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荒川洋治『文芸時評という感想』 書評 [Art]

  荒川洋治『文芸時評という感想』 四月社刊 2005                                  

詩人荒川洋治が1992年から2004年までの12年間産経新聞朝刊に掲載した文芸時評を収めている。「はじめに」で荒川は「ぼくには批評を書く力はないので、作品の感想を書いた」と言っている。

以下ことわらないかぎり「 」は荒川の文章を表す。

1992/3
山田詠美「快楽の動詞」は男女の絶頂時における言葉「行く」にこだわる。英語ではあのときgo!ではなくcome!、お互いのところに「来る」が、日本語では<おたがいが「行く」>、つまり<英語のセックスは二人が向かい合い、日本語の性は同じ方向を向きながらする、すなわち永遠の後背位である>と結論する。。。。聞いたようなことを言っているがこれは荒川の言うように 「文法的にはそうといえるが実際の現場の様子は英語の人も同じだろう」。 あたりまえのことだ。アメリカでも日本でも、犬でも猫でも鯨でも人間でも イク、はイク! なのだ。Goはイク、comeはクル、という馬鹿の一つ覚えのような「訳語」に甘んじているのが可笑しい。山田詠美セックスコンサルタント(小説も書くらしい)は「文法的にも正しくない」のだ。英米人が Come!といい、ニッポンジンがイク、というのであれば、なぜ、
               Come = イク
のである、としないのか?これ、文法以前の問題である。
荒川の結論「こちらの意志とはかかわらず物や時間が移動することをすべて「去る」の一語につつみこむ古代日本語の世界では「行く」も「来る」も同じこと。日本人がその瞬間において「行く」の語を選ぶのは「古代」の形跡なのだ、とぼく(荒川)は思う」。Comeはもちろん、自動詞だが move, becomeに近い意味では無かろうか。ある状態に入るつまり移動する(昇天、つまり天国へ)、のだ。イク、ももちろん、状態の移動を表す。トランジット=トランス、だ。天国生きのバス。

Comeは古代英語では、やって来る、運命などが身の上にふりかかる、さらに(ある状態に)なる、という意味がある。岩波古語辞典によれば、行き(往き)の意味は、「実際的に、心理的にその人の現在地を離れて、あるいは現在地を経過点として移動するのが原義」とある: 「奈良時代から例があるにはあるが、ユキの形のほうがはるかに多く使われ、平安時代に入ってからも、漢文訓読体ではほとんどすべてユキを使い、女流文学でもユキを使うほうが多かった。」

1992/6
「人のことばや行為、いとなみ、さらには小説という人間の作品が投げかける「感動」に対しても、いつかぼくらはその場所から離れることを運命づけられている。感動をもたらしたものをその場から離れた場所で受け取る、それこそが人間の現実の事態であるとするなら、「歩く」ことはとてもたいせつな問題となってくるだろう。ここの描写や背景を超える、作品の最終的な眺望は「歩く」といういとなみを抜きにしては語れない。「読む」は読書の通過点にすぎない。そこまでを含めて考える批評がこの先求められるだろう。」

人間や動物がものを観るとき、2つの目(目の間の距離、が重要)で見るから物体の位置が定位でき、言葉や概念を備えた「知能」というフィルターを当てて観るから対象を文節、判定できるのだ。フィルターを当てる、ときの当て方は個人個人で異なるし、何秒の一かの時間を要する。この時間のずれ、をわたしは「歩くこと」として、受け止めた。

1992/11
「(文化人類学者)青木(保)氏はさきの論稿で「異文化」を「理解」しないのに「感動」するという現代の高度情報社会の人間の需要のありかたを不思議なものとしてみているが不思議でもなんでもない。どんな情報も意識的な文章の抱擁をうけるとき「理解」を通らない「感動」も可能になる。。。。」

感動は、理解に先立つ、ということ。しかし、そうばかりとは人間のばあい、いちがいにいえないのではないか?理解しなければ、感動は得られない、ということは大いにあり得る。むしろ、逆転する、のが現代では日常的、ではないか?詩人の断言には警戒が必要だ。

1993/5 (中野孝次批判)
「。。バブルのときにこそ人間も文学も、そのほんとのところが出た、という視点はないのか。そのへんに回り込むのが「清貧」をいう作家の文章のつとめだろう」

