、日本の(のぞましき、他の選択の余地無き)運命であるかのように歓ぶ五百旗頭真が、書評の最後で「天はなぜこの人を日本に与えたのであろうか」と正直に感じ入るのも、もっともなことである(「天はなぜ米国を日本に与えたのであろうか」、と、私には聞こえる)。 しかし、当然ながらグルーは米国の国益のために行動したのであり、天皇と天皇制に愛着ある故に行動したのではない。グルーを、本書の著者や五百旗頭真あるいは吉田茂のように「真の日本の友」と評価しているようでは贔屓の引き倒しにならないか。

藤村信『ヤルタ -- 戦後史の起点』にはグルーの別の姿を描いている。長いが引用する。p.275~から。
わたし(藤村)はグルーの情熱的な行動を日本へよせる愛着にもとめる解釈をしりぞけるものではありませんが、グルーをして<<異常>>に行動せしめた、もうひとつの根本的な動機をさぐらないわけにはいきません(略)。グルーは日本の十年間に先立って、第一次大戦の当時はベルリンとウィーンに勤務しました。かれは古典的、保守的外交官の生きた典型であって、難聴も手伝って本来の内省的な性格は執拗で一本気の人間をつくりだしていました。ことにその執拗な信念はヨーロッパ滞在を契機として、ソ連と共産主義に対する一種の憎悪を結晶させました。かれはボリシェビキ革命をゆるさなかったし、古典的な外交の様式と慣行を無視するソ連の行動をたちまち侵略と膨張主義に直結させる点で、人後に落ちません。ルーズヴェルトの時代、そしてトルーマン政権の草創期において、アメリカの最高政策グループのなかでは、戦後アメリカの世界政策は老いたる大英帝国主義の跡を追ってはならない、米英の友好関係に米ソの友好関係を優先的に重ね合わせてまずいことはひとつもない、という考え方が支配的であったことを思えば、グルーのソ連に対する一本気の憎悪は<異様>でさえあります。(二頁省略)グルー覚書によれば、第二次大戦を経過して、全体主義の独裁はドイツと日本から今やソヴェトロシアに移っており、それはナチスと同じ水準に危険な現象である。東ヨーロッパの現状こそ、ソ連がヨーロッパ大陸にうちたてようとこころざす<世界>のモデルであり、それはやがて中近東へも及ぶであろう。ソ連に対応して、アメリカは軍事力を堅持し、英国、フランス、ラテンアメリカとの関係を強化しなければならず、いささかでもソ連の言動に信頼をよせることは、われわれの士気と倫理を弱め、かれらの仕事を容易ならしめる重大な誤りに陥る。従って、サンフランシスコ国連総会のあと、アメリカはソ連に対してつよい態度を示さなければならない。ソ連がその巨大な軍事力、経済力、地理的優位を回復させ、発展させるまえに、アメリカの安全保障のためにもソ連と対決することはなによりも望ましい。対ソ政策においてアメリカの立場をつよめるためには、太平洋戦争を一刻も早く終わらせることは絶対の条件である。ソ連が極東において戦争に参加する事態が起こるならば、モンゴル、満州、朝鮮はひとつずつソ連の支配圏内に滑り落ちていき、やがておそらくは日本もはいってしまうであろう。さればこそ、ソ連がアジアにおいて動きだすまえに、すみやかに日本との戦争を終わらせなければならないのである・・・(イエルギン著書による)。グルー覚書の哲学が、天皇制存続の可能性をほのめかす5月30日トルーマン演説への勧告、そしてポツダム宣言草案のための覚書に延長していくことは、ここに詳述するまでもありません。実にグルーの天皇制護持の執念は、将来におけるソ連との対決への準備という黙示録的な信念と表裏一体をなしていたのです。


ジョセフ・グルー joseph Grew@Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC



111016_2122~01.jpg写真は『グルー 真の日本の友』(ミネルヴァ書房)から
以下、五百旗頭真による書評の全文引用である。

##
 ◇誰よりも決定的に、戦後日本を支えた人
 こんな歴史のイフもありうる。--もしJ・グルーがいなかったら、戦後日本はどう変っていただろうか。

 天皇制はなくなっていたかもしれない。それが答の一つである。一九四四年春、米国務省の戦後計画委員会に、日本専門家グループは天皇制の存続を可能にする案を提出した。幹部たちはこれを厳しく批判し、再検討を命じた。幹部の指示である。下部の知日派は上意に従う他はないはずである。ところが、ここにグルー極東局長が天皇制を廃止すべきでないとの意見書をもって介入した。

