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久し振りに、『福沢諭吉の真実』 [福澤諭吉]

久し振りに検索、<福沢諭吉の真実>。ブログいくつか。


http://plaza.rakuten.co.jp/boushiyak/diary/200701300000/
古井戸が木っ端みじんになっている(vs平山洋)、のだそうだ。


http://mesetudesenfrance.blogspot.com/2008/05/blog-post.html


http://www.ne.jp/asahi/wtnb/2000/recommend/genre5/hirayama.htm
。。。平山洋からのメールを掲載している。このメールを取っ掛かりにして、反論しておこう(私の過去のブログ内容から一歩も出ていない主張の繰り返しであるが)。

平川洋メールから抜粋:

1>最終段落にある疑問については、すでに数名の方から寄せられております。「そんなに石河が嫌ならなぜクビにしなかったのか?」という点は、拙著の最大の弱点にして安川さんらの最後の攻撃拠点とでもいうべき疑問でしょう。

その大まかな答えは拙著179ページ以降に書きましたが、やはり釈然とはしないかもしれません。福沢は時事新報をビジネスでやっているのであり、もしもっと理想主義的な主筆を迎えたら、発行部数が落ちる、ということを懸念したのかもしれません。石河の時局迎合性のセンスは誰もが認める(福沢も、私も)ところであったのです。

2>福沢としては、自分で全集も作ってしまったことでもあり、まさか石河が自分の死後、己を騙ってあんなことをするとは思っていなかったのでしょう。悪知恵の働かせようは、石河は福沢より一枚も二枚も上手であったのです。

3>かくして、「時事新報論集」における福沢真筆の発掘は、新約聖書におけるQ資料の探求のようになってしまったのでした。キリスト教になぞらえるなら、石河はローマに迎合した(と言ってしまうのは気が引けるが)パウロのようなもので、私はルターのような役割ともいえましょう。



## 以下、コメント。

2の、福沢真筆の発掘は、Q資料の探求のようなもの、と言っているのはビックリ仰天。Q資料はイエス刑死後の伝承を記録したものである。イエスがQ資料を読んで承認した、というものではもちろん、ない(イエスがQ資料作成と同時代に生きており、そのQ資料の内容をチェックした、というのなら別。福沢は社説の内容を読んでおり、社説執筆者は福沢の主張・持論は十分に理解していた、というのが私の理解。ルッターは私の理解ではドイツ語翻訳を行っただけ、であり、新約聖書の成立過程を吟味し、原典批判を(たとえば、わが国の田川建三のように)行ってはいないはずである。ところが、石河真筆!なる社説は福沢が読んでいたはずである。仮に一部しか読んでいないとしても、時事新報の社主は福沢であり、その社説は時事新報の意見、さらにいえば、福沢の意見である、と読者は想定しているはずである。そうでない、というなら誰の意見、執筆者は誰だと、読者は思っていたのだろうか。死後になって、あの社説(後期の時事新報)は福沢の意見に真っ向対立するものでありました!などという推論はジャーナリスト=福沢を侮辱しているのである。(福沢が惚けていなければ、である。呆けた人間が、日清戦争に多額の義捐金を出すのか?日清戦争勝利を欣快欣快、と叫ぶのか?(彼の手紙))西欧化、が福沢の立脚点であり、明治にあって帝国主義的対外進出こそが福沢の存在価値であることは、福沢ファン=平山洋ならとっくに承知しているはずである。

多くのブログが、社説、と、社主=福沢、それに、社説記者の関係を認識していない。社説を担当した記者が福沢以外であっても、福沢の意見と真反対の意見(婦人の道徳、とか、商売の心得、といった内容ではない。半島出兵、対清国戦争をおこなうかどうか、という意見だ)を掲載する、そしてそれを読者が読むのを放置する、という社主がいる、それが福沢である、とでもいうのだろうか?

すくなくとも、同時代の読者は時事新報社説は福沢の意見(筆者が誰であっても)であることを疑っていなかった。そして、福沢もそれを(そういう読者の認識を)了解していた。<- これを了解するのかしないのか、ということだ。

平山洋は、私のブログへのコメントで、日清戦争は侵略戦争ではなかった、普通の戦争であった、と述べている。これに対して私は、普通の戦争であれば(半ばはそうであろう、その当時の常識では。福沢は常識に棹さす主筆であった、ということ)、その戦争を支持するのは特段愛国者でなくとも、国民として当然の義務ではないか?であれば、戦争昂揚の記事を書き続けた石河こそ賞賛されるべきなのではないか(他の誰より、この戦争を普通の戦争という平山洋はなぜ石河を賞賛しないのだろうか?)、と疑問を呈したのだが平山洋は応えていない。 それとも、<あの戦争は日本が乗り出すべきでない帝国主義戦争、侵略戦争であった、それを言葉を連ねて支持した石河は許されざる存在だ>というふうに、平山洋は立場を変えたのだろうか?石河の社説を黙認した主筆・ジャーナリスト=福沢の態度は許されるのか?明治の時事新報社説の読者はダマされたのだろうか(昭和の岩波版福沢全集読者に至るまで)?読者が読むのは文字、であり、主張のハズである。石河がどのような主張を繰り広げようと言論の自由の下の行為であり非難されるいわれはない。福沢の主張と異なった主張を繰り広げようとそのゆえをもって非難されるものでもない(福沢の主張と異なるのであれば解雇すべきである。この点に関し、平川洋は弁護しているようだが私は未読。いずれにしても戦争支持の社説を書いたという石河を、その内容をもって非難するのは大間違いであろう)。讀賣新聞社説筆者が、ナベツネの主張をねじ曲げて社説を書いたことをもって、筆者を非難できるのはナベツネのみ(社内規則により処罰しようとそれは讀賣内部の問題である。ハナハダ問題のある社則であるが讀賣ならありうることだ)、であり、読者はあずかり知らぬことである。

平山洋の『福沢諭吉の真実』は、あとがきで、「福沢は、帝国主義的・侵略主義者か、市民的民主主義者か、という問い」を立てている。私は最初にこのあとがきを読んでぶっ飛んだのだ。対外的には帝国主義、対内的には民主主義者、というのは19世紀の西欧諸国(大英帝国に典型的)のジョーシキではないか。

戦後、発見された脱亜論として有名になった社説は福沢真筆であった、と不承不承、了承した平山洋は、この社説は発表された当時はまったく注目されなかった、と正直に書いている。注目されないのも当然だろう。朝鮮に見切りをつけた(ゆえに、武力進出を推進せよ!)のは、彼の従来の主張である半島進出(この強硬姿勢ゆえに明治政府から警戒された)なのであり、読者はこれを知っていたはずである。さらに、現在、福沢が策謀に深くコミットした朝鮮改革(クーデターのこと)の失敗、の結果としての脱亜論、であることが明らかにされている。

平成になって、福沢全集のなかの社説に石河幹明執筆のものが混じっている、と騒ぐ方がどうかしている。明治の時事新報読者は誰が書いたか、など意識もしなかった(現在の朝日、毎日、讀賣その他の新聞の読者が社説を何某が書いたか、などあずかり知らぬのとおなじ)。読者は時事新報社説と福沢の意見がまったく異なる、など想像もしていなかったろう(そして、その想像はかなりの確率で正しい、だろう、と私は思う。少なくとも、新約聖書のイエス発言が実際のイエスの発言である、と断じる以上の確信を持って)。内心、福沢がどう思っていたか?そんなことは福沢の墓を掘り起こして本人に尋ねるしかないのである。社説を担当していたのは石河の他数人いたはずである。社説には筆者など明記しないのが常識である(現在でも。筆者は誰か不明だが、讀賣新聞社説に、ナベツネの持論と真反対の内容が掲載される、とでもおもうか?)

福沢は時事新報主筆である。社説に彼の意見が大きく反映していると考えるのが正しいなら、明治の世論をリードした(すくなくともなにがしかの影響を与えた)のが時事新報である限り、筆者が誰であっても「福沢全集」に掲載するのは福沢の影響を知る上で意味のあることだ。実際に起草したのがだれであるか、とは別のことだろう。社説の<真筆>がだれであるのか、は、判明できた範囲で岩波書店のHPで明記しておけばいい話。社説を書くための専担社員(石河ら)がいたのは読者なら承知していたはず(だろう?)だ。社説、とはなにかを知っている者の常識である。半島進出の可否、が社説担当社員と、主筆(福沢)で真っ向対立する、それを主筆福沢が関知していなかった(ジャーナリスト福沢への侮辱)、あるいは、知っていたが放置していた、というのであれば、ニュースである(それを平山洋が特定したのなら平山洋の業績)。すくなくとも、日清戦争終結時までは福沢に身体障害はないはずだから、社主・主筆として社説内容の責任は取らねばならない。残るのは、誰が書いたのかを判定する方法の信頼性である。平山洋は筆者判定に採用した分析方法(井田メソッド)に100%の信頼性をおいている。はたしてそれほどのものなのか?かりに100%石河の筆になるものであったと断定できる(あり得ないことに思える。同じ意味でいわゆる『脱亜論』も100%福澤の真筆、とは断定できないだろう)、としてもこれはいわゆる偽書、ではない。社説の性格上福沢以外が書く機会があるのは当然のことであり、福沢が承認し、同時代の読者は誰が書いたかは問題とはされない(複数の執筆者がいたことを読者は承知しているのだから)。しかし内容は福沢が了承した、と読者はと信じている。わたしは、少なくとも日清戦争終了までは福沢のチェックが入っていたと考えるのが妥当だろうとおもう。

すくなくとも、明治の読者は、時事新報社説を誰の意見だと思って読んだのか?は明らかにする必要がある。主筆は複数存在した、社説はその個別の筆者の意見であり、時事新報社の意見(すなわち、福沢の意見)ではない、と認識していたのか?わたしは、そうではない、時事新報社説=福沢の意見である、と読者は認識していたし、福沢もそれを了解していた、と考える。福沢が社説も読めぬくらいに惚けだした(日清戦争終了前に、だ)、というのであれば、その事実をたとえば医者や家族の証言など添えて明らかにしてもらいたい(平山洋の新著ではこの辺が明らかになっている、と期待する)。黒澤明の『影武者』ではないが、すくなくとも、ジャーナリストが闘い終えて半世紀経過した時点で、真筆が誰であったか!と騒ぎ出すのはミットもないことであるし、<社説の真筆捜し>に対する基本認識が誤っている、とおもう。(日米安保に対するナベツネ=讀賣の論調、とは言うが、社説筆者誰それの持論、とは普通いわないものである。しかし、ナベツネ伝を書こうとするなら讀賣社説の参照は必須な作業だろう、ナベツネ自身は1行も社説を書いていないにせよ)。福沢全集に、時事新報社説として、福沢真筆でないものを含めてヨイのかどうか?これは、たとえば兆民全集、鴎外全集などとは、社説というものの性格上、別の判断が必要ではないか。福沢は主筆(社主)、を死の近くまで名乗っていたはずだ。

平山洋はブログあるいはHPのいずかで、福沢は自分の考えていることと違う内容を意図的に書くことがあった、と述べている。そうなると、たんに別人が書いたから、あるいは当人が書いたから、という事実をもって一律に全集掲載の要否は論じられないことになる。福沢真筆、と判明しても、署名記事でないものは全集から削除、ということもあってよいだろう。平山洋の言うように、福沢真筆でも福沢の言いたいことを意図的に偽って書く場合もある。福沢真筆でなくても福沢思想を体現している書き物もある、ということだ。
 

 
『。。真実』を読むと、石河幹明は日清戦争前の数年戦意高揚記事を社説に書き続けた、らしい(私は読んでいない)、が、このことをもって、福沢が市民的・平和主義者であった(反戦、反侵略論者)などと言えないことは小学生でもわかる。福沢が生きていればこういうだろう。「おいおい、平山君、曲解するのはいい加減にしてくれたまえ。石河君でなく俺が社説を書いたならもっと華麗な筆致で、説得力のある戦意高揚記事を書いたよ、あはは」。あるいは、「いやあ、石河君の草稿を読んだとき、驚いたよ。俺が書いたのか?とオモワズ眼をこすってしもうた。無署名記事だから俺が書いたもの、かどうか100年間は判別できないだろう。内容も俺が書く以上に素晴らしい。。引退してもいいかな、と思ったモンダ」。どちらだろうか?

 
『。。真実』は石河に対する罵詈雑言にあふれており、後半にくると読むのが辛くなる。石河をこき下ろすのは結構だが、それが、福沢護持の意図に反して、贔屓の引き倒しにならないか、と私は案じる。石河の視点にたてば、「俺は先生の鍛錬を受け、先生の意見を代弁しているだけだ」という意識であったのではないか(福沢もそう考えていたろう)。福沢のサジェッションや添削が皆無ではなかったろう。たとえば、ケネディ大統領の演説は全てスピーチライターの代作であるが、スピーチライターが自身の著作集にこの演説を含めることはしまい。ケネディ大統領演説集に当然入れるのである。後世の史家が、文体分析したところ、これはケネディが書いたのではない!スピーチライターがおのれの作品を「大統領演説集」にまぎれこませた!などと非難することは普通、ない。朝日新聞の天声人語は筆者個人の著作として出版することがある。エッセイと社説の違いである。100%福沢真筆のもののみしか福沢全集に入れてはならぬ、という原則をとるならば『脱亜論』をふくめ無署名の記事はすべて全集から削除すべきであろう。<井田メソッド>が現れるまでは誰の真筆か?など、明治の読者だけでなく、石河を含め、その後の誰も考えもしなかったことであろう(ケネディ演説を聴いてライターは誰か、などと詮索しないのと同じ)。「誰の真筆か?」と、石河幹明に(そして福沢に)質しても彼らは質問の意味を解しかねるのではないか。私の推測では、石河自身も多数に及ぶ社説のどれが福沢真筆、どれが石河(のみ、あるいは他の執筆者)の筆になるか、どれを福沢がどの程度筆を入れたのか、はどうでもよかったのではあるまいか。つまり、どの社説も福沢の見解を表明しているという自信があったのではないか。石河が全集編纂時に<井田メソッド>なるものを知悉していたとしても採用しないだろう、と私は思う。福沢の校閲をうけ、福沢の意見をおおよそ表現しているのであれば誰が執筆したかなど問題にならない、と考えたのではないか。福沢が草稿を書かなかった故を持って全集に不採用、などハナから念頭になかったのではないか。このような詮索は歴史家(平山洋)の仕事なのだろう。



上記、すべて従来の私の主張から一歩も出ていない。ブログ記事の繰り返しである。これまでのブログ記事同様、素人の意見として読み捨ててもらって結構。

安川寿之輔 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』 書評 [福澤諭吉]

                                          

安川寿之輔 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研)2006年7月刊行
目玉は、平山洋が井田進也のテキスト分析法(井田メソッド)に依拠して書いた本『福沢諭吉の真実』への反論。

平山(井田)『福沢諭吉の真実』の論点は次の通り:
1 石河幹明(福沢の弟子で、時事新報社説の主筆になった)が福沢の死後編集した福沢諭吉全集のうち、時事新報社説には、福沢真筆でないものが混じっている(福沢がまったく一文字も書いていない社説)。
2 しかも、このなか(石河執筆)には、日清戦争を賛美した社説がおおい。
3 福沢をして朝鮮中国侵略者というのは虚像であり、福沢は市民的民主主義者である。石河はおのれの侵略思想を福沢の威を借りて広め、福沢にありもしない侵略主義というレッテルを貼り付けるのに力を貸した。。
以上である。

安川は 井田メソッドのいい加減さを、この本で証明し、巻末には、平山・井田が 福沢真筆でないとした論説 約140編のリストのそれぞれを検討し、ほとんどすべてを 福沢真筆(あるいは福沢が深く関与)と認定し、平山・井田説を覆している。

平山・井田がどう、応答するのか見ものである(しかし、どっちに転んでも下記の通り私の意見に影響するところは少ない) 。

わたしはブログ記事で平山氏と数回、応答をしたが、初期の私の考えは微動だにしていない。『福沢諭吉の真実』がなぜ、馬鹿受けして批判書評が見あたらないのか全く不思議千万である。書店の新刊として『福沢諭吉の真実』を立ち読みしたときからこの書物の怪しさ、立論の脆弱さ、はわたしにとって自明だった。

私の論点:
1 福沢は、侵略主義者か、市民的民主主義者か、という択一問題にするのは(平山洋氏のみかた)、その設定自体が誤り。福沢は、その両方を兼ねていたのである。英国を見ればわかろう。国内では民主主義、海外へは侵略、というのは19世紀では常識であった。福沢はその世界潮流に棹さしたにすぎない。そもそも、思想家の思想は変化するのが常識である。(井田メソッドも 初期から晩年にいたる福沢諭吉が使用するボキャや文体に変化はない、という 想定のもとに、文体を分析している。なにおかいわんやである)

2 書簡などをみてもわかるように、時事新報社員や石河のような主筆(福沢自身は社主であり主筆であった)にとって、福沢は絶対的存在である。福沢は、社説をチェックしていたし、主筆に対し、こういう海外の出来事をニュースに取り上げたらどうか(取り上げたまえ、ということ)と指示しているし、旅行に出かけた福沢に、主筆が時事新報の記事内容を打診している。そもそも、政府から監視されていた時事新報の記事とくに社説に福沢が無関心でいられるはずがない。福沢の意見と反対の意見が社説として掲載される、と考えるのがどうかしている。石河等は、福沢の思想を吸収し、文体も真似たに違いないのである。 社説の論調が執筆者により揺らぐことを福沢が許すわけがあるまい(たとえば朝日新聞社説の内容が執筆者により大きく変動することはありえない。そのようなものとして読者は購読している)。したがって仮に石河が書いたとしても、それを全集から省いては福沢真筆社説の意味も測りかねる事態が生じよう。個人論文と、社説では事情(全集収録への判断)が異なる、ということ。
(追記:ブログで書いたが福沢書簡集には主筆への指示が数少ないが収録されている。福沢の自宅と、時事新報社屋の位置関係を知らないが、福沢は主筆らに記事内容(その他、社の運営)を細々指示していたのではあるまいか。あるいは、記事の内容についての意見など。郵便はあったろうがそれほど便利ではなく電話はなかったろうから、福沢家の使用人が福沢メモをもって時事新報社まで頻繁に往復したのではあるまいか?)