1994/11 (大江健三郎批判)
「大江が、自分の家族の問題が解決した、小説をやめるという話は(ノーベル賞)受賞以上に実は衝撃的だった。結局、家族のことだったのかと思う。でも個人的なことがらが人類の問題、魂の救済だということになると異論をはさめない。。。。。。人類的美談が、文学的幻想を超えてしまったのだから。その点、大江氏はタブーをひとつつくったことになる」

1995/1
「作家は人前で話すとき、原稿などというものをあらかじめ用意すべきでない、とぼく(荒川)は思う。。。。真の国際性というのは、誰と、どんな状況で出会っても、そのときの自分をありのままに表現できる人なのではあるまいか」

なにも、作家だけにかぎるまい。

1995/4 (オウム問題に言及)
「ことばではもはやなんの伝達もできず、単純にいえば、空気に毒物をいれることでしか主張できなくなったことを暗に物語るこの20日の地下鉄の惨事を思い出したい。いまひとは果たしてどこまでそこに、そのできごとに、自分の姿を見ているのだろうか」

1995/5
「。。。だがそもそも小説は(創作物すべては)誤読されるのがあたりまえなのではないのか。誤読、よし。読む人を揺さぶれそれでいい、それだけのものだという考えのほうが、文学の景観を守り、もしかしたら、彼らの登場を支えたのではないか。現代の作家には「自分」の書いたものが「正しく読まれる」ことへの関心しかないようである」

ちいと、違うだろう。「高く値踏み」してもらうことしか関心がないんよ。

1995/8 (「つるにちにち草」から始まった)
「母のない(ジャン・ジャック)ルソーが「お母さん」と呼んで慕った、ヴァラン夫人。まだ青年の彼は、夫人と二人で山歩きをした。そのとき夫人が、「この花はね、つるにちにち草、というのよ」と教える。青い花だった。そのあと、そのことをルソーは忘れた。
それから30年後、ルソーは山に登って、ふと同じ花をみつける。
「おや、つるにちにち草だ」(原語=アー・ヴァオラ・ドゥ・ラ・ベルヴァーンシュ)
そこで一気に夫人との青春の思い出がよみがえり、ルソーはよろこびの声をあげる。けげんそうな友人。でも、そういうささいな、他人にはわからない小さな記憶に人生の真実がある。はかないものこそ、かけがえのないもの。そのような記憶や経験を書き留めて生きようと、ルソーは心に誓う。「告白録」の有名な場面である。自分のいつわりのない人生をつづる。今日の小説の精神はここに誕生。以後世界中の作家たちに「告白録」は、はかりれぬ影響を与えた。
小説とは何か。「つるにちにち草」である」
http://home.q03.itscom.net/momo/harunosanpo1.jpg

わたしが、告白録を読んだのは高校生のときだ。桑原武夫訳、岩波文庫。
ルソーはしかし、彼の五人の子どもをすべて孤児院に送った人間でもある(当時、ジュネーブでは子どもの半数は孤児院でそだった)。ルソーは音楽家でもあった。いま、幼稚園で誰でもうたう「むすんで、ひらいて」を作曲したのはルソーだ。現在、わたしにとって、ルソーとは、「人間不平等の起源」、あるいは「社会契約論」、の著者として、農民市民を鼓舞し、フランス革命をやがて引き起こし、世界に近代の幕開けを告げた政治理論家として、ある。愛人のできたヴァラン夫人とも別れ、数々の友人もすべて失ったルソーはその後、精神を煩ってしまう。晩年はひとり、昔からの趣味であった植物採集にいそみながら往年を回顧する狷介な老人、あるいは、「孤独な散歩者」となった。ルソーは精力的に歩き回った。ものを考えるにも、散歩するか、身体のどこかを動かしていることが、私には必要だった、と『告白録』で述べている。

荒川洋治のこの本で久しぶりにめぐりあった『告白録』、これもわたしにとっての、つるにちにち草、である。岩波文庫に書店がかぶせてくれたカバーの色模様まで思い出すことができる。

1996/1 (村上龍)
「「すばる」のインタビューのなかで長谷川四郎の「シベリヤ物語」を読んだが「圧倒的に情報量が不足しているから」読めなかった、という。村上氏らしいドライな見方だがぼくはおどろいてしまった。文章が「物」になりきることを含めた言葉のもうひとつ深い働きが理解されていない。それが若さというものかもしれないが、散文と情報の見分けが付かない「文学」がこのさきふえていくとしたら、生きた文章を書く人たちは高齢化する。言葉をかえれば情報不足の人だけが人間をとらえていくことになる。何度も何度も橋の上で送り、送られるように」