 日本大使を十年近く務め、日米戦争回避に懸命の努力を重ねながら、「真珠湾」の破局を迎えたグルーであった。その点、彼は敗者であったが、半年後に帰国したグルーは、米国において勝者でもあった。国務省にあって三〇年代の極東政策を牛耳ったS・ホーンベックは日本が勝ち目のない対米戦争を開始するなどありえないと断じつつ対日強硬論を説いた。それに対し、グルーは「国家的なハラキリ」として日本が対米戦に身を投ずることもありうると米国政府に警告し、真珠湾奇襲攻撃の危険すら打電していた。皮肉にも、不本意な破局は、対日認識に関するグルーのホーンベックに対する勝利であった。グルーは最も人気ある凱旋(がいせん)大使として全米を講演してまわり、彼の『滞日十年』は戦時のベストセラーとなった。

 アメリカにあって日本を誰よりも深く知る外交界の長老(彼はすでに国務次官やトルコ大使を務めていた)が真剣に反対する以上、国務省幹部も天皇制廃止を決定しかねた。天皇がはたして和平と民主化にとっての障害なのか資産なのか、確かめた上でと、決定を先送りしたのである。もし四四年段階でグルーが動かなければ、天皇制廃止が米国政府の既定方針になっていたであろう。

 同様に、もしグルーがいなければ、ポツダム宣言はなかったのではないか。

 終戦を迎える年に国務次官に復帰し、国務長官代理として米国外交の運転席に坐(すわ)ることの多かったグルーは、ヤルタの密約と対日原爆投下の予定を知るに至った。日本と日米関係を深く想(おも)うグルーは、この二つの悲劇の実施なしに終戦をもたらすため、五月下旬に大統領による対日声明を提唱する。戦後日本が平和で民主的な国になるのなら、立憲君主制を認めると日本国民に告げよう。それにより、日本国民に武器を置かせよう、との提案である。

 それがポツダム宣言へとつながる。スティムソン陸軍長官は、原爆投下と対日声明の併用によって対日戦の早期終結を図る。もしグルーが無条件降伏の緩和もしくは撤回を意味する対日声明に向けて力強く動き、スティムソンを仲間にしなければ、ポツダム宣言はなかったのではないか。

 ポツダム宣言が出され、広島に原爆が投下され、ソ連が参戦するに至っても、なお降伏を潔しとしなかった日本陸軍であり、意思決定が難しかった日本政府である。もしポツダム宣言がなければ、あの時点での終戦はなく、本土決戦に突入したであろう。日本全土が軍事的に制圧されるまで日本人の悲惨な抵抗が続いたことであろう。犠牲者は二倍となったであろうか。もちろん天皇と日本政府を通しての間接統治はありえず、直接軍政の日本占領である。

 こうして見れば、グルーこそ戦後日本を誰にも劣らず決定的に支えた人物ではなかろうか。本書は、日本人学者の手になる初めてのグルー伝である。吉田茂がグルーのことを「真の日本の友」と評した言葉を副題とする本書は、グルーが日本と日本人をこよなく愛し、礼節をもって日本に対し、日米を結び合わせるためきわみまで献身したことを、実証的に淡々と描いている。

 グルーについては、W・ハインリクス教授の古典的研究がある。ただその見事な邦訳は、全文でなく対日関係部分を中心とするものである。評者も二十五年前の『米国の日本占領政策』においてグルーの役割をかなり詳細に論じたが、本書を読むと、それ以後多くの公文書が公開され、より詳しく立体的にグルーの人と役割が描き出されていることに感銘を受け、教えられる。

 グルーは豊かなボストンの名門実業家の子に生れ、グロトン=ハーバードに学んだ後、一年半の世界旅行を行い、中国の巣穴でアモイ虎を仕とめる冒険を行った後、日本にも立ち寄った。グルーの妻となるアリスは、父が慶応大学で教鞭(きょうべん)をとった際に日本に滞在し、日本語もできた。夫婦ともに日本を愛したが、グルーの日本重視は彼の外交官としてのたしなみでもあろう。本書が語る第一次大戦期の欧州での外交経験、とりわけその後のトルコ大使としての卓抜した業績と篤(あつ)い任国での信頼を見れば、グルーは任国と母国を結び合わせる責任感と使命感を、どこに派遣されようと旺盛に発揮したように見える。その中でも、日本はグルー夫妻にとってなぜか格別の国であった。天はなぜこの人を日本に与えたのであろうか。
 


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