3 すくなくとも、時事新報の読者は時事新報社説を福沢が執筆したとおもっていたはずである。あるいは他の主筆が書いたとしてもその見解を福沢のものと異なるとは夢にも思わなかったろう。福沢もそれを承知していたろう。
4 したがって、かりに、福沢全集に 福沢真筆でない社説が掲載されたとしても、その社説を削除する必要は全くない。なぜならば、福沢は上記のように社説の内容を了承していたからである。時事新報社主、としての社会的地位にある福沢は時事新報に掲載された社説に責任がある、ということである。この責任をかりに他の主筆が執筆したから、という理由で解除することは言論人に対する侮辱だろう。平山氏の著書はしたがって『福沢諭吉の真実』ではなく『福沢諭吉全集の真実』にしたほうがより、真実、に近い(井田メソッドが、正しい場合、は、のハナシだが)。くりかえすと、時事新報社主としてのイデオローグである福沢を評価したいのならば、福沢真筆かどうかはもとから問題ではない。社説にあらわれた意見に福沢は責任を負っているのであるし、福沢はその程度には無責任男ではない、と、思想家=福沢、に対する尊崇の念をもつべきだろう。全集の時事新報社説は筆者を特定せずに発表されたものである、筆者は読者が勝手に推測すればよい、とおもう。(あたかも当時の読者がそうしたように。社説は無記名で発表されたのである)。これで石川幹明問題などは霧散するであろう。

5 おまけだが、ブログ記事の最初に平山氏は 日清戦争は侵略戦争ではない、当時あった、普通の戦争のひとつでしかない、と私に回答されている。であるならば、戦争を支援し、義捐金(福沢は個人で多額の義捐金を供出した)を供出し、経験したことのない規模の対外戦に消極的な国民を叱咤激励尻押しするのは国民として、言論人として当たり前の行為である。であれば、石河幹明らが戦争賛美した、と非難するのはおかしくないか? 石河幹明こそ勝利者であり、国に寄与したのではないか(福沢が晩年、石河らに社説を任せっきり、チェックもしなかった、という平山説を採った場合こうなる)。福沢全集に福沢真筆でないものを入れてもたいした瑕疵ではない、と記事では茶化しておいた(さっそく、<名無しさん>から、馬鹿じゃないのか、とコメントをもろうたが)。

福沢&時事新報に関するブログ記事(平山氏との応答など)は↓の カテゴリ=福沢諭吉。
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/

記事の要点は↑に書いたとおりなので、このブログ記事読む必要はない。なお、わたしは、福沢諭吉論としては、遠山茂樹著『福沢諭吉』(東大出版)を名著とおもっている(ブログに書いておいた)。平山氏は遠山を仮想敵として本を書いているようだ。しかし、両書物の格調の差は歴然としている。

安川寿之輔には、福沢諭吉(&彼を持ち上げる丸山真男)にかんする批判的な著作が数冊ある。平山洋氏も 安川の著作から福沢を擁護するために 福沢諭吉の真実、を書いた、と後書きで言っている。

参考:
米原謙による平山、安川両氏著作への短評:
http://www2.osipp.osaka-u.ac.jp/~yonehara/trend_1.041010.html


諭吉と長沼事件  明治14年政変など  (福沢、その10) [福澤諭吉]


                 
                   印旛沼@2006/2月撮影。



福澤諭吉全集9-18巻を図書館から借りた。(昭和35年刊行)
社説その他時事新報からの論説抜粋である。時事新報記事は当時、凡て無署名であったから、当時の事情を知る社員、石河らの記憶に頼って編集されたものである。

月報に 長沼事件のことを、当事者が書いている。
長沼部落(現在成田市、印旛沼の近く)では江戸期まで、農民達は田畑や沼からの農漁業収入により暮らしており、ちゃんと藩に納税もしていた。ところが、明治政府になりこの入会地が国有地として没収されたのである(近隣地域の謀略、もあったらしい)。この部落の人民が苦しみ、当時、福沢の『学問のすすめ』を読んで感激した住民のひとりが東京の福沢に会いに行き窮状を訴えた。福沢は同情し、八方手を尽くして、この農民達を救ったのである。

福沢は直後に脳溢血で倒れ、うわごとで、
  ナ、ナ、
と、声を出したそうだ。
  先生!長沼のことですか?
と問いかけると、うなずいた、という。

http://nandemo.city.narita.chiba.jp/category/1-chiiki/1-2toyosumi/1-2-38%20naga-kinenhi.html

(長沼事件については、後で補足したい)

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坂野(ばんの)潤治の『明治とデモクラシー』(岩波新書)が明治14年政変の福沢(派)の関与についてコメントしている。p72
(当時、憲法起草に様々な案が入り乱れ、福沢は元々イギリス風の議院内閣制を支持、これがタマタマ大隈一派と一致したから、福沢=大隈がつるんでいる、と反対側の伊藤らににらまれていた。結果、大隈一派は政治主流から追放された)。

坂野は、福沢と大隈の誤算について、次のように言っている:
「(福沢派の誤算)
。。福沢の「民情一新」は、ヨーロッパのような専制と急進の対立を日本では避けようとして、イギリス流の二大政党の導入を提唱したものであった。その福沢が、わずか二年半前まで「君主専政家」として知られていた大隈重信と接近したのは、功を焦ったためか、または自派の隆盛に眼がくらんだものとしか、いいようがない。福沢の頼るべきは14年1月の当初の会談相手で、政府内では「英国人の如く相成り、その勢いを以て帰朝」とまで言われた井上馨の方だったのである。

(大隈重信の誤算)
福沢が井上馨を捨てて大隈を選んだことが誤算であったように、にわか仕立ての議院内閣制論者になったことは、大隈重信にとっても、大きな誤算であった。彼は反国会派の黒田(清隆)からも国会論者の井上馨からも、機会主義者として反発されたのである。。。

黒田は大隈の裏切りに激怒した。。。

井上馨も、大隈との絶縁を伊藤に提言している。。。

井上馨の(伊藤への)手紙の3日後、黒田の手紙の翌日から、天皇の東北・北海道巡幸が始まる。大隈がそれに随行して、二ヶ月にわたって東京を離れたのは、信じられないほどの愚行だったのである。」

しかし、坂野はこうもいっているp79。
(イギリス流の大隈・福沢派に対抗して、ドイツプロイセン憲法を模範として井上毅がはたらきかけ、井上馨まで、はっきり、イギリス流を放棄するむね、伊藤に進言した。。。)

「イギリスの立憲君主は名ばかりで、慣習的にはアメリカの共和制に近いから日本への導入には適さないというのである。これはこれで相当の卓見であろう」

ここから、大隈の参議罷免、民権派の挫折から、大正デモクラシーへの流れをくっきり描いている。実力派学者のなせるわざ。

##
以下、昨日書いたコメントから切り貼り:
坂野潤治「明治デモクラシー」岩波新書、は北一輝が主題ではないが、福沢、兆民、枝盛の三巨頭?に加えて、美濃部達吉、それに 北一輝、ついでに吉野作造、が実に簡潔に描かれていますよ。北一輝の扱いは、この種の本としては異例じゃなかろうか?

なにしろ、「はじめに」の書き出しが。。。、
「明治維新が民主主義に向けての準備を欠いた、早産した近代革命であることを指摘したのは、日本のファシストとして有名な北一輝である。。。

この北一輝の指摘は、歴史的事実とピタリと一致する。。。」

それに、最終章のおわりちかくp212
「。。この名著(国体論及び純正社会主義)が自費出版であり、大作すぎ、発売禁止になったことは、おそらく不人気の主因ではなかったであろう。主因は時期が早すぎたことにあったように思われる。次節で検討する吉野作造が登場して人気を集める第一次大戦前後に北のこの著書が刊行されていれば、青年将校の代わりに大学生がこの名著を廻し読みしたのではなかろうか。」
##

立花隆が さいきん、「天皇と東大」を書いたが、東大法学者美濃部達吉や穂積八束らの憲法論をわがものとし、それを揶揄し、深化した 北一輝をどのように扱っているのだろうか? 北一輝にページを割いていないようでは立花の本、読むに値せず、といっておこう。本は分厚けりゃいいってもんじゃない。 三題噺、じゃないが、 天皇、 東大(学者)、 とくれば、まっさきに 北一輝、になるハズなのである。(この本立ち読みしたが、東京大学、帝国大学、東京帝国大学、とこの大学は呼称を都度変えたが立花の本、すべて 東大、で通している。いいんか?)

最近刊行された「国体論及び純正社会主義」。みすず版全集よりだいぶ読みやすくなっている。
http://www.shoshi-shinsui.com/book-kita.htm


コメント回答、時事新報社説というもの、および 坂野潤治による脱亜論の読み方  (福沢、その9) [福澤諭吉]

4/27日9:00am 追記: 
井田進也『歴史とテキスト』から福沢社説の成り立ちについてやや多めの引用をした。中ほどの部分、●******で囲んだ。 この引用部分だけでも読まれると 時事新報社説がどのような経緯でできあがったか、理解できると思いますので 是非是非 お読みください。

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最近、とおりがかり氏が「福澤諭吉の真実、再読」という記事に次のようなコメントを加えている。

「文章を書くものが一番やってはいけない、偽造という行為を働いた石河を勝利者として誉める古井戸という人間は、頭が腐っているのではないか?
もし石河のような行為を認めれば、全ての学術資料は意味を失う。
それは地理・時代にかかわらず、古代であろうと戦時下であろうと、あるいはどのようなイデオロギー・思想を持とうと、学に志すものの根本的な道徳である。
それを破った時点で、石河には弁解の余地のない罪悪があるのである。
古井戸とやらには猛省を促したい。」

せっかくのご注意だが、猛省する必要を認めない。
石河幹明の役割に関すること、時事新報に対する私の見方、福沢の役割は、最新の記事「脱亜論 アジアは<アジア的>か」に書いたのでそれを読んでもらいたい。一応次に要約しておく。

これは社説である。すべて、福沢が校閲済みの。
気に入らない内容なら福沢が全文、あるいは半分書き直したり、添削できるし、している。
全集という名前が、気に入らないなら、時事論説社説集、福沢校閲、として(頭で切り替えて)読めばいいこと。100%が福沢の文章か、添削を加えたから10%しか福沢の手がはいっていないのか、それとも、福沢が添削無し、として100%主筆(石河など)の文章をそのままのせたか、は当時の社説読者にも、知りえないことであり、そのような目を以て時事新報(のすべてではなく、ほんの一部だろうが)を全集で読めるのはとてもよいことだ。社説とはもともとそういうもの、偽造、などという見方は当たらない。

全集編纂に当たった石河にとって、10年~20年以上昔の 朱筆(福沢の) 入り生原稿でもそろっていない限り、どれが、真筆だったか、あるいは90%手直し?だったかを探るのは無理だったろうし、そんな努力など、意味がない、と石河がおもった、と考えればよいのでは(つまり、校閲済みならば福沢のもの、であり 100%福沢執筆のものを全集に掲載することなど毛頭頭になかった、と)?
つまり、当時の読者が社説を読んだであろう目で(誰が書いたか分からない、しかし、福沢が校閲済み)読めばよい。(と、石河も考えていた)

福沢執筆、といわず、福沢校閲、といえばよいのである(もっとも、福沢がいい加減にしかチェックしなかったのか、じっくしとながめつすがめつしながら読んだのかはツマビラカにはしないが)。
注: 時事新報はその過激な意見ゆえ、政府から監視されていたのであり、従って、福沢も内容には敏感であったはず、と、すでに述べた。

全集には真筆(100%自分が筆を執って書いたもの)のみを載せるという考えは、記事でのべたように井田氏もとっておられるようだが、時事新報社説(複数が執筆、福沢が添削)にかんしてはそんなセセコマシイ道徳など、勘弁してちょ、というのが私の考えなんですよ。(論文著作権とかオリジナリチとかを後生大事に守りたいという研究者の職業的発想と読者の要求は相容れない、当然のことだが)
注:100%福沢真筆のみを掲載した時事新報社説集と、当時の読者が読んだであろうすべての時事新報社説を掲載した 時事新報社説集のどちらが有用か、どちらを読みたいか、ということ。

 <偽造という行為を働いた石河を勝利者として誉める古井戸という人間は、頭が腐っているのではないか>

「侵略を煽ったりしなかった」(平山さんはそう読んでおられる)福沢が 自分では、対朝鮮対清国への敵愾心を煽るような社説を書かず、石河などに煽るための社説を書かせ、自分はそれを校閲していた、というならば 石河の勝利、といったのであります。なぜなら、平山さんは日清戦争は侵略戦争ではなく、通常の戦争であった、とおっしゃっているのだから。通常の戦争なら国民に戦意昂揚するのは悪いことではありますまい。戦意を煽った社説を「乱造」した石河を勝利者、とだからいったのであり、偽造がどうとか言う問題ではありません。

福沢が生存しており、社説を校閲していた時代に、社説の「偽造」もなにもありません。偽造社説が時事新報に掲載された?