村上龍は文学者ではない。IT作家である。

1997/5 (村上春樹、「アンダーグラウンド」について)
「。。。たしかに文学の言葉は、事実をありのままに伝える力量においては見劣りがする。だが、それらはしばしばであるが、普通人の言葉より洗われ磨かれ濾過もされ、そのことで多くの人のこころにゆくゆくはいきわたる。つまり迂遠なところに価値がある。村上氏はそうした文学言語の場を、文学のよって立つ場をすてたのだろう」

わたし(古井戸)は先日あるところにアンダーグラウンドについて、つぎのように書き込んだばかりである:

「村上アンダーグラウンドはまったく退屈であった。途中で投げ出した。なんのために被害者にインタビューしたのだろうか?オウム事件固有の問題は、電車内でサリン袋を傘の先で突き刺した瞬間に、ジエンドなのであり、その後の被害者のフォローは第2幕。オウムとは無関係の無差別殺人一般のはなしである。 村上はこれをどう理解しているのか?おそらく考えたこともないのだろう。この疑問は、アンダーグラウンドの次作(「約束された場所で、アンダーグラウンド2」)で、こんどは教団内部で修業している一般信者に対するインタビューで明らかになる。被害者へのインタビューとはうってかわって、「なぜ信者をやめないの?」と高飛車に信者に迫っているのだ。この作家精神というより人間としての浅さ、が村上だろう」5/2/06

1999/1 (辺見庸について『眼の探索』)
「人は作家に、思索ではなく文章を求めた。その文章によって、読者が思索へと導かれる。そういう関係だった。いまは読者が思索を作家にゆだねる。多くの読者は思索においても「自分」を使いたくないのである。それを作家が代行する。ここに今日、文章を書く人の晴れやかさと、痛ましさがある」

深く、共感。
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/archive/c306161

2001/2 (詩学序説 by 吉本隆明、について)
吉本隆明「わたしたちの意識の奥底には、どんなふうに言葉で述べても言い尽くせないものがかならず残っている。また意識がどんなに言葉で表現しようとしても、その意図に従わない無意識の欲求もありうる。この言い尽くせないものを言い尽くそうとすると願う精神がある限り、言語を<意味>でなくて<価値>で表現しようとする詩の本質にまつわる欲求が存在しうるというほかない」

この箇所をわたし(古井戸)は、単行本になった吉本隆明『詩学序説』で読んで、「価値」が何を指すのか判然としなかった。文脈として、社会的に流通している「ことばの意味(辞書にのっているやつ)」を<意味>といい、<価値>はその辞書的意味から漏れるもの、個人個人の抱いている心情のこと、あるいは個人的コノテーション、あるいは喩、と理解した。マルクス経済用語を比喩的に使えば、交換価値が <意味>、であり(市場で流通する用語たち)、使用価値が<価値>(個人独特の色彩を帯びた、他人に簡単に理解できぬ、言葉の個人的意味)。しかし、詩であれ散文であれ、およそコトバを使って何事かを表現しようとすれば、市場に出回った用語、つまり、交換価値の用語をいくらひねくりまわさなければならない、それを寄せ集めたところで、使用価値、を表現できる保証はないハズだ(そして、それを承知で登山を挑むのが、文学だろう)。文学者でない普通の人間は、自己の要求をあらかじめ社会的に配備されたサービスのレベルにまで下げる、という調整を行って納得してしまう。自己納得を行わせる制度が教育であり、この過程を<社会化>という。

荒川洋治はつぎのように納得している。
「<意味>ではなく<価値>に重点を置いて描写されるものが詩であり、<意味>伝達に重点を置くのが(小説などの)散文であると、吉本氏は述べる。明快である。ぼくは30年ほど詩のようなものを書いてきたが、<価値>という視点には正直おどろく。新鮮だ。詩についてまったく興味のない人もひょっとしたら同じような感想を寄せるかも知れないとも思った」

わたしは納得していない。現在存在する言葉とその意味(辞書にある)は過去の社会のゴミため、としてある。ゴミためから言葉を寄せ集めて、組み合わせ<なにか>を言う、それを<価値>といい、詩、と呼んでいる?なら、話は単純だが(詩、は可能なのか?という話は残る)。