勝利者、といったのは、平山さんのいう普通の戦争に対し、福沢がビビって戦意昂揚社説を書かなかったが、石河は戦意昂揚社説を「乱造」(平山さんの用語)したこと、と、全集の「偽造」(わたしは上記の通り悪意あってとはおもっていない)を100年以上みぬけなかったのは石河の勝利、といったのです。義戦なのに積極支援しない福沢は、犯罪人ではないか?とも書きました。

つまり、揶揄しているのですよ。

そんなことはないでしょう、と。福沢もせっせと国民を煽ったし(つまり、犯罪人ではなかった)、石河も師の心を推し量って、戦意昂揚社説を乱造したのでしょ、と。

●****追記4/27 8am****
井田進也『歴史とテキスト』から引用
p15
「しかしながら、兆民と福沢とでは文体も新聞雑誌への関わり方も異なるから、兆民全集の認定法をそのまま福沢全集に持ち込むわけにはいかない。兆民全集の場合、兆民が主筆を勤めた新聞雑誌では、他の論説記者はそれぞれ独自に執筆していたから、兆民自身の文章を選び出せば良かったともいえるが、福沢全集では、門下の少壮記者が起草した文章に自在に手を入れ、ときにはフリーパスにしているため、同じ論説でもどの部分が福沢でどこからがそうでないか、あるいはまったく、関与していないかを一々判別しなければならないからやっかいである」

p16
「そこで、全集に収録されたか否かを問わず、すべての「時事新報」論説を福沢自身が書いたと判断されるものから、少壮記者の文章をそのまま載せたと考えられるものまで、関与の度合いによって、ABCDEの5段階に評価することにした。。(その場合、福沢文と認定しうるのは、A段階ならびにほとんど福沢というべきB段階くらいまでではなかろうか)」

「日本臣民の覚悟」は。。。全編にわたって石河の筆跡が顕著で、例の通り分解してみると、論旨がなかなか定まらず、瑣事に拘泥していたずらに冗長な悪文が浮かび上がってきて、福沢が手を入れたのは攘夷論流行の往時を回顧する部分と、韓愈の引用の2カ所程度と考えられたので、有名論説にもかかわらず評価はDとした」

p18
「。。「東洋の波瀾」が福沢筆でないとすれば、「脱亜論」を準備したとされるその他の論説はどうなっているかとの思いに駆られて直ちに稿を起こしたものである。論説の選択に当たって遠山茂樹氏の『福澤諭吉』に従ったのは、丸山(真男)説で回避された日清戦争期の論説群を逐一編年的に検討するという、同氏の歴史家としての手堅い手法に共感を覚えたからである。ただし、調べてみると「 」「軍事支弁の用意大早計ならず」「戦争となれば必勝の算あり」「御親征の準備如何」等の有名論説が高橋、渡辺らによるD,E段階のものとわかり、前稿で侵略主義的、皇室中心主義的色彩の濃いものほど両少壮記者の「血気」のなせるわざであるとした結論が再確認される結果となった。「脱亜論」の周囲に半世紀来立ちこめていたキナ臭い咽霧を吹き払ってはじめて、福沢がこの論説に託した意図も明らかになるはずであり、前稿以来福沢をして福沢を語らしめよと訴えてきたのもそのためであった」

p27
福澤諭吉『時事新報』論説の真贋
「福澤諭吉は明治15年(1882年)に創刊した『時事新報』紙に同31年9月脳溢血の発作で倒れるまで、毎日のように論説記事を書いていた。みずから筆をとらない場合は、石河幹明らの弟子たちに口授、加筆しすべての論説に少なくとも目を通してゴーサインを出したといわれる。ともあれ『福澤諭吉全集』の大冊21巻のうち『時事新報』論説だけで9巻にもなるのは、いかに福沢が長期間、精力的に執筆したことを認めるにしても人間わざとは思われない分量である。それらは全部福沢の思想を代表しているのだから福沢だ、といわれれば、まことにそのとおり、福沢一門の思想と考えればすむことだが、著者本人が書いたものを集めるのが全集だという、これまたしごく当たり前な全集観からすると、かりに本人が(著者が、ではない)目を通しただけの作品が混入しているとしたら、やはり特殊な全集と言うことになりはしまいか。全文口授の場合はともかくも、加筆にはそれこそピンからキリまで程度の差があり、福沢全集への論説の採否は永年福沢の身辺にあって事情に通じた石河幹明が『時事新報』の切り抜きと自身の記憶をもとに決めたといわれるから、その際、選択に迷わなかったとすれば嘘だろうし、記憶に誤りがなかったともいいきれまい。あえて極端な場合を想定すれば、福沢でないものが前週に入り、福沢自身のものが落ちていることだってありうるのではないか」

古井戸コメント: 
平山さんの場合ととおなじく、井田さんのような専門家にコメントするのもなんですがー。 「著者本人が書いたものを集めるのが全集」とか「特殊な全集」とかいわれてもそれは、福沢の立場(時事新報社説とのかかわりかた)が 他に例を見ないほど「特殊」なことの反映だから、ことさら特殊さを避ける必要もない。福沢のような多面的な人間の著作を 古くさい「全集概念」に封じ込めようとするのがそもそも「無理」なのでしょうが。明治の読者はそのような「特殊な」社説を読んできたのである(あるいは読まずに放置)。

「それらは全部福沢の思想を代表している」と考えなくてもいいでしょう。現在の全集読者は、「福沢がゴーサインを出した」社説であることを知ったうえで読み、福沢が直接執筆しないものも混じっている、そのような社説を「全集で」読者がどう読むかは、読者に任せればよい、と考えます。 100%福沢が書いたもののみを全集に入れる、というのもありだろうが、どのような社説に手を加え、あるいは、手を加えず、ゴーサインを出し、読者に提供したかも、福沢を知る上には不可欠と考える故。

たとえば、井田氏は。。

前稿で侵略主義的、皇室中心主義的色彩の濃いものほど両少壮記者の「血気」のなせるわざであるとした結論が再確認される結果となった。。

と言っているが、少壮記者の書き物は、その前に福沢自身がそのような考えの持ち主であることを表明したからに相違あるまい。質(内容)は福沢が定め、修辞(量、強度)は弟子等のつくりものとなった。 あるいは濃くしたのは記者であったろうが、色彩を定めたのは福沢である、福沢ならもっと陰影のある、有効な一打を放ったかも知れない。

また、井田さんはつぎのようにもいう:

。。福沢をして福沢を語らしめよと訴えてきたのもそのためであった

はたして、福沢「真筆」だけを寄せ集めて、「福沢をして福沢を語らしめ」ることになるのだろうか?
わたしなら、「時事新報社説」をして「時事新報社説」を語らしめよ、といいたいところだ。あるいは福沢など当時の時事新報読者にとってはバーチャルな存在であり、眼前の時事新報テキストのみが真実、である。。

このような事情を知って読めば、全集社説もひときわ陰影深いものになるハズなのに私程度の日本語能力では論説ひとつまともに読めない(おそらく。。)、とあれば、日本語能力欠如がいまさらながら恨めしい。

井田進也の上記指摘を受けて社説を引用した、あるいは思考の材料にした歴史家は(遠山を含め)このテキスト分析の結果が 自分の著作や見解に影響を与えるか、あるいは与えないかを明示して欲しいものである。テキスト分析手法自体への異議を含め。
これに関して、容易に手に入る論文や著作などをご存じでしたら是非、ご教示いただきたい。
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「脱亜論」解釈について。

平山さんは著書の第五章「何が脱亜論を有名にしたのか」で、有名でもなかったしする必要もない脱亜論を有名にした「犯人」さがしをやっておられる。

平山さんは、p126以降で、脱亜論の解釈として坂野潤治が選集第7巻(81年)の解説で述べている、脱亜論は 「朝鮮の近代化に寄与したいと望みながらそれがかなわなかった挫折感を表明した一種の敗北宣言」とみなす読み方、に賛同し、本章で使用した、と述べておられる。 なかなか文学的な読み方であるが、敗北宣言のつぎに何が来るのか?という想像力は歴史家らしく控えておられる。

坂野潤治による、その先の読み方を紹介する。

坂野潤治は89年に刊行した「近代の出発」小学館で、脱亜論についてつぎのように述べている。p82以降。
##
注意して読むと、明治14年から18年にかけての福沢の議論は支離滅裂である。壬午事変の前には、欧州列強のアジア侵略から朝鮮と中国をまもるのはアジアのなかでただひとつの文明国の仲間入りした日本の義務である、と説いた。壬午事変にさいしては、日本政府は中国との一戦を覚悟しても朝鮮をクーデター前の状態にもどすべきである、と説いた。

。。

それから3年もたたない明治18年3月の脱亜論では、欧州列強の中国朝鮮への侵略が切迫し、この両国の近代化を待っていたのでは日本の独立すら危うくなるから、日本は朝鮮の近代化もあらためて欧米列強の東アジア分割に参加すべきである、と論じている。
しかも、福沢に大転換をせまるような欧米列強の東アジア侵略という歴史事実は、どこからもみあたらない。
。。。

要するに福沢は、欧米列強の東アジア侵略の切迫という架空の脅威を強調して、清国と朝鮮反日政権にたいする日本人の敵愾心をあおったにすぎないのである。
##
以上、これが89年の坂野潤治による脱亜論の読み方である。

坂野潤治は田原総一朗との最新対談本で 北一輝を 美濃部達吉につらなる天皇機関説を唱えた、完全な社会民主主義者として、かなりページを割いて紹介している。


脱亜論 アジアは<アジア的>か by 植村邦彦  福沢諭吉の真実、その8 [福澤諭吉]

                
国営放送から高らかな宣言が流れてきた。。

『不平等条約治外法権の下にあるニッポン国、今日の謀(はかりごと)を為すに亜米利加国の恫喝に阿(オモネ)り。ニッポンからの亜米利加軍の移転は、ニッポン国都合により実施するのじゃからとて、移転先グアムのニュータウン建設および施設負担金の出費を強要され、ああせい、と言われれば、へいへい、こうせいと脅迫されればはいはいと大股開きの所作に出ずるなり。それでなくっても、ニッポン、G7に列席認められるも、国連分担金だけはたっぷり搾り取られ、あ~う~外交を同盟国たる亜米利加にも小馬鹿にさるる。。 (雑音激し、聞き取れず)。。。されば、同盟国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに世界の人々がこれに接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免(まぬ)かるべからず。我れはここに於て悪友、亜米利加国を謝絶するものなり。。。。』 脱亜米利加、略して脱亜論、といへり。

。。。とここまで、聴いて、はっと、目が覚めたら、。。つけっぱなしのラジオからTBSニウス解説が流れてきた。。
いわく、
「米国が沖縄からグアムに移転するにあたり、グアム島に軍人と家族用にニュータウンを建設する必要有り、ついては、これに要する費用一兆円+の
                      59%
をニッポンが負担する、と。これ、オリエンタルな被恫喝国の防衛長官が、恫喝国亜米利加の国務長官に緊急呼び出しをくらい、長時間コンコンと説教されたあげくの果て、得た結論であると。。米国の主張70%日本負担、ニッポンの主張50%を足して2で割ったもの、という。。60%を59%にした、このセコサ、を泣いて、笑っていいのでしょうか?スーパーマーケット的値付け交渉。。。悲しき防衛長官、ニッポンの世論がどうのこうのと泣きついても、まるでヌカガに釘。」

交渉終了後、ニコニコにっこりラムズフェルトに肩おば抱き寄せられ、牛肉一トンおみやげにもろうたとか。背骨付き。

##
さて、昨日近所にオープンした本屋で、
植村邦彦 の新著 『アジアは<アジア的>か』 (ナカニシヤ)
を買った。日本のアジアをめぐる言説の歴史、アジアのイメージを、ヘーゲル、福澤、竹内好などを引用しながら描いている。久々に、羽仁五郎の名前も見た。300ページ弱、はちと主題に比して物足りないが。。(1千ページくらい。。を期待ね)。

第8章は アジアの盟主と脱亜
福澤脱亜論の意味をさぐっている。

p175で
「この脱亜論に関しては、著者問題が提起されたことがあった」

と、井田氏とここで論議した平山氏の著作に言及し、次のように書いている。

##
「。。しかし、この著者問題の提起者も「脱亜論」は文体や内容からして福澤の「真筆」だと認めている。したがって、1885年に福澤が東アジアに対する帝国主義的な植民地主義政策を自覚的に選択するにいたったことには疑問の余地はない。」
##

用心深い福澤自身が、「帝国主義」「植民主義」という文字を書くわけもなかろう。
井田進也著『歴史とテキスト』(光芒社)を昨晩さらりと読んでみた。西鶴兆民福沢らのテキスト分析に関する本である。福沢全集編纂に当たり膨大な時事新報社説から収集、選別した石河に対し、井田は、

「福澤諭吉伝の著作とともに、石河の功績には深甚の敬意が表されてしかるべきである」p42

と述べている。井田の専門は兆民である(兆民社説集を編纂し岩波文庫として刊行)。そのテキスト分析手法もおもったより、単純。カード方式でなく学生を動員してパソコンを使えば遙かに高速で、厳密な分析ができるだろう。。

福澤社説について、問題なのは、後年とくに福澤の体力の衰えと多忙により福澤以外(石河など)が執筆したもの、や、福沢の口述筆記が多くなったことだ。 ただし、である。 福澤はその「すべて」に目を通しているのである。もちろん、福澤自身が直接執筆した原稿をチェックするような人間が時事新報社にあろうはずもないが、福澤以外の書いた社説は福澤が大なり小なり手を入れた。井田は、その、手を入れた分量の多寡により、論説に ABCDEのランクをつけたのである。(福澤は、知人に対しても懇切な文章の添削指導を行っていることが書簡を読んでも分かる)。社説の添削というのは大変であったろう。締め切りに追われているのだから。下手をすれば全文書き直したほうが早くなる。大まかな内容に異存がなければ、語句選択に多少の問題はあろうと、OKになったようだ。どうしようもない場合は削除し、福澤が新稿を追加した。

しかし、問題の「脱亜論」についていうなら(これは遠山もいうようにその数年前に福沢が書いていた外交論からの流れのうち脱亜オプションに、スイッチオン、したにすぎないものだが)、この主題をこれほど、サラリと書ける人間が当時数千万のニッポンジンのなか、福澤以外にいようはずもないシロモノであろう。これが福澤真筆と認定されたのは、無論、福澤の名誉でも不名誉でもないが、万一、井田メソッドが 「福沢の真筆にあらず」と認定したということになれば、その「井田メソッド」そのものが疑われるほどのものだろう。結果は、井田メソッドにとっては名誉なことであった。

社説は通常の著作とは異なる。すべての社説に福沢は目を通していたことが重要なのである。重要な論調のポイント切替を福沢が行った後、高橋や石河ならすいすいとその路線に従い、社説は書けたであろう。彼ら主筆はその程度には日々、福沢の文章を、目をこらして読み、福沢になりきっていたということだ。数十編に一編は、福沢が全く手を入れない社説、というのも当然あり得たろう。その程度の書き手にならなければ、福沢校閲の下で時事新報社説など、そもそも一行だって執筆などできようはずもない。(朱の入った生原稿でも残っていなければ、何千とある社説から全集編纂時にどこをどう、福沢に添削されたかなど石河が覚えているわけもないだろし、それでも全集に入れたのは石河における「社説」認識がそういうものであった、ということの証しだろう。テキスト分析によって福沢の「直し」がどの程度あったか、あるいは無かったか、も同時にわかったら、面白い情報にはなるだろうが、福沢添削済みの社説を全集でよむことにくらべれば、どうでもいい情報とおもう)

井田は、福沢真筆でないものを全集に入れるのは云々。。などと言っているがそれはテキスト分析屋の言い分であり、形式でなく内容を、すなわち、今日ただいまの問題として、福沢の考えたことを知りたい、とおもっている我々一般読者など念頭に置いていない、職業的発言であろう。100%福沢が書いたもの、のみを対象として福沢を考えるというのは愚にもつかぬ事である、とわたしは言っているのである。(上記著書p27「時事新報論説の真贋」。時事新報社説において、「真贋」って、なんなのよ?が問われねばならない。福沢のような重鎮の思想が強く表面化しているとはいえ、複数人が執筆にあたった社説は、竜之介や漱石鴎外など純然たる個人が書いた文学作品ではもともとない、のよね)

脱亜、とは見事な命名であるし、100年たったいまも、その言葉の磁力にニッポンはがんじがらめになって一歩も抜け出せていない。

植村邦彦の結論をそのまま引用してみよう:
『アジアは 「アジア的」ではないし、「アジア的であるアジア」などという実態は存在しない。私がすべきこと、そして私にできることは「アジア的」という言葉を聞いたら、それはどこのことを指すのか、どういう意味なのか、それはアジア以外には見られないことなのか、アジアにもそうでない場合があるのではないか、と執拗に問いつめて、相手を辟易させることである。しかし、それでも相手の胸の内に懐疑と反省の種をまくことはできる。それが、はじめの一歩だ』

おいおい、これが結論かい?といいたくなる リセットぶりである。
相手、って誰なの、植村さん。中国人かえ?韓国人?シンガポールやタイの、友人達かえ?

おのれ以外に問いつめる相手がいるっておもう?

失望したり、やや、安心したり。
        出る、に、出られぬ、籠の鳥。


平山さんへの回答、質問   福沢諭吉の真実、その7 [福澤諭吉]

平山洋様。早々のコメントを感謝します。(お仕事に差し支えないか心配です)
「福沢諭吉の真実、その4 時事新報社説とはなにか」 に付けられたコメントに疑問なりコメントをしたいとおもいます。
本日昼、書簡集全集17,18巻が届き興味を持って読みました(といっても、石河とか馬場辰猪宛のものをさらっと。全集版というのはなかなか良い雰囲気で、引き続き、日清戦争前後の社説を収めた14,15巻を注文した。これについては、あとで。

これまで通り、平山さんからのコメントは『』で、私の意見は頭に●を付けます。
平山さんのコメントは全文引用、わたしの質問なり意見を挿入します。

『古井戸さんが大前提にしている、「理由は、時事新報創刊当時から時事新報はその過激な意見(政府の朝鮮清国にたいする弱腰を非難する)により政府の厳しい監視下にあり、発禁などの処分を受け、福沢はその善後策に走る嵌めにおちいったりしている」、という記述そのものが、石河編纂の昭和版『続福沢全集』(1933年)「時事論集」中の、各年分に付された「本篇の概説」、に由来しているのですよ。

その「明治十五(1882)年篇」にこうあります。「(壬午軍乱)爾来「時事新報」は対韓対支の政略論を終始一貫の主張として以て日清戦争にまで及んだ」。富田正文さんは、現行版『全集』の「時事新報論集」各巻の「後記」を、この石河の記述をもとにして書いています。そして1960年代以後の全ての歴史書は、その富田さんの記述を引き写しています。』

●ほとんどすべての福沢論が多かれ少なかれ全集を典拠としているので私ごときが全集を孫引きするのはやむをえないでしょう。しかし、福沢以外であろうと「あらゆる歴史書が」なんらかの偏見なり史観に基づいて書かれ、選択され、叙述されているのだから多少の誤差はやむを得ないでしょう(平山さんが近い将来、福沢伝なり明治思想史なりを表されるなら是非読んでみたい)。

わたしの主題は、時事新報の社主であった福沢が政府の監視のもとにあった、ということです。これは客観的な事実でしょう?つまり、時事新報の社説が黒塗りになったり発禁になるのをおそれていたのであるから、社説の内容に敏感たらざるを得ない(石河等にまかせるわけにはいかない)、一日として社説や論評をチェックしない日はない。こういいたかったのです。これは違いますか?

(国際関係を考慮して軟弱になった政府を新報はうるさいほど、叱咤激励したのでしょう?ちがいますか?)

つまり、新聞は福沢のunder controlにあった、と。本日届いた書簡集のうち、石河あてのものは10通前後。きわめてわずだが、under controlにあった、という印象はますます強くなりました。
平山さんは、もちろん凡てお読みだろうが、
こういう論文をのせてもよいか、石河が遠隔地にある福沢に打診したり、福沢がこれこれの趣旨で社説を書け、と指示しています(昨日紹介したもの以外に)。あるいは社説を例外的に2つのせろ、とか。

『もちろん石河が解説をつけた『続福沢全集』には、対韓対清強硬論ばかりが入っています。「概説」にあてはまるものばかりを選んだのだから当然のことでしょう。1933年のその時期、「概説」が書かれた三田のキャンパスの外では、満州事変の戦勝が祝われていたのです。

では、『時事新報』は創刊当時、ほんとうに対韓対清強硬論の論調で統一されていたのでしょうか。私は1882年から1901年までの同紙マイクロフィルムをすべてそろえて、創刊初日から順番に読んでいるのですが、そんなことはないのですよ。』

●なぜ、統一しないのですかねえ。。わたしは強硬論でちっともかまわないとおもいますが。
わたしが時事新報社員だったら、そのように石河や福沢に意見しますよ。義戦、なんだから。
当然でしょう。

『署名著作『兵論』(1882年11月刊)は、9月9日から10月18日までの社説をまとめたものですが、その主張は、「今戦争をしても、西欧はもとより清国にも負ける」、というものでした。この著作は現行版第五巻所収です。それが「時事新報論集」に入っていないから、石河の「概説」が正しいように見えてしまうのです。』

●福沢がへっぴり腰とは知らなかった。その傾向を日清戦争前後まで続けていたのなら、(そんなことはないとおもいますが。14巻、15巻で確認しますが)、石河が福沢など無視して、国民や政府をシッタするのは当然と思います。石河が正しいのです。

『さらに、採録されていない多数の社説も含めて読むと、創刊当時の『時事新報』は、国内問題により関心が深いのです。あたりまえのことでしょう。読者にとって重要なことは、どうすれば日本が、そして自分の生活がよくなるか、ということなのですから。対韓対清強硬論ばかりが載せられた新聞を誰が買って読みますか。』

●それは当時の状況を見ないと分からないですが。そうとも言えるしそうでないとも言えますね。しかし海外での大がかりな戦争経験のない当時の日本国民が 戦争に乗ってこないのは当然であり、時事新報がだからこそ、国民に昂揚を促したのでしょう? 当然のことだとおもいます。

 (平山さんはどうすべきであった、といいたいのでしょうか?)

『石河は、満州事変下の世相に「受け」のよい社説を、バックナンバーから選んだにすぎないのですよ。ですから、そうでない論説は、たとえ福沢諭吉名で発表されたものであったとしても、全集から落としているのです。』

●なにを落として何を入れたか、というのは石河の好みがあるのだろうからどうこういってもしょうがないとおもいますが。「すべて入れた」といって抜いたのならおいこら!といいたいが。。
たとえば、全集書簡集もすべての書簡ではないし、まして、選集ともなると遙かに少ない。その場合に何を入れるかというのは編集者の好みになります。たとえば、時事新報と福沢、石河に注目して読もうとしているわたしなどは、選集に 時事新報関連の書簡だけすべて入れてくれ!といいたくなります。

『「脱亜論」http://blechmusik.xrea.jp/lab s/misc/m03.htmlは見ていただけたようだから、署名著作『修業立志編』(1898年4月)に所収されながら、『全集』未収録になっている「忠孝論」と「心養」をぜひお読みください。これらはなぜ全集に入っていないのでしょう?

いや、むしろ『修業立志編』全体をお読みください。これには1886年から1897年までの社説と演説が42編収められているのですが、中国や朝鮮に触れたものは1編もないのです。国立国会図書館デジタルライブラリーが無料で閲覧できるようにしていますので、簡単にダウンロードできます。』

●ご教示感謝します。そのうち、ぜひ。
でも、できれば紙版に線を引っ張りながら読みたいですね♪

『石河が『修業立志編』を単独の著作として全集に入れなかった理由はお分かりでしょう。大陸へイケイケドンドンであったはずの時期の社説・演説集に、そのことに触れたものが一つもないのは不自然だ、と読者に疑われるのを恐れたからです。』

●イケイケドンドンの種類が問題ですが。義戦でない、種類のつまり侵略戦争と呼称せざるを得ない戦争という性格も持っていたと言うことでしょうか?
それとも福沢は、終止、出兵反対だったのですか?

全然イメージがわかないですねそれでは。。数通にしか過ぎないが 書簡から浮かび上がるのは石河(あるいは新報社)にたいするコントロールがいきとどいているという印象しかないのですが。これも書簡に意図的にそういう書簡をハイしたのでしょうか?

かりに石河がうまく立ち回ったのなら、それはそれで巧妙だ、ということになります。l

『石河が真実福沢に従順であったとしたなら、署名著作『修業立志編』を全集に入れなかったり、そこに含まれている社説を「時事論集」から排除したりするはずもないでしょう。』

●何度も申しているのですが、全集時代(第2幕)と 福沢生存時(第1幕)は区別したほうがいいのではないですか? 第2幕はなにが演じられようと福沢のしったことではありませんし(福沢死後なのだから、当然)、さらに、大部分の明治の国民にとってどうでもいいことです(過去のこと)。 第2幕が影響するのは全集読者でしょ?研究者あるいは高等遊民です。(わたしのような貧乏人はバラで古書店から買います)。石河論をお書きになりたい平山さんと、福沢や日本の近代を知りたい私の ずれ、があるものとおもいます。石河などどうでもいいのです、わたしには(福沢書簡からの印象では社長の器ではない。年代の差。諭吉や、諭吉の一世代下の兆民のように、「政府ジュウチン」を友人知己にもち、政府を彼らが経営する「会社」、程度のものと考える度量はない。諭吉が政府をつっついたのも、しっかりせんと倒産するぞ!とどやしているのだ)。

今回の平山さんのコメントによりどのような影響を受けたか、というと、平山さんはどうやら、福沢が朝鮮半島出兵に消極的である、といいたいのか?という気がしますがどうなのでしょうか?福沢は(陸奥宗光などとちがい)本気で朝鮮の独立を考えたのでしょう(好意的に解釈。結果的に陸奥宗光等と一致)?。勝てないと考えた時代なら出兵に反対、勝てると考えた、あるいは勝敗に関係なく義憤から出兵しなければならない!という考え方の推移は変節でも何でもない、とおもいます(なんだか、わたしも福沢に入れ込みだしたかな?)。

追記:
平山さんに質問。書簡は〒を利用したのではなく、だれかに、これもってけ!と走らせたようなのですが、時事新報社の場所と、福沢が当時住んでいた場所を教えてもらえませんか(現在の住居表示で)。

追記2:
福沢、石河、あるいは他の主筆、富田、遠山。。みんなそれぞれ、ベクトルがあって、互いに相手を利用する。これは避けられないのだと思います。 福沢だけではなく、たとえば、フランス革命、あるいはロシア革命、日清戦争、明治維新、226。。1945年革命論。靖国。などなど、いずこでも同じようなことがおこっています。


福沢諭吉の真実、その6 時事新報社説とはなにか [福澤諭吉]

中締めをしておきたい。これ以上議論しても意見の一致は見ないし、意見の一致など屁のたしにもならない。おのおのが各自のストーリを持っておけばいいだろう。

昨晩、平山さんが教示されたURLを読んでみたが私の意見は変わっていない。
平山さんはコメントで「堂々巡り。。」とおっしゃっているが、堂々巡りではない。見解の相違である。もちろん、研究者の意見に対し、素人が「見解の相違」というなど不遜も甚だしい、ということは承知している。できるだけ簡単に述べてみたい。

1 ひとことで言えば時事新報社説をいかに読むか、ということだ。こまかな表現はともかく、全体として時事新報社説は、福沢本人が書かなくても福沢の思想や意見を反映しているのとみなす。理由は、時事新報創刊当時から時事新報はその過激な意見(政府の朝鮮清国にたいする弱腰を非難する)により政府の厳しい監視下にあり、発禁などの処分を受け、福沢はその善後策に走る嵌めにおちいったりしている。そのような経緯から福沢が社説の内容に無関心であるわけがない。さらに時事新報社を創立した1882年以後は、福沢の著作はすべて時事新報に掲載した記事を寄せ集めたものとなり、発行元も時事新報社である。この経緯から、福沢の著作読者や新報読者は当然、新報社の意見=福沢の意見と考えているはずであり、福沢もソレを承知していると考える。(おそらく時事新報が刷り上がったら福沢にいの一番に届けられ意見などを寄せたのではないか。)

福沢選集に収める福沢書簡はわずか200通あまり(全体の1割)。石河幹明に宛てた書簡はわずか一通である。夕べ読んでみた。 1897年、3月11日付け。内容は「英国義勇隊がクリートに出かけた。。」で始まるこの事件への意見を約20行に渉って述べ(選集、14巻p184)最後、

「凡そ右の意味にて一社説は如何。昨日の電報は、時事新報の好き手際なり。尚一説を加えて出したらば、ますます妙ならんと存候
                                                  諭吉
石川様(石河ではなく。。。)」

となっている。これ一通で石河と福沢の関係がどうだったか、を決めつけられるとは思わないが、「こんな趣旨で社説一本書いたらどう?」と言える人間は福沢以外にはいまい。福沢がこういう指示を気軽に出せる石河が、福沢の意見と大きな隔たりのある社説を書けるだろうか?

2 平山さんは石河の意見を福沢と違う、という。それはそうだろう、全く同じということはありえない。しかし、読者や福沢が首をひねるような相違点をモロに社説にだせるものでもなかろう。石河の単独著作ではないのである。現在の朝日新聞毎日新聞などの社説担当者と同じシバリ、に加え、福沢の見解が大きく左右しているはずである(とわたしは読む)。
ところが、平山「福沢諭吉の真実」では、福沢全集に載せる社説の大部分を執筆したのは石河幹明であることが明らかになったことを示す(とくに驚くべき事でも無かろう。当時の読者にとっては、だからどうしたの?だろう。これは現在の朝日新聞の社説を書いたのは山田太郎氏ですと発表したのと同じ。ああそうですか、でおわりである)。そして、福沢が書いたものでもない社説を福沢全集に収めるのはおかしい、というのだ。
著作権上、あるいは出版の慣例上はそうかもしれない。しかし、研究者に対しては全集xx巻からyy巻の社説の一部(あるいはすべて)は石河幹明が書いたものです、という注意書きを配布すればそれで終わりだろう。だいたい、リアルタイムの読者はだれが書いたかなど気にもとめていないのだから。重要なのは、社説が福沢の思想意見からへだたっているかどうか、である。

平山さんの回答はまことに単純。「石河執筆の社説は福沢の思想を反映したものではない」。
これだけである。証拠などはない。たんに平山さんの推測や思い入れにしか過ぎないのである。これを唯一の手がかりに、本丸である服部、遠山攻撃に当たるのだ。わたしにはとんでもない冒険にみえる。きっと根が引っ込み思案だからであろう。平山さんの果断さをいつかはみにつけたいものである。

少し長いが平山さんご教示のURLから平山さんの発言を引用する。長い抜粋となる。
引用が長いのは、平山さんの 時事新報の読み方(石河と福沢の関係)が端的に出ているからである。これは平山さんの著作ではなく、掲示板発言であることを承知の上で読んでもらいたい。
http://hpcgi3.nifty.com/biogon_21/board/aska.cgi?page=330

『こちらでも私の『福沢諭吉の真実』が話題となっているようですので、作者の立場からいささか弁明をしたいと思います。
まず、個々の時事新報論説が、紙上に掲載されていたその時点に、福沢個人の意見として、読者に受け取られていたかどうかについて。
創刊当日の「本紙発兌之趣旨」(拙著16頁)にありますように、論説の大部分は論説記者が執筆するが、特別な場合は福沢が立案検閲する、というのがそもそもの建前でした。
従いまして、掲載時には福沢の論説であるかは分からず、連載終了後に単行本化されて始めて、読者は「あれは福沢先生の論説だったのか」と気づいたのです。
そのようにして出された単行本は、明治15年(1882年)5月の『時事大勢論』から、明治26年(1893年)5月の『実業論』まで15冊あります。
ではその他の論説はどのように受け取られていたかというと、漠然と「福沢先生の影響下にある」程度であった、と私は推測しております。
それというのも、福沢は時事新報社のオーナーではありましたが、会社の役職には一切ついていなかったからです。当初の社長・主筆は中上川彦次郎でした。
論説の責任は主筆が負うという原則からすれば、単行本未収録の論説(その中には「脱亜論」なども含まれる)を福沢個人の思想とみなすのには無理があり、当時の読者もそれは心得ていたでしょう。
それどころか、完全に福沢執筆の論説ですら、福沢の思想なのかは分からない場合さえあります。
というのは、主筆の側から、「先生こんな論説を書いてくださいよ」、という依頼が先にあって、あまり乗り気でもないのに書いてしまった論説が含まれているかもしれないからです。
私は拙著において、原稿が残っていたり、語彙や文体が完全に福沢と一致する論説をカテゴリーⅠ(80頁参照)としましたが、このようにすると、カテゴリーⅠのものですら、福沢の思想と断定することはできないことになります。
現在、伝記執筆の準備のため、マイクロフィルムで時事新報そのものを読み返しているところですが、私の感触では、あの毎日の論説を、福沢の思想と信じて読んでいた読者はいないのではなかろうか、というのが正直なところです。
渡辺恒雄は読売新聞の主筆ですが、だからといって読売の社説をナベツネ個人の思想と考える読者はいないでしょう。それと同じことです。
では、福沢全集に収められてからはどうか、といえば、不思議なことに、まるで福沢個人の思想のように見えてしまうのです。
それは、『文明論之概略』も「時事新報論集」も、同じ版組、同じ装丁で書架に並んでいることによる、一種のマジックなのです。
実際には現行版全集の第13巻から第16巻までは、ほとんどが石河の執筆したもので、それは石河自身が認めている(拙著75頁)ことでもあります。
思えば、服部之聡や遠山茂樹といった戦後の左翼は、署名入りで公刊された全集第7巻までと、無署名の第13巻以降とを比較して、「福沢は別人のようになってしまった」だの、「いや本質は変わっていない」だのと議論していたのでした。そもそも別人が書いたのですから、別人に見えるのは当然であったのです(ああ恥ずかしい)。
福沢が自身の思想として認定している全集第7巻までの論説に、植民地支配を正当化する記述がないことは、目を皿のようにしてそうした言葉を求めた二人の人物、石河幹明と安川寿之輔が、結局その目的を果たせなかったことからも明らかでしょう。
そこで私は「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」とは、植民地支配を賛美するものなどではなく、福沢ならではの痛烈な皮肉であると解釈します。「腐敗したアテネの民主主義より、スパルタの独裁主義のほうがましだ」、と言ったソクラテスの皮肉と同じような。』