若林真理子のエッセイ「ふる」はこの言葉の問題に関連する 2002/8:
<言葉の定義というものは、少なくとも、会話を交わして理解できる人と人の間で、共通したものがあるのだろう。私はあまりにもその共通の問題になじんでいるので、自分の言葉を定義するということは、常にひとつずつの「発見」である>

若林はこれを書いたとき、18歳、である。荒川はつぎのようにコメントする:
「正しさ、美しさ、「声に出して」の読み方(テキストも)と、日本語の本は「共通」になじむことを教える。規格を求める、弱い人間がふえたのだろう。ことばと、その人だけのかかわりを忘れない。それはことばを知ること以上にたいせつなことである」

規格を求める、弱い人たち。ことばだけの世界に限るまい。

<ことばと、その人だけのかかわり>。これをちいさいころから、たとえば小学校、中学校、で教えているか?教えていない。<辞書的定義>から離れてはいけない、いい点がもらえませんよ!と教えるのである。言葉で言い表せるものは、宇宙の、ほんの、限られた範囲のもの、とこと、でしかない、ことを教えること。 もの、と、ことは言葉ではくくり得ない、こと。 人生もそうである、と荒川は言いたいのであろう。

2002/9 (文学は実学である)
荒川洋治にとって、文学とはなにか、を簡潔に示す。この時評集の結論だろう。
「この世をふかく、ゆたかにいきたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚にめぐまれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである」
「文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと「実」の面を強調しなければならない」

異論というより、はるかに共感することの多い発言集、あるいは、啖呵集、としてこの時評集をおもしろく読んだ。じつは、最初図書館で借りて読んでいたのだが、ノートパドがあっというまに50個以上くっついてしまい、数年間は手元においておきたき書評集というわけで、新本を注文し、再度、蛍光ペンを引きながら読むことになった次第。文章は明快そのもの(ものたりぬ、ということでもある。明快であればよい、というわけにもいかない)。二度同じ箇所を読み直さなきゃならない、というようなことはない。全体を一日で読める。ただし、荒川(といわず、書物の著者であれば誰でも、望むらくは、だが)のコトバは、読者個々の体験を織り込んで読まねば、新聞のクンダラ記事の読み流しと変わるところはなくなる。

あわせて最近出版された全詩集(1971-2000)も購入。ガッツある詩、のオンパレードである。『荒川洋治全詩集 1971-2000』 思潮社 2001年。手持ちの谷川俊太郎の第3全集『詩集』2002年、とともに、当分、精神の栄養剤となるだろう。

本書に注文をつければ、文藝時評なのだから、作家別、作品別の索引くらいは欲しいところだ。 わたしは自分用に作家別索引をノートに書き込みながら読んだ。4ページくらいになった。Excelで整理して、ここに掲載しようとしたが、労の割りに役立ちそうにもないので止めた。

追記:
本作品は、第五回小林秀雄賞を受賞した。2006/8/28


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すずめ

詠美さまのファンの一人です(^^ゞ
「ご飯ですよ~」と食堂で呼んでいるとき、「はぁい今行きまァす」と答える。
I’m coming! と訳していいよね。。だから Come = イクでもいい、か。
ただ 英語で暮らしている人々は Gift に拘る気がする。なにかいいものは、
なにかいいものに変換できる能力は どこか外からやって来る、みたいな。
体位は別として、そのような感覚的ニュアンスの差は あるんじゃないかな。
by すずめ (2006-05-30 20:05) 

古井戸

近づく、入る、じゃないんでしょうか。
ユク、は移動、もしくは、連れ去られる~、運ばれる~という感覚、ですね。
(さいきん、ごぶさたーーー、じゃけど)

そのうち、そのときも、英語を使うように、文部省からお達しがあるかもしれない。

          Come Come Everybody!!!

まあ。。私的体験の領域でしょうか。あなたのユク、と、わたしのユク、カレシイのユク、が同じかどうか確認しようがない。 言語一般の問題でありますが。
by 古井戸 (2006-05-31 04:38) 

すずめ

Ecstasy comes to her who waits.
手に入れる って気分が強いんじゃないかなぁ。。
英語も得意じゃないけれど、宇宙人に出会った、なんてのは
この類じゃないかな、と感じたワケ(^^ゞ
by すずめ (2006-05-31 07:34) 

古井戸

主語は、 私、I だとおもいます。
     I come!