頷けない箇所を列記しよう。

●『従いまして、掲載時には福沢の論説であるかは分からず、連載終了後に単行本化されて始めて、読者は「あれは福沢先生の論説だったのか」と気づいたのです』

こんなことがあり得るだろうか?社説のことを今、言っているのだ。わたしには信じられない。
また。。讀賣ナベツネの例を出して、こう述べている。

●『渡辺恒雄は読売新聞の主筆ですが、だからといって読売の社説をナベツネ個人の思想と考える読者はいないでしょう。それと同じことです』

これは語るに過ぎたのではないか、平山さんも。いまかなりボケているがナベツネが元気旺盛な頃であれば、ナベツネの意見に背くような社説が書けたろうか?書いた記者は即刻左遷だろう。福沢もおのれの思想に反した社説を書いて譲らぬ社員がおれば、即、クビにしたはずである。

あるいは。。
●『それどころか、完全に福沢執筆の論説ですら、福沢の思想なのかは分からない場合さえあります。というのは、主筆の側から、「先生こんな論説を書いてくださいよ」、という依頼が先にあって、あまり乗り気でもないのに書いてしまった論説が含まれているかもしれないからです』

平山さんは、福沢に対して寛容さを大盤振る舞いしている。なぜ同じ寛容さを石河に対して振る舞えないのだろうか? つまり。。

「完全に石河執筆の論説ですら、石河の思想なのかは分からない場合さえあります。
というのは、福沢の側から、「石河君!こんな論説を書きたまえ!」、という依頼(指示)が先にあって、あまり乗り気でもないのに書いてしまった論説が含まれているかもしれないからです。」

という、シーンもあった、となぜ想定できないのか?(石河にも、愛、を注いでね、平山さん)
石河は、「おれは石河なの?福沢先生なの?」という区別も付かなくなったのではないか、とさえ、わたしは想像している。

まず注意しておきたいのは、ブログ記事でも述べたが、福沢が存命時に読者であったものは社説を誰が書いたのかはわからないことだ。無署名だから。
だから 全集を当時のママで出版したいのなら、たとえば、全集の別冊として、時事新報社説集とし、無署名のママ、当時の主筆であったものを列記し、明白に執筆者がわかっているものにはその旨を記し、不明なものは不明として出版するのが正しかろう。しかし、福沢全集22巻のうち8巻から16巻の9冊も分量がある社説をはずして福沢の全体像がつかめるわけもない。(もちろん、こう考えるのは、福沢の思想意見が、誰が執筆しようと反映していること、すくなくとも、反映していると読者が読んでいると、想定するからである)。

(注) さらに、無署名が原則である社説をそもそも全集に入れるのがおかしい、ともいえる。これは福沢の連載もの(誰が見ても福沢のものとわかり)あとから福沢諭吉著としてまとめられる著作、と 社説では分けが違うと思う(社説の場合はあきらかに複数の主筆が交替で書くのであるから)。時事新報の場合は、社主福沢の意見が社説に大きく反映しているのであるから全集の別巻として社説集とするのがいちばんいいのではないか、とおもう。このようなことを考慮し、「福沢諭吉の真実」ではなく「福沢諭吉全集の真実」とするのが正しい、とどこかのサイトで評した。すなわち、全集刊行前の日本の政治や社会への影響とは「全集の編集問題」は関係なく、ましてや福沢や石河の評価まで、全集編集によって遡らせてはならない。これは何度もこのブログで言ってきたことだ。つまり、主題は、石河が福沢全集をどのように編纂し、それを利用した研究者がどのような福澤像をいだいたか、であり、歴史の上(つまり福沢生前の)の福沢(および石河等)の役割や国民政府への影響が「どうであったか」、ということには全く影響しない、ということ。当然のことだが。

だから、遠山の著作が全集版の社説を重要な根拠としている場合、その箇所が福沢の思想を的確に反映しているかどうかを細かにチェックする必要はある。それだけのことではないか。その差分がどれほどあるか?やってみなければわからないが、それほどのおおきなものではあるまい。すくなくとも平山さんが鬼の首を取ったようにいいたてているほどのものではないと かんがえる。(必要ならば平山さんのゼミ学生にチェックさせたらどうなのだろう。平山さんのお好きな安川氏の手法で。。。)。

3 そのほか。
3-1 「思想犯罪」の件。わたしもそんなことだろうと思って質問しました。了解。
3-2 これは方法として重要だとおもうのだが、上記の箇所で、社説をかりに石河が執筆しなかったらどうなのだろうか(たとえば、病気による長期休養などで)?まさか、社説を空欄にして新聞を刊行するわけにもいくまい。中国などにたいする蔑称を福沢が日常的に使っていたのかどうかは私は知らないが、平山さんによると、まるで石河が書かなければそのような社説自体が存在しなくなる、と言う風に見える。わたしにいわせれば、福沢が代わりに書いたり添削したりすれば、内容は同一、石河よりもっとパンチのあるアジテーションが華麗な筆で繰り広げられたであろうと想像する。なぜ、石河がもし存在しなければ、石河が書いた内容を福沢あるいは福沢の息の掛かったサムワンが同様の内容を、より色彩豊かに、激しく、書いたであろう、と想像しないのか?不思議である。福沢自身でなく、石河に書かせたのはそのために給料を払っているのだもの、当然である(ナベツネが直接、社説を書かないのと同じこと)。

3-3 私は先日、「石河勝利者説」などという愚論を書いたが、そこでいったい日清戦争前後、福沢はなにをしていたのか?と書いた。平山さんの考えるように(そして福沢もそう考えるように)清国に対する強攻策(朝鮮から手を引かせること)およびその延長としての戦争は「義戦」であるなら、それを時事新報を通じて言論により支援しないのは(福沢の)犯罪ではないか、と書いた。もちろん、福沢は犯罪など犯さなかった。石河を使って、義戦を支持し、政府の尻を叩く社説を「乱造」させたのである。

3-4 わたしのもっている福沢選集は、わずか200通しか書簡を収めない。私の住む市の図書館(5館ある)は、福沢全集はおろか選集も所蔵していない。夕べ、全集版の書簡集(第17-18巻)を安く売っている古書店をみつけ、注文した。石河と福沢の関係、および時事新報と福沢の関係があるていどわかることを期待してのことである(スカ、に終わる可能性もある)。図書館で福沢全集が読めない時代に、なったのか。

3-5 反=遠山が平山さんの至上命題のようだが、結局、遠山の枠内に平山さんはおいでだな、という印象を持った。1945年の時局命題から福沢をながめている、というように遠山を批判しておられるが、逆に、その批判にこだわりすぎておられるため自由な見方ができなくなっているのではないか、と。素人の印象である。私自身は遠山の福沢ストーリにそれほど違和感はもたないが、「反封建自由主義者」(あるいはブルジョア思想家) がなぜ(あるいは、ついに)「侵略主義者」になったか、の解明が遠山氏の課題であったようだ。しかし、わたしのようなこしゃくなセンゴッコにとって、このふたつは、同値であることはアッタリ前のことなのである。(平山さんは私よりだいぶ年下だが、「反封建自由主義者」、と、「侵略的絶対主義者」は、相対立するとおもっていらっしゃる。クラシックな、あるいは、珍奇な見解である)

3-5 平山さんへの東谷暁インタビューも読んだ。
http://blechmusik.xrea.jp/labs/fukuzawa/f07-01.html
がこれは参考にならなかった。東谷はあまりに平山さんにたいし、物わかりがよすぎる。平山さんが冷や汗をタラタラ流し、七転八倒するくらいの質問しなきゃ、東谷サン。(あるいは、エコノミストのしゃしゃり出る幕ではない、といったほうが親切か)

ただ、平山さんによると、平山さんのような主張は圧倒的少数派なのだそうである。わたしは多数派大嫌いだから、この点、平山さんの今後の研究の進展を祈る次第である。(わたしのようなトーシローが応援したってどうということもなかろうが)。

##
昨晩、平山さんの一連のコメントに対して返事を書いて終わりかけたところ、エンターキーを勢いよく打ち込んだら、スコーン!と画面が切り替わりそれまでの書き込み内容がパアになった。恨むよ、so-net。ん、オレのパソのせい?これもSony=Vaioだ!。URLのサイトを引用し、ヤッサモッサして書いたのに。激しい徒労感とともに、やっとこさ、でこの記事を仕上げた。(むろん、MSワードで!!)

読んでクダすった、読者の皆さんには、期待に応えられる内容になっていないことを恥じる。素人に、つきあってくだすった、平山さんにも再度、感謝。

(まだ、終わりじゃありませんが、きりがないので中締めを)

追記: 平山さんがリンクされている幾研堂さんの「石河幹明のパーソナリティ」という記事は陰影にとむ内容である。が、石河は当面の論点には、括弧にくくっておいてよい人物とおもわれる。つまり、<黒子>たるべき人物である。時間T以前にそうであったように。

追記2:
東谷インタビュで次の平山さん発言は面白い。
「竹田さんは福沢諭吉協会の有力者でもあるんです。福沢協会の前身は、現行版全集を出版するために作られた。岩波書店の一員として若き日にその編纂にも従事されたこの方は、丸山眞男のように素晴らしい研究者もいるけれど、私のように石ころのような研究者もいる、と言ってるんです。ですから、間違った福沢像を覆してくれて慶応は喜んでいるでしょう、と皆さんおっしゃるわけですが、全然そうじゃないんです。そんなに簡単なものじゃないんですね。カトリシズムのようなものなんです(笑)。新約聖書のなかでも、イエスの言葉はごく一部ですよと言いたいのだけれども、パウロの系譜というのがあって、それを守るしかない現実がある。」

面白い、というのは、平山さんの比喩があまりに巧妙だからである。
もちろん、新約聖書=福沢全集、と平山さんは言っているのである。イエス=福沢。パウロ=石河。
(石河=ユダ、でなくてホッと、したろう、石河は)

しかし、福沢は直接、石河を指揮したのに対し、イエスはパウロなど見も知らないのだ。(わたしにいわせれば、パウロ教などイエスの教えと、縁もゆかりもない)。
これに対し、福沢全集にある、時事新報社説は石河執筆であろうと、「すべて」福沢が目を通したものである(むろん福沢が了承しない内容であれば、修正記事を福沢自ら執筆、あるいは執筆指示したであろう)。 丸山真男ならこんなつまらぬ比喩をしても許されようが、厳密を旨とする平山洋ならあってはならないお気軽発言だとおもう(固いね、あたしも♪)。たとえたいなら、むしろ、イエス=パウロでなく、親鸞=唯円であろう。歎異抄。キリスト教のストーリで言えば、イエス(福沢)が新約聖書(時事新報社説)の監修にあたった、ということになる。比喩にもなりゃしない。新約聖書が確定したのは、そもそも、イエスの死後、400年経過してからのことである。 福沢はイエスとは違ってしっかり社説(新約聖書)を締めたのである。

ここが勝負の分かれ目。読者の皆さんは、福沢全集を自ら読んで、推理を働かせるしかあるまい。

追記3: 4/21
ナベツネの思想を語ろうと思えば(あるいは伝記を著そうとおもえば)ナベツネが社長であった時代の讀賣社説は外せない(伝記著者は当然社説を読む必要がある)。同じように、福沢の思想や伝記を語ろうと思えば時事新報の社説は(だれが書こうと)外せない。理由は無署名だからである。これが山田太郎記者、のように個人がかいたのなら、ワシは知らん、で済ませよう。では、ナベツネ全集、福沢全集にこれを入れるどうかは別問題。入れる必要は無かろう。社説集として発行すればよいのだ(もちろん、執筆した記者名など不要である。社説集を刊行するとき、執筆者名をあきらかにするのはよほど特殊な場合だけではないのか?たとえばIFストーンなどの完全個人誌などの場合。この点、同じ無署名とはいっても天声人語のようなドーデモエー記事とわけがちがう。天声人語ならくだらない記事を書いてもこれはXX記者が書いたのだから、と個人の評価に結びつく(もちろん、くだらないコラムをつくる会社としての朝日にもなんらかの影響があるが)。朝日社説の場合は、執筆記者がおかしい、というより、朝日は何してるんだ、というダイレクトの会社評価に結びつく。記者は、おのれの意見を殺しても「会社の意見」を優先する。例外は時事新報における福沢くらいのもんだろう。オレ=会社)。福沢全集に社説集を入れたのは福沢=時事新報、と讀賣=ナベツネ、の関係がちがうからであろう。前者のほうが圧倒的に強い。ナベツネは元記者で歴史ある讀賣の何代目かの経営者にしか過ぎない。


脱亜論について    福沢諭吉の真実、その5 [福澤諭吉]

脱亜論についての平山さんのコメントだけ抜き書きする。重要だと思ったから。

> 『私は「脱亜論」を軽視などしておりません。この論説は石河によって『続福沢全集』(1933年)に採録されたものですが、それは石河にしてはめずらしく良い仕事であったと考えております。』

現在の研究者である平山さんは軽視していないが、当時の読者は軽視ないし無視したということですね。

平山さんは著書でp203にこう書いています。
「。。発表当時の「脱亜論」が何らかの反響を呼んだかといえば、そんなことは全くなかったようである。それは日本人の危機意識を高めるためにパターン化され何度も繰り返し掲載されていた論説の一つに過ぎなかった」

「。。当時の人々はそんな論説があったことすら知らなかったのである。そこには福沢諭吉の署名はなかったし、内容も当時の感覚からいえばありきたりであったからである。掲載された時事新報も翌朝には魚の包み紙か何かとして使われて、そのまま捨て去られたのであろう。そうして48年4ヶ月の歳月が流れたのであった」

福沢自身は 誰にも注目されないことを望んで無署名社説を、書いたわけではなかろう。
石河が、危機意識を高め、戦意昂揚させたのは 福沢に忠実にそのあとを嗣いだと、なぜいえないのだろうか?

脱亜論が発表されたのが1885年。48年4ヶ月待つ必要はなく、石河が福沢の意をくんで、国民の危機感を喚起したのではないのですか? 

だから、戦意を昂揚させた論文を石河が「乱造」した、と平山さんが表現するのは 石河に(そして間接的には福沢に)対する「名誉毀損」だとおもいます。石河にとっては、脱亜論思想を発展的に継承しただけだから。

そして、石河の「乱造」を 福沢は不承不承黙認したのではなく、でかした!と賛意をもってみていた、と私は見ます。その反動が、勝利の後の 「ソクインの情」演説になったと。

こういう見方に対する 平山さんのお考えを伺いたい。

追記:
平山さんが
<それは日本人の危機意識を高めるためにパターン化され何度も繰り返し掲載されていた論説の一つに過ぎなかった>
と言われるのは、脱亜論の内容自体が、福沢以外の誰かによって説かれていて、読者にとって目新しくもない、ということだろうか? そういった議論があちこちの社説や論説によっても一般的であり国民の間に普及していたということだろうか? その意識は、福沢の以前の著作が寄与したのかそれとも他の誰かの著作?

しかし、幸か不幸か 読者の誰も 脱亜論に着目しなかった。再度確認したいが脱亜論の内容は当時の国民の常識であったのか?なにによってそういうことが言えるのか?

ということは、福沢の意識、と、国民の<脱亜>意識に、差はなかった。
再度、国民に普及していた脱亜意識は 昔からあったのか?それとも福沢が広めたのか?

旨く表現できないが、要は、日清戦争の前後の日本にワープしたとして、

国民(都市、田舎)
知識人
福沢
石河
政治家
その他

等の意識がどのように変化したかしなかったかを知りたいのである。福沢に着目すれば福沢自身がどう考えていたのか、ということと、福沢は<国民や石河等がなにを考えている>と、考えていたのかと言うことも含めてである。こういうことは、全集(の、社説。私は読んでいないが)を読むだけでは自動的に分かるわけではない。当時誰も知らなかった 社説の執筆者、が あとから明らかになったからと言って、その判明した知識は 遡って、当時の状況の説明には適用できないはずである。


福沢諭吉の真実 その4 平山さんのコメントに対するコメント [福澤諭吉]

福沢諭吉の真実、その2 に平山さんから長文のコメントが付けられている。
私の知らない事実も多く含まれており、遠山茂樹「福沢諭吉」を再読してみようと言う気になった。さいわい、遠山の著書は その判断の根拠となる福沢の著作を引用したり、出典を明示しているので何が無効となっているかはかなり容易に分かる仕組みになっている。

昨晩書いた、「石河幹明 勝利者」論は 平川氏に対する機略的視点を提出したものだが、この見方はふざけて書いているのではない。平川氏の視点を私なりに取り入れれば、こういう見方が妥当なところだろう、といったつもり。

さて、平川氏のコメントについて私の意見をのべてみよう。平川氏のコメントを抜粋することを考えたが、このブログのコメントは、掲示板ではないので、目に付きにくい位置にある。わたしとしては掲載位置による差をもうけたくないので、この記事には平川さんのコメントを全文掲載することにする。私のコメントはそれに続ける。

注意: 
以下 『 』 でくくるのが平川氏のコメントであり、それに必要があるばあい私がコメントを付けています。 平川さんから頂いたコメントは一字一句として、省略していません。途中でわたしのコメントを割り込ませているだけです。私のコメントの開始点に●終了点に■を付ける。

###
『だいぶ問題点が絞られてきましたね。古井戸さんのお考えについては私としても誤解があり、そうだったのか、と教わることがありました。

以下、問題が指摘されている点について、番号順にお答えします。

1 社説は誰の意見か、について。

法人としての『時事新報』、あえていえば、論説に責任をもつ主筆の意見です。したがって、福沢は「おれのじゃない」と言うのは当然です。べつに逃げでも何でもなく、福沢はお金を出していただけなのです。創刊初日(1882年3月1日)「本紙発兌之趣旨」には、「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福沢小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば」とあります。つまり、大体は中上川彦次郎主筆を中心とする論説委員が書き、まれに福沢も立案する、ということです。創刊後の単行本が、「福沢立案、中上川筆記」として出されているのと一致します。単行本化されなかった論説については、『時事新報』の意見、としかいえないのです。』

●この 誰の意見か、という意味は、 当時の読者が、誰の意見と考えたか、と言う意味です。石河であれ福沢であれ、それを意識して、時事新報の顔である 社説にソコソコの意気込みで書いたはず。平山氏の意見でおかしいと思われるのは。。。

<法人としての『時事新報』、あえていえば、論説に責任をもつ主筆の意見です。したがって、福沢は「おれのじゃない」と言うのは当然です。べつに逃げでも何でもなく、福沢はお金を出していただけなのです。>

 <法人としての『時事新報』、あえていえば、論説に責任をもつ主筆の意見です>

ここで、<あえていえば>、というのは、文字通り 敢えて、が過ぎるのではないか? 主筆とは個人であり 法人とは 会社である。 会社(法人)、あえていえば、個人 というのは全くおかしい考えである。 法人、と個人はそもそも対立するものなのであから。 わたしが前回よりコメントしているのはここである。 社説とは無署名記事である。昨日言ったこととと、今日行ったことがガラリと変わるということでいいのだろうか?当時は良かったのか?たとえば、ニューヨークタイムズは選挙前にNYTは 民主党支持!と明確に社説で宣言する。社説には法人の顔しか無く Mr A, Mr.B という具体的執筆者の顔は見えない。 『あえていえば主筆の意見です』 といわれるが、個人の意見を抑えても 社の方針に背いた意見は書けない、というのが実情ではないのか。だから、主筆個人の意見が社の方針に従えない場合は、退社した(万朝報、が日露戦争賛成に回ったのに対し主筆堺?らが退社した)。脱亜論がある日発表され、その翌日それに反するようなことが社説と書かれれば熱心な読者は眼を白黒させるだろう。福沢が言論機関の社主としてそれを十分承知しているのであれば、石河が執筆したとしても、おのれの意見でもある、ということにしなければ読者は納得しない。だから、問題は、読者に与える影響、と、その影響を福沢が承知していた、それを承知で石河に書かせた。こういう見方が成り立つのではないか、ということである。わたしが、福沢全集に石河執筆であっても社説を掲載したのは100%正しいことではなくても、全面的に非のある行為ともおもわない所以だ。■

『2 社説欄掲載後単行本化された著作について
法人の意見としての社説と個人の思想としての単行本の関係が未整理であったのは事実で、日清戦争後に特別の欄が作られたのもそのためなのでしょう。』

●上記のように、社説 と 単独著書は 当然意見に対する 規制が異なる。単独著書なら自由に意見を述べてかまわないが、社説なら 過去との連続性、つまり読者に対して過去の意見と異なる意見を述べる場合は<法人>意見の連続性に対する説明責任が発生すると考える(まともな執筆者ならば、そう考えるだろう)。■

『6 時事新報と福沢の関係について
社説はあくまで社の意見とされていました。これは新聞紙印行条例(1871年)への措置で、福沢に直接累が及ばないようにするためでした。なにしろ「新聞紙若くは雑誌・雑報において人を教唆して罪を犯さしめたる者は、犯す者と同罪」とありましたから。では社説そのものが問題となったときはどうか、ですが、その場合は奥付に最初に書いてある人物が責任者とされました。』

●これは自由にものを言う事ができる、と言う新聞社の価値です。法人の破産は個人に累を及ぼさない。■

『7 社説は福沢の意見かどうか

百何十年も前の新聞社説が誰の意見として受け取られていたか、分かるはずもないでしょう。『時事新報』は硬派の大新聞であり、論説委員は常時三名程度在籍していました。日刊紙なのですから編集会議は毎日開かれ、論説担当のほか、事件(社会面)担当、広告担当、財務担当らが、自分たちの意見を闘わせてゆくうちに、全体の論調が決まっていったのです。ちなみに、福沢が編集会議に出席していたという記録はないようです。』

●最初の1行は奇異に聞こえます。 時事新報は名のある新聞だから 社説は誰の、と特定できなくても、複数主筆の誰かが ある社説に強く反対である、とは少なくとも思わないのでは?もし大きく意見が割れれば、退社する、しかない。その程度の担保があるから新聞が選ばれたのではないですか?それがなければ 社説は (かなり知識のあるが意見は一致しない可能性の多い)「読者投書欄」と同じになってしまいます。時事新報が xxを支持する、と言う場合、社説がそれを支持することであり、主筆の某は社の方針を支持しているが、別の主筆某はこれに真っ向反対、あるいは異なった意見をもつ、しかも、執筆者は明示されないというのでは、<社の方針>というのでは読者は混乱する■

『8 ケネディの演説と時事新報の社説は違いますよ
誰がスピーチライターであったにせよ、ケネディは一度はその原稿を読み、その様子がテレビで放送されることを知っていました。おそらく演説草稿には彼自身の承認サインも入っていたことでしょう。しかし、社説にはそのような印はいっさいないのです。現行版全集には、台湾で武装蜂起した原住民を抹殺せよ、と主張した「台湾の騒動」(1896年)が入っていますが、原稿も福沢の関与を示す書簡も何も残っていないのです。福沢に掲載の事前承認を取っていたか、それは分かりません。あくまで私の推測ですが、その日の社説を読んだ福沢はびっくり仰天したのではないか、と考えています。
拙著98頁以降にありますように、私は1892年春頃に、福沢は時事新報の運営から手を引いたと推測しています。当時の感覚では58歳というのはもう老人だったのです。』

●たしかに、スピーチライタと社説の主筆では条件が異なるが、自分で考えたことを何でも書けるというわけにはいかない、というところを言ったつもり。ケネディのスピーチライタなら過去の全発言集をチェックしなければならない(そうでなければ政敵から足下をすくわれる)し、党の方針と矛盾してはならない。こういうことは 社説の主筆にもある程度言えるのではないかと言ったつもり。

福沢がびっくししたかどうかは、知らないが、度が過ぎれば打ち消さなければ 時事新報意見として読者が受け取るのは当然。もんだいは 私が何度も述べるように、読者がそううけとることを福沢は承知しているかどうかです。わたしは読者への影響を知っていたし、多少行き過ぎだな、とおもっても黙認にたる意見しか載せなかった、と考えています。こういう可能性は否定できないでしょう?

先回りして言えば、したがって石河が 全集に自分執筆の論文を福沢執筆として掲載したのは誤りであり、すべての社説を発表当時のまま無署名として掲載すれば良かったのです。それが、熱心な読者が受け取る印象の凡てです。だれがどの社説を書いたのか?福沢はどれを書いたのか、は新報以外の著作や発言から類推するしかありません。これは現在の朝日新聞やニューヨークタイムズと同じことです。

そうするとどうなるか? 社説の意見というのは石河や福沢の共同意見として読者は受け取るでしょう。(個別に見れば主筆間で意見の相違はあったとしても)■

『9 遠山さんや服部さんは、彼らが批判する論説が福沢が書いたものではない可能性があることについて、読者に一言でも注意を促したでしょうか?

『続全集』(1933年)には、「付記」という注意書きが入っているのです(拙著75頁参照)。この「付記」は、現行版『全集』(1958~1964年)では削除されています。したがって、60年代以降に研究を開始した人々が誤解したことは、しかたがなかったと思います。

しかし、遠山・服部さんは「付記」のある『続全集』を使いながら、当然のようにそれらを福沢そのものと見なしています。が、そうすることは果たしてフェアなことなのででしょうか。福沢自身は一度たりとも自分の書いた論説であるとも、執筆を命じたとも証言していない膨大な量の文章を素材として使うことについて。』

●まずこの点。
<彼らが批判する論説が福沢が書いたものではない可能性があることについて、読者に一言でも注意を促したでしょうか>

遠山を弁護する立場にはないが(わたしのような一般人が弁護してもどうということもないし)、おそらく 時事新報の社説は 全主筆間の意見の総意、として書かれている、あるいは、少なくとも福沢以外が書いたとしても、福沢が追認できる無いよう、と解釈しているのではないでしょうか?つまり読者がそう受け取っていると言うことでしょう。■

『福沢が署名著作で述べていることは疑わなければ気のすまない人々にかぎって、なぜか石河の言うことは無条件で信じてしまうのです。安川寿之輔氏がそうでした。私はそうしたありかたを「石河への盲目的愛」と名づけました。』

●石河とか福沢とか個人の名前は、安川さんも当時の読者もわからなかったのであり、そういった選択的な読み方をされても、文句は言えないですね。社説では。それがいやなら純然たる個人誌とするか、あるいは、執筆者同士の シバリ、を強めるしかありません。■

『福沢の署名著作(演説・社説集)に『修業立志編』(1898年4月)というのがあります。そこには42編が収められていますが、そのうち9編を石河は大正版『福沢全集』の「時事論集」に採録していません。ところが、同じ「時事論集」には、石河が執筆した、と明記しているものが14編も含まれているのです(全体で224編)。
もし福沢と石河の意見が同じなら、石河はそのような操作をする必要などなかったでしょう。違うからこそ、『福沢諭吉伝』(1932年)の立論に不都合だと判断して、福沢直筆の論説を全集から排除したのです。』

●ここからハナシは全集版になっていきます。全集とか自伝というのは戦いが済んだ後のハナシです。日清戦争が終わった後。日清戦争が終わった直後、で一旦、時計を止めてみましょう。

その時点ではわたしが昨日述べたように、石河の偽造も罪状もなにもありません。石河は主筆として意見をのべただけです。

平川さんは、石河が全集や自伝で福沢の誤った姿を伝えたことをもって石河を非難されているようだが、日清戦争直後の時点(これを時間Tとします)で、石河になにか罪がありますか? これをお聞きしたい。

つぎに、もしこの時点で石河が無罪であるならば、後から全集や自伝でおこなった作為、ゆえに時間T以前に遡って、石河の行動を非難できない、これが昨日の私の論点です。そして、時間T以前にすべては終わっているのです=日清戦争の勝利、とその後の政策。この直後に、諭吉は死に、<全集>の時代が始まります。それは第2幕です。しかし、全集における石河の作為を明らかにしても、すでに事が終わっている 石河や福沢の言論による国民への影響は変えようがありません。リアルタイムで国民が時事新報からどんな影響を受けたか、を測定することがすべてだとおもいます。これは平山さんはわからない、とおっしゃっているが、当時の知識人らの残した書き物からたとえば、脱亜論(社説)がどんな影響を国民に与えたか、与えなかったか、日清戦争前後の社説から国民や政府にどう影響を受けたか、は何か資料があるのではないでしょうか?再度言うと、そのリアルタイムの影響こそが時局評論家としての福沢の力量(の大きさ、小ささ)を示すのではないでしょうか?石河の<偽造>は福沢死後の第2幕(事の終わった後)であり、時代に果たした役割には無関係です(むろん、その後の福沢研究には影響したのだろうが)■

『11 福沢と石河のアジア観は違います

古井戸さんが私の本に嫌悪感を抱かれたのは、何だか福沢の悪い部分を石河に擦り付けているように受け取られたからですね。「ヒトラー自身のユダヤ人抹殺命令は残存していないから、それはヒムラー親衛隊長官の犯罪だ」というような。いわゆる歴史修正主義の主張では、そうするのが常套手段です。

しかし、ヒトラーにはユダヤ人問題の最終的解決に関する演説が多数残されているのに、福沢には領土拡大を要求する演説も、中国人を蔑視する演説も残っていないのです。
逆に、日清戦争後の国内に蔓延した中国人蔑視を厳しく戒める演説(全集19巻736頁)と、その演説をもとにしたらしい社説「シナ人親しむべし」(16巻286頁)という、その時期としては非常にまれな推定カテゴリーⅠ(直筆)の社説があるのです。
私が、都合の悪い社説を偽者、都合のいいものを本物とすることで、福沢の弁護をしているのだとしたら、文体判定として、「朝鮮独立党の処刑」「脱亜論」「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」(いずれも1885年発表)が、直筆とされている理由の説明がつかないでしょう。』

●その演説は、遠山「福沢諭吉」の最終章 「評価の問題点」で冒頭に引用しているところです。福沢は揺れていたのだと思いますよ。すでに事が終わった後でこういう演説をしなければならないのだから。しかし平川さんの軽視される「脱亜論」はだれも見向きもしなかったとはいえ(ただし、これに注意しない読者はいったい社説など読んでいたのか?という疑問もわきますね)、注意すべき論文だとおもいます。(ネットでも読めるから読者の皆さんは読まれればよいと思います。最後にURLを添付します) 私の見方は、戦前、すくなくとも 戦争阻止には動かなかった福沢(わたしはそれどころでは済まないとおもっているが、ここでは抑えて)に対する自身の反省があったと見ます。その程度の、一貫性のなさ?で驚いてはならないとおもいます。■

『これらは、「日本臣民の覚悟」「日清の戦争は文野の戦争なり」(いずれも1894年発表)のアジア観とはまったく違います。1885年の社説で批判されているのは清国と朝鮮国の政府であって、その人民ではありません。あれでは人民がかわいそうだ、と言っているのです。1894年のものには、残念ながら中国や朝鮮の人々を低く見る要素が含まれているように感ぜられます。』

●これこそ福沢の重要な一面と私は考えています。原則を述べた後と「しかりといえども」で続く時局論です。(これは遠山がいっているし、あちこちの福沢論で指摘されている)

学問のすすめ、からしてそうではありませんか。 そして、脱亜論も。人間は原則平等である、しかし、世界の実情をみてみよ、独立心なく、勤労のこころなき国民は他国から侵略の憂き目にあう、これをよく心得て、よく勉学に励め、と言っています。 これは「侵略の勧め」ではもちろんありませんが「侵略はあってはならぬ」という意見でもありません。もちろん、現時点でこれを非難してもしようがありません。「侵略」は19世紀末にあって当然のごとくおこなわれていたのだから。■