天国に、近づく!
  ああ、すぐ、そば!
   ああ、きた、ついに。
     はぅ!!!
こんなもじゃあるまいか?
  なんだか、スパムコメントになっちまったか? <- ほんまもん、コメントであります。
by 古井戸 (2006-05-31 09:16) 

NO NAME

エクスタシーのcomeはpasionからくるのでしょう。
pasionつまり、<情欲・熱情>などですが、キリスト教の<受難(the pasion)>の意味もあり、さらにラテン語起源は(苦痛)です。苦痛が行く(go)なんていうことありますか?どの国の言語体系にもおそらく存在しないでしょう。
どのみち受け身であるということです。
by NO NAME (2006-09-14 00:10) 

古井戸

pains go(away)ならあるでしょう?
エクスタシーの行く、は go ではない、と本文では言っています。
 いくいく、は go goではない。行く=go は、ばかのひとつおぼえ。
by 古井戸 (2006-09-14 01:10) 

NO NAME

わざわざ回答ありがとうございます。ちなみにあなたのいうのは―The pain has gone―痛みが取れたときの話で、私の言っていることと噛み合っていませんよ。
あなたが何かしらの苦痛を受けたとき「ぎゃあ、痛みが行く!」なんて言いますか?そういう話をしていただけです。だから、セックス時のイクイク=goなんていっていません。すり替えちゃだめですよ♪
ちなみにpainはもともとギリシャ語で『刑罰』。まあ詳しいことはちゃんと調べないとわかりませんが、comeというのは、結局のところ身体感覚と結びついた宗教的観念の名残り。というか、残りかす程度のものでしょう。たしか、バタイユあたりが明解に示していたはずですが。それにしても私は、何でこんなことを真夜中まじめに語ってるんでしょうか?(笑) お疲れ様です。ブログかんばってください。
by NO NAME (2006-09-15 00:50) 

古井戸

すり替え?はは。 いやいや、回答などしていると思わないでね。。ひとりごとだとおもってくだしゃんせ。昔の、話し忘はGO AWAY。すっかり忘れてますから。広島では、痛みが走る!ていいます。

行く=COMEでいいんでしょ?苦痛でも、快楽でも? 広島弁の痛みが走る!、もCOMEでしょう。英語で言うのなら。GOでもRUNでもありません。 ブログ、なかなかイクイク、じゃなくなった。

バタイユさんによろしく。
by 古井戸 (2006-09-15 02:00) 

NO NAME

それにしても。あなたも男だからわかると思うんですが、男にとってのセックスの感覚ではイク!もcome(これはもともと女のセリフですが)!もなんだかしっくりこない言葉ではないですか?
 
女性に「イッタ?」と聞かれたら、ただ「抜いたよ」とでも答えたくなりますよね。いわゆる『イッタ』という感覚はどうみても女のほうが気持ちよくみえてしかたない。でも、向こうから見たらこっちのほうがそうみえてしまう。快楽のパーセンテージを測定する機械とかあるんでしょうかね。すみません。人様のブログに猥談を書き込んで(笑)
by NO NAME (2006-09-15 22:19) 

古井戸

これはもともと、解決困難なもないだと思います。
「あなたも男だから」とおしゃるけども、他の男がどうか、なんて、誰にも確証する手段なんかないです。ましてや異性の感覚なんてわかるわけもないのに、わかったふりして書いている私もどうかと思います。もとはいえば荒川洋治が悪いのだ。。でも、批評家、とはもともとそれをわかったふりして書かなきゃならないのだから辛い商売だ。他人の快楽を客観的に「測定する器械」があったら、批評という商売はなりたたんですね。同情にあたいする商売です。 まあ小林秀雄賞で報いられたんだからいいでしょう。

前回、痛みが走る、といいましたが、これは
      <歯が>走る!
でした。走る、のなかに痛い、が含まれている(と解釈)。田舎の方言も歳を食らうとうろ覚えになります。歯の痛さは、ハシル~、でないとうまく表現できない、と廣島人の頭の中では。

こりずにまた、イッテくださいね。
 もとい、キテキテ~。
by 古井戸 (2006-09-16 12:05) 

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