『つまり、福沢と石河には、日本人の民族性についての評価に違いがあるのです。石河は日本民族の優越性を疑うことなく主張するのに、福沢の署名論説で、日本人がとりわけ優秀だ、などというものを見たことがありません。地上の人間など大差が無く、文明について目を開かれた指導者さえ出れば、どこででも近代化は可能だ、というのが彼の考えでした。楠公権助論などに見られる日本史軽視の態度は、時の民族派を憤激させました。』

●これは、学問のすすめ、や、その発展である脱亜論、の枠組みだと思いますね。引き写すのも面倒だが、要は、
  勉強しなさいよ!あなた、勉強しないと、勉強する人と格差ができますよ!
ここまでが学問のすすめ、脱亜論はこれを時局へ適用したもの。
   あなたは勉強しない人。わたしは見捨てます!
こういう論理ですね、手っ取り早く言えば(脱亜論)。これをやむを得ないとみるか、勤勉な国がそうでない国を侵略してよいことはない、と悟るかの差です。しかしそのような悟りをその当時求めても仕様がない、と言う限りにおいてしか福沢は評価できない、すなわち、その分、過去の人、ということです。(私の見方)。■

『それに、そもそも1885年のものは、アジアから手を引くべきだ、という主張なのに対して、1894年のものは、どんどん行け、というちょうど逆のベクトルをもっているではないですか。』

●10年も経過していますよ。その間に戦争があった。連続性を求めるのは「福沢的」でないとおもいますが。福沢は、バランスの人です。■

『12 石河の社説を読んでいたかどうか、について。

もちろん読んでいた、と考えます。「俺の考えとはちょいと違うが、戦争に勝つためには仕方がない」と思ったでしょう。黙認あたりが適当かかもしれません。とはいえ、似た考えならその人の思想になるのですか?』

●その人の思想とはちっとも言っていません。読者に対してどういう影響を与えたか、ですよ。問題は。読者は井田進也さんのようにテキスト分析に通じていません。これは石河の意見、これは福沢先生の意見、などと区別はしないでしょう。福沢ほどの人なら、時事新報委社説を誰が書こうと、国民がどういう風に受け取るかは計算していたはずと思います。石河の(あるいは他の主筆が書いた)社説を俺の意見ではない、とほったらかすことができたか?私は疑問です。これが大きな分かれ目ですね。

A 時事新報社説は 石河の 意見が強く反映している
B 時事新報社説は 福沢の 意見が強く反映している
C その他

わたしはBだとおもっている、ということです。脱亜論がさほど注目されなかったのも平川さんがいわれるとおり、過去の著作の要約だったからにしか過ぎないでしょう。

ははあ、これは石河が書いたな。。と推定しながらいる読者が当時何人いたでしょうか?
昨晩私が書いたように、かりに石河が書いた論説のみが戦意を昂揚させた、というのならそれを阻止しえなかった福沢は同意したとしかおもえません。 

遠山はこのあたりを 福沢の諦観、と表現しています。p197■

『私なら、「日本臣民の覚悟」や「日清の戦争は文野の戦争なり」と、同じ時期の『国民新聞』(蘇峰主宰)の社説の類似性に目が行きます。当時時事新報社と国民新聞社は銀座でワンブロックしか離れていないところに建っていました。蘇峰と同年代の石河は、蘇峰に密かにライバル心を燃やしていたのではないか、と私は考えています。』

●それは当時の流れに棹さした、ということですね。そのとき、リアルタイムで福沢が上記の演説をしたのなら俄然、福沢の評価は異なっていたでしょうね。タイミング、です。問題は。
戦に勝てば、何でも言えます。■

『最後に再び遠山茂樹氏の『福沢諭吉』について

この著作はかなり詳細に読んだつもりですが、「書簡や著作」から多くの論拠を得ているというのは本当でしょうか。戦争に勝って喜んだ山口宛書簡については承知しています。時期は下関条約会議より前ですから、まだ台湾の領有は決まっていません。

また、文中の「シナ・朝鮮も我文明の中に包羅せんとす」の「我文明」は、直前の「西洋流の文明」を受けていると解釈しております。

皮肉ではなく、福沢がアジアへの領土拡大を画策していた証拠となる書簡や著作とは具体的にどれなのか、知りたいのです。』

●遠山の著作は文中に引用は参考文献を細かく掲げてあるので有名と思います(わずらわしいほど)。ただし、個別の文章ではなく大まかな史観がどこから来たのかはわたしにはもちろん、わからない。つごうよく引用を配置すれば簡単に私程度の読者ならだませるでしょうし、そうまでしてだましたいならどうぞ、というのが私の読み方。しかし、脱亜論などよんで福沢が書いたとしてまったく違和感がないし、これに福沢の考えが集約されていると、私は思っています。その意味で名論文です。

<福沢がアジアへの領土拡大を画策していた証拠となる書簡や著作>

政治家ではないのだから(政治家であっても、陸奥なども 拡大と受け取られないように用心せよ、と言っている。本心は拡大であり、その口実を求めていた)そういう書き物はないでしょう(わたしがいってもしょうがないが)。政治家がそのように用心深いのにそれより用心深いはずの福沢が領土拡大をいうわけもないでしょう。しかし、脱亜論が真筆なら、政府の拡大方針に棹さすというより、国民にそう思わせたのは彼の功績(どの程度寄与したのかは分からないが)ではないでしょうか。石河は、その意をていして戦意昂揚をはかったのであり、福沢がそれを黙認したことにわたしは矛盾を感じません。 石河が乱造した戦意昂揚社説を福沢は読んだはずであり、これにどう対応したのか、が知りたいところです。黙認したのか、ソレは行き過ぎだとか言ったのか。

すくなくともこれを正義の戦い(かりに石河論説であったとしても、これを読んだ国民は脱亜論の帰結と読むのが当然ではあるまいか)、としているのであれば、戦前の国民を煽ったと結論するのに無理がありますか?

戦が終わった後、火消しに当たるのは福沢として当然の行動と、私はおもっています。■

以上 

ご多忙にもかかわらず、素人然のわたしの意見に詳細なコメントをいただいた平川さんには心より感謝します。ことに私の飛び跳ねた発言に眼をつむって頂き、恐縮です。おかげで、遠山の著書、あるいは関連著作を 批判的な目あるいは立体的な眼で読んでみようという気になりました。

此を読んでおられる読者の方々も、せっかくの機会だからコメントをいただければ幸いに存じます。

脱亜論
http://www.chukai.ne.jp/~masago/datuaron.html 縦組み
http://www.chukai.ne.jp/~masago/datua.html   横組み


福沢諭吉の真実、再読。 (その3) [福澤諭吉]

      

平山さんからいろいろご教示願って、さて、昨日新たに購入した「福沢諭吉の真実」をさらさらっとおさらいしてみた。
ただ、前半はカットした。 前回読んだときも感じたのだが、平山さんはまず、石河幹明による「偽造」を発見した後、「こいつ、悪いやっちゃ、それなら、若いときにも罪状がいっぱいあるやろ、見つけてとっちめてやろう!」という悪のり、してるんじゃないか?という気がしたからである。前半はないほうが、私としては説得力があるようにおもう。

1 日清戦争は、福沢がいようといまいと起こった戦いである。つまり中国との間の覇権争い、領土争いとして。これは今日の視点からいいわるい、を論じられぬ問題。そういう時代だった。中国は200年朝鮮に対し、宗主権を維持し続けていた。新興国ニッポンは、この清国の宗主権を剥奪し、朝鮮を支配したかった。もちろん、諸外国の睨みが効いている極東関係の枠組みの中、支配、などとあからさまにいうバカはいない。こういうときは、朝鮮の独立を支援する、というのが世界の習わしである。

2 福沢は幕末から、打倒封建制度、を担いそのための世論を興したことに功績がある。アンダーソンのいう出版ナショナリズムそのものといえよう。出版により世論、ナショナリズムを興した。

3 平山さんは、時事新報(1882年から)は福沢が主宰したが、そのうち石河等の主筆が実権を握った、といわれる。いまはこれを信じよう。そして福沢の書いた社説(無署名)も 読者は筆者が福沢だとは思っていない、と書いている。これも信じよう。 脱亜論(時事新報の無署名社説)、もしたがって、福沢の筆になるとは誰も考えていなかった、かつ、誰にも注目されないありきたりのパターンをなぞった小論であった。だが、脱亜論を軽視したい平山さんも、「文明論の概略」を福沢ならではの簡潔さで要約した作品と、評価している。であるとするなら、論者によっては、「学問のすすめ」、や、「文明論の概略」自体にすでに後年の日清戦争支持につながる契機が内在している、というのだから、そういう論者は 脱亜論を 重要な作品とするのはきわめて当然のことではないか。史観の差である。世間が注目したかどうかは思想家の評価にとって、二の次の問題である。世論を喚起したかどうか、とはまた別の評価が必要ということ。

4 石河(福沢でなく)は当時、政府が謀っていた清国との戦争の世論作りに一役買うべく、社説を乱造した。(福沢は、指をくわえてみていた、ということになる。賛成するでもなし、反対するデモ無し)。

すると、どういうことになるのだろうか。 平山さんは石河をきわめてネガチブに罵倒しているけれども私は逆の見方ができると考える。 

           石河幹明 こそが 勝利者である

という見方である。つまり、福沢は明治初期に必須であった藩 -> 県 -> 国、のナショナリズムを興すのに力があったが、ナショナリズムは初期資本主義と手を組むことにより、海外市場を求め、他国との摩擦を避けることができない。つまり市場としての朝鮮をめぐる清国(やがてロシア)との戦いになる。 平山さんの考えによると、清国との戦争の前で福沢は何もしていない、立ち往生である。当時の情勢からして、戦争が避けられぬ、ものであるならば世論をまず興さねばならない。当時、海外で何で戦争するの?と国民は半信半疑だったのだ。これではイクサには勝てない、愛国者石河は、手をこまねいている福沢に満足できず、国民を焚きつけるべく、社説をせっせと「乱造」した。石河は 社説発表により福沢の権威を利用できると考えた。国難のとき、利用できるものは何でも利用しよう。時事新報社説である「脱亜論」は国民に無視され、石河の戦争昂揚社説が本当に受けたのか?このへんが不明だが。 平山さんによると、時事新報発足間もなく、福沢はすでに 思想的には、死に体、である。それを石河が嗣いだのだ。

5 思想家にも賞味期限がある。福沢の役割、賞味期限は、日清戦争勝利で終わった、と考えるのは平山さんの仮想敵である遠山茂樹である。平山さんは、福沢の役割は 時事新報創刊により終わったと言っているようにみえる。平山さんは明言していないがこの本をよむかぎり、そうなるのである。日清戦争は起こるべくして起こる戦争であり、それを熱心に触媒したのが、石河である、ということになる。全集の編集とか伝記とかで、好ましからざることをシデカシタと平山さんはおっしゃるが、石河の機略と見れば、承知の助の、カエルにションベンである、どうということもなかろう。石河は立派に御国のために役割を果たした、殊勲甲。総仕上げとして福沢伝と全集を多少の色つけをして刊行した。色つけはなんと、100年間も見破られることがなかった。これが石河の勝利でなくして何だろうか。私には石河の高笑いが聞こえる。

福沢: おまえ、うまくやりおったなあ。。さすが俺の弟子。。
石河: ははははは、センセの意地の悪い薫陶のタマもの、かも。

以上のようなことを考えて、本日はグッドナイト。

追記1:
平山さん、石河に対して思想犯罪、というような言葉はやめたほうがよいのでは。思想は機略、思想はバトル(注)。平山さんの解釈によれば、日清戦争は通常の戦争であり侵略戦争でもなんでもない。ならば、通常の戦争行為を積極支援する石河は、なぜ、英雄でないのだろう?平山解釈によれば、普通の戦争に手をこまねいている福沢こそ犯罪人ではないか。全集編纂に際して真筆偽造をなしたのを仮に「犯罪」と呼べるとしても、その行為から時間的に遡って、社説を無署名で書くことは(もちろん、福沢も無署名で書いた)、社説の内容を問わず、いかなるいみでも犯罪とは言えないのである。現在の行為の故に、過去を裁いてはならない。平山さんはこのことに無頓着であるから、この本を読んでいて、落ち着かない気分になる。仮に「偽造」が無かったとしよう。戦意昂揚社説を書いたことをいかなる意味で裁けるのだろうか?偽造があったから、遡って裁ける?なければ裁けない?偽造があろうと無かろうと、戦意昂揚社説を書くことは悪いことだ?(戦意昂揚社説は当時、時事新報以外に、ゴマンとあったろう)。戦意昂揚社説、と、偽造の間には因果関係はないのである(万一、あったとしても、結果から、原因を裁けるものではない。金ほしさに、盗みをはたらいたからといって金銭欲を裁くことはできない)。むろん、平山さんは、日清戦争について戦意昂揚をはかることは何ら問題ないとおもっておられるはずだから、仮に福沢が戦意昂揚社説を書いたとして福沢を「それゆえに」責める理由は存在しない。石河が書いたとしても、同じことである。
(注) 理由: 時事新報の無署名社説は筆者が誰であろうと、福沢に関連づけて読む人はあるはずだからである。個人の思想ではなく、社会にどう受け取られたかを考えれば全集に入れるのはわたしは妥当と思う(無いと困る)。残る疑問は、福沢が石河の社説をなぜ、見て見ぬふりをしたか、である。わたしは、先述のように、これを 承認した行為、とみなす。福沢が承認できぬ内容ならそれをそのまま発表したのは時事新報オーナとして(読者に対して)無責任だと私は考える。この点、平山さんは、福沢は時事新報社(執筆)から離脱しているというが、それで責任を当時の常識として免れるか私は疑問である。(現在の朝日新聞社説に対して、執筆者が誰であろうと、朝日新聞(経営者)は責任をもつだろう)。

追記2: 
福沢を「市民的自由主義者」vs 「侵略的絶対主義者」という軸で見たいというのが平山さんだが、平山さんにひいきしてみると、福沢が晩年、石河の前で立ち往生したのは「市民的自由主義者」で終わったから、ということになる。あの時代、それだけでは 死に体、になるしかないのである。むろん、わたしは、双方を福沢が体現した、という考えを捨ててはいない。

追記3:
遠山茂樹「福沢諭吉」は、わたしにとって、世評高い「明治維新」より名著である。福沢に対する真情と理解に溢れる記述に胸が熱くなる。


福沢諭吉の真実 その2 平山洋さんの回答 と 質疑 [福澤諭吉]

平山さんから早速の回答があったので謝意と共に私のコメントを追記します。番号が振ってあるのが平山さんの回答(前記事のコメントを、再掲するものです。抜粋などせず、全文をかかげ私質問があるばあいは追記します。 
なお、前振りとして、平山さんの前回のコメントにあった日清戦争の起原について違和があるので勝手ながら論じておきたい。
まず、日清戦争はおおまかにいえば、清国と日本による韓国の奪い合いである。統治権をどちらが獲得するか。もちろん韓国は長く清国を宗主国としているし、日本はその古い宗主=属国関係をこわしたい、とおもっている。手っ取り早く言えば、清国勢力を戦争により排除したい。。。その口実を政府は求めていた。だから、降ってわいたような戦争でもなく、日本がそのきっかけを血眼になって探していた、というのが正しい。
陸奥宗光は、「曲を我に負わざる限りはいかなる手段にても執り、開戦の口実を作るべし」と、出先の公使館に内訓を与えて、戦争の正当性を獲得した上での開戦を求めていた。
福沢がこの動きを知らないわけはなく、その要請に応えて、時事新報94/7/29の論説「文明開化の進歩を謀るものとその進歩を妨げんとするものとの戦い」と位置づける。当時、国民はそれほど国外における戦争を指示していたないようだ(意義、がわからなかった)。しかし、福沢による 文明対野蛮、という ベクトルの変更 により 国内の開戦に対する世論が形成された。。という考え、わたしはいま、これが実態であろうとかんがえています。

で、平山さんのコメントをみてみた。
####

いやあ、多岐にわたる膨大なご質問ですね。

ポイントだけを述べます。

>1 社説は一貫して無署名でした。「我輩」という人物が時事的な意見を述べる、という体裁ですが、それが誰であるかは分かりません。つまり、法人としての『時事新報』の意見です。それは全ての新聞社説についていえることです。

了解です。

ここでの問題は、
1) この社説を読む人は、社説を福沢の意見として読むか、どうか、ということと、
2) 福沢は、この社説を校閲しなかったか
3) 社説に対する最終責任というのはだれがとったのか?福沢ではないのか?
  たとえば、時事新報であなたはこう述べたではないか、と福沢に問うものがあったばあい、
福沢は、あれはオレが書いたんじゃない、と逃げられますか?

> 2 1882年の『時事大勢論』から1893年の『実業論』までは、社説欄に連載された論説が、「福沢諭吉立案・主筆筆記」という形で単行本化されました。現行版『全集』の第五巻と第六巻に収められている著作です。

了解です
現在の朝日新聞について、たとえば、天声人語のようなコラムは執筆者作品として単行本化されていますが、社説は執筆者が誰かは不明で(知る人ぞ知る、のだろうが)、単行本化はないようです。明治当時はそういう習慣があったのですかね。。兆民などの社説も、岩波文庫に一部、載っていますが。。(おそらく全集には完全収録している。。)

> 3 1882年から93年までの11年間に社説欄掲載後単行本化された著作は全部で16冊、掲載日数は合計で175日分です。11年で約3500号ですので、社説総数のうち約5%が福沢名で出版されたということです。

了解です。

> 4 94年以降、社説欄に掲載された論説が福沢名で出版されることはありませんでした。97年の『福翁百話』からは、社説欄とは別の特別な掲載欄が設けられました。

了解です

> 5 福沢が亡くなるまでの総号数は、約6000号です。そのうち約1500編が現行版の「時事新報論集」に収められています(既単行本収録分は除く)。

了解です

> 6 福沢は『時事新報』のオーナーではありましたが、社長でも主筆でもありませんでした。奥付欄にもその名前は記されておりません。

了解です。
1の質問の繰り返しになりますが、社説は かりに福沢が書いたとしても 社の意見であり、福沢の意見とはみなされなかったということでしょうか?

> 7 読者が、社説欄の論説を、福沢の意見として受け取っていたかどうかは、分かりません。

これは大きな問題ではないでしょうか?一般人はともかく、福沢の弟子を自認するひとは多くいたはずだし、明治の知識人なら社説を読んで、これが福沢さんの考えか、と思ったのではないのですか? 

8 私が、石河は福沢の名を騙った、と書いたのは、自分で執筆した論説(その証拠もありますし、石河自身そのように述べています)を、『福沢全集』の「時事新報論集」に収めているからです。

これは前便に書いたとおりです。
おれが執筆した、といったのなら騙ったことになるでしょう。
しかし、ケネディ大統領の演説草稿を書いた人間が、ケネディ全集に黙って 演説を収めるのは自然であり、当然です。ケネディも手を加えたし、ケネディの方針に沿わない内容を許すわけもない。同様に、時事新報(福沢がオーナ)、というものが 福沢の意見を反映したものか、そして、福沢もその意見を了承しなければ 新報にのせられない、というのであれば、全集に載せるのは当然でしょう。石河執筆であっても。 執筆者が誰か、というのは社説の場合は二の次、とおもいます。そのうえで、真筆は誰か、という事実を 全集の注意書きとかで示せばいいのであり、これを石河が怠った、のうのが罪である、と平川さんはおっしゃっている、と私は認識している。
 社説の内容について、初期には福沢が手を入れた、と書いておられます(平川氏著書)。
 後期にはどうだったのでしょうか。(おそらく不明)
 
9 遠山茂樹・服部之総両氏は、石河自らの、1892年以降の論説はほとんど自分で書いた(拙著75頁)、という『続福沢全集』(1933年)の注意書きを無視して、それらを福沢自身の思想と見なす、という決定的な間違いをしています。

 どうして間違いといえますか?

1) 「執筆は石河が行った、それは、俺=福沢の思想ででもある」
2) 「執筆は石河が行った。俺=福沢の意見とは全然違う」
   2)であることを証明しなければ、社説を福澤の筆になる、といわなくても福沢の思想と考えてさほど不自然を感じません。
  ケネディの例と同じでしょう。

> 10 石河執筆の論説に福沢が関与した証拠は、石河自身の証言を除いてほとんどありません。

了承です。

> 11 遠山・服部両氏が述べる福沢のアジア観は、完全に石河の『福沢諭吉伝』第三巻(1932年)に依拠しています。そこで使用されている多くの論説は、井田メソッドによれば、石河が執筆したものでした(「日清の戦争は文野の戦争なり」「日本臣民の覚悟」も)。

  執筆者がどうであるかということは、どうでもいいことではないのでしょうか?
これは 平山さん自身が著書で、述べておいででしょう?たとえば、脱亜論も石河執筆であってもちっともかまわいわけです。 福沢が追認した、のであれば。 そもそも、自分と全く思想のことなる意見を社説として載せる、ということがあり得た、のでしょうか? 非常に不自然に思います。

「日清の戦争は文野の戦争なり」
「日本臣民の覚悟」

この2つの重要とおもわれる説の趣意と 福沢の考えは異なる、という証拠は何でしょうか?
(最初に述べた、私の考えもこの社説のことを言っています)

> 12 福沢と日清戦争のかかわりは、始まったときに募金運動をしようとして頓挫し、戦争終結のときに喜んだ、というそれだけしか分かっていません。戦争について触れている書簡もごく少数です。

沈黙していた、ということでしょうか。平山さんの考えは。
石河の上記社説は読んでいたのでしょうか?知らなかったのでしょうか?
読んで黙認したのでしょうか?
書簡や通俗国権論?などの文面からみると、↑の社説などとの連続性を感じます。

> 13 1898年に福沢が脳卒中に倒れたのは確かに大事件でした。ただ、半年後には肉体的にかなり回復してきて、散歩の写真などが撮られています。しかし自身による文章は残っていないのです。後年塾長となった鎌田栄吉は、そのとき福沢は失語症であった、と証言しています。

了解しました。

> 14 福沢にとって『時事新報』はビジネスであり、そこでの言論を消耗品と見なしていたふしがあります。自分名義の著作については自分で『福沢全集』(1898年)を作ってしまったので、あとの社説が残るとは思っていなかったのでしょう。げんに、『時事新報』を除いて、当時の生の言論はほとんど読むことはできなくなっています。

了解しました。

> 15 古井戸さんの感想の最後の部分に同意します。今までの研究は想像を絶したものだったのです。

これについては、既に述べました。

いろいろ貴重なデータを揃えて頂き感謝します。

井田進也さんのテキストクリチクの成果は認めますが、たとえば、遠山「福沢諭吉」の結論が全面的に 石河執筆の社説にのみ寄っている、というのでなく、書簡や著作から多くの論拠を得ている限り、わたしは 日清戦争を起こしたがった政府(もちろん福沢はソレを知っていた)を支援したとみます。 

脱亜論、という社説は福沢のものと認めておられますが、これと、

「日清の戦争は文野の戦争なり」
「日本臣民の覚悟」

の2つは連続性がありませんか?相反しますか?

では、福沢は 朝鮮、と、清国と どのように付き合いたかったのでしょうか?
特に意見はなく、政府の方針に従う、ということでしょうか? そうであれば、全く魅力のない凡人になってしまいます。 ひいきの引き倒し、というのはこのことだとおもいます。平山さんが福沢にひいきしているとはおもいませんが。


福沢諭吉の真実: 平山洋さんからのコメントとわたしの回答 [福澤諭吉]

はじめに: 
この記事は 4月4日付けの私の記事(竹内好メモ: 中江丑吉と北一輝)の一部、とそれに対するコメントを 再掲するものです。

##

わたしは、「竹内好メモ: 中江丑吉と北一輝」、と題した記事(4月4日)で 平山洋「福澤諭吉の真実」(文春新書)に批判を行った。それに対して著者である平山さんから、本日、おもわざるコメントをいただいた(感謝)。 

コメントに対して私は記事コメント欄に、回答したが、コメントでは目立たないので、ここで、平山さんのコメントと併せて、記事として再掲する。元記事をコメントとともに読んでもらえれば済むのだが、平山さんの著書に言及した部分は記事中のほんの一部(間奏曲)であり、探すのが面倒だからである。
(平山さんにことわってはいないが、公開を意図してのコメントだから了解してもらえるものとおもう)
また、元記事の 平山さんの御著書に言及した箇所をそのまま最初にかかげる。そうでないと、意味が伝わりにくいと考えたからである。この記事は著者の直接の応答をもちろん予定していないのでソレを良いことに、やや、冷笑気味の内容なのでここにそのままの形でかかげるのはフェアでなく、わたしも気恥ずかしいが、上記の履歴であるからご了解願いたい。

わたしは工学系を専門とする一翻訳者である。記事を見られれば分かるとおり、素人然のものしか書いていない(いいわけをしているのではない)。そういうサイトのつたない記事に目を通されたこと、さらにわざわざ、コメントをいただくなどおもわざる名誉である。コメントを寄せられた平山さんにはこころより感謝申し上げます。

これは問題作であることは私も認めるので、読者のみなさんも是非、平山さんの御著書を読まれた上で再度わたしの記事、あるいは平山さんのコメントをよまれることを希望する。
    (参考) 平山洋著『福沢諭吉の真実』 文春新書 平成16年8月刊

以下の内容:
1 竹内好メモからの抜粋(平山氏の著書に言及した箇所)
2 平山氏の同記事へのコメント
3 平山氏コメントへのわたしの回答

残念ながらいま御著書が手元にない(自宅のどこにかにはあるのだが)。見つけた後、詳細な書評をしてみたい。また以下の私のコメントは平山氏がコメントに掲載しているURLの記事を読んでいない段階のものである。このURLと「福澤諭吉の真実」を再読した上でここにあらたに書評を行うつもりである。「福澤諭吉の真実」(文春新書)はわたしも詳細に読み、ノートパドとメモを多く残した本である。

######## わたしの、「竹内好メモ:」 から、福澤諭吉に言及した部分を、抜粋#####

西川長夫はつぎのように言っているようだ。
##
 福澤諭吉「脱亜論」について、それを転向としてではなく「文明論の概略」からの論理的帰結と主張している。わが国ではいまだに啓蒙主義者としての福澤像が支持されているようだが、啓蒙主義も非西欧に対しては、文明や文化の名において「野蛮」を断罪する植民地主義へと転じたことを忘れてはならない。西欧の文明概念が「文明化の使命」に見られるように、帝国主義的な植民地にいたったのと同様に、「文明概念を深く理解した福澤は、みずから脱亜論への道を準備したのである」
## 戦後思想の名著50(平凡社)から

間奏曲♪:
脱亜論について。。。平山洋「福澤諭吉の真実」(文春新書)は、西川のような見方から福澤を擁護しようとして、脱亜論的=福澤像は 福澤全集編集者が意図的にでっち上げたものだ!と叫んでいる。しかしいかに声を張り上げようとがんばっても「脱亜論」は福澤諭吉の「真筆」であることは間違いなかったらしい(残念、無念さがこみあげているような記述がおかしかった)。さらに平山は言わなくても良いのに 「脱亜論」が時事新報に無署名で掲載されたとき、当時の国民は誰もこの記事に注意を向けなかった、とこのことから何を帰結したいのかわからぬが、言っている。誰の注意もことさら喚起しないのはきわめてあり得ることだろう。すなわち、時事新報社説(東亜論)が掲載されとき、これに読者がことさら注目しなかった理由は、福澤が脱亜論者、中国侵略者論者であることは、当時の国民にとって「想定内」であり、多くの著作で、福澤本人が国民に顕示し続けていたからなのだ(書簡を読めばなおあきらか。日清戦争勃発の報に接し、生涯の歓び、と小躍りしている)。福澤による国民啓蒙の努力が実ったのであり、福澤(や平山)には慶賀すべき事態になっていた(脱亜DNAは平成まで生き延びている、というおめでたき仕儀にござる)、のである。これに目をつむりたい(諭吉が生きておれば余計なことするな!と一喝するだろう)平山のような慶応学者に、お役目ご苦労にござる!の暖かいヒトコトを送るのが人倫の道ってもんだろう。
間奏曲♪おわり。
   **おもひで: ↑を「福澤諭吉の真実」書評としてアマゾンに送ったんだが、ボツ、じゃった。

############ 平山さんからのコメント (再掲) ###########

『福沢諭吉の真実』の作者です。

拙著をお取り上げくださり、ありがとうございます。

論説「脱亜論」は、当時の専制国家清国とその影響下にあった朝鮮国を批判する、すぐれた論説である、と考えております。

そこに侵略主義などは見出すことはできません。末尾にある「処分」という言葉は、当時は、「法律的に正当なありかたで対処する」というような意味でした。「琉球処分」や「秩禄処分」などがその用例です。

なお、下記URLをご参照くだされば幸いです。
http://blechmusik.xrea.jp/lab s/fukuzawa/f03.html
by 平山 洋 (2006-04-13 10:09)

###### 上記平山さんからのコメントに対するわたしの回答 (再掲) ########

こんなつたないサイトにわざわざお越しいただき感謝します。
わたしは平山さんの著書を手に取るや、あちこちに批判の文言をつらねました(どこやらの有名サイトでのつたない一文は平山さんもあるいは読まれたかも知れません。yamabikoというハンドルネームを使いました)
 わたしは、千葉県印西市原山にすむ井上昇ともうします。

良い機会ですから、平山さんの御著書を再読し、わたしの批判したい論点を再度まとめます。その際には上記URLも参考にします。

注意しておきたいのは、脱亜論、という場合、その数百文字の短い論文(時事新報社説)のことに閉じて論じているのではありません。福澤のその前後の書物や書簡をあわせて 彼の アジアに対する態度、のことを論じているのです。これが気に入らない、というのであれば、 脱亜論 とよばず、脱亜主義、にいいかえればよいだけのはなし、大きな問題ではありません。まず一点注意しておきます。

いま御著書が手元にないので記憶に頼って書きます。

1 平山さんの論点は 時事新報の福澤真筆でない部分が全集に紛れ込んでいる(意図的に、あるいは非意図的に。平山さんは前者という)
 これは私などの手の及ばないところであり、了承せざるを得ません。
2 平山さんは今回も「侵略主義」とおっしゃって、侵略、とはいわない。まことに注意深い書き方です。 わたしなどが、論ずるより、福澤の富国強兵、文明論の概略の基本思想、がまっすぐ 中国侵略へつながった、というのは定説ではないのでしょうか? 倫理的に非難しようと言うのではなく、論理的な帰結ということです。 平山さんは中国「侵略」ではなく、なんだとおっしゃるのでしょうか? 
侵略はあった、けれども、侵略主義、というのはなかった?
   では、進出といいかえればいいのでしょうか? 進出主義といえば、福澤も有していた、ということでよろしいですね? それで結構だと思います。言葉の問題だから。

平山さんは引用しておられないが、福澤には 軍事的な海外進出をやるべし、という論文著書をすでに書いています。平山さん以上に用心深い福澤は、
  遠山茂樹のいう 「しかりといえども」 の論理で巧みに隠していますが。

御著書の おしまいのへんにあったとおもいますが、脱亜論を発表したおり国民はだれもそれが福澤の筆になるとは知らなかった、とおっしゃっています。
これはどういうことだろうか、と私は考えた。
1 論説を 福澤が書いたかあるいは時事新報社員が書いたか、読者は意識していなかった
2 脱亜論がかりに福澤以外が書いたかどうか、も意識していない。つまり、福澤が中国進出推進派であることは国民にとって周知の事実であるから、この論説はなにも新しいことを言っていない。
3 時事新報社説など誰も読まなかった

いずれにしても、書簡などで中国進出の一報を驚喜している、というのは事実であろうから、進出の意図がなかった、とは平山さんもおっしゃらないでしょう。
であれば、 侵略か、進出か、の差であり、平山さんは 「侵略の意図はなかった」と「誇張」宣伝して、「進出の意図はなかった」とまで読者に誤解を与える可能性があります。 別の著書で、 福澤には 中国韓国への軍事進出の意図があった、と正しい情報を広める責任があるとおもいます。 また、後書きで、

福澤は近代市民主義者か
vs
福澤は侵略主義者か

という対立点を持ち出しておられますがこれは、上記の通り言葉の詐術です。
福澤は近代主義者であり、(しかるがゆえに)侵略主義者(平井さんならあるいは進出主義と呼称されるかもしれない)であった、
のです。
近代主義者=侵略主義 の等式が19世紀には世界の常識であった、福澤はそれに棹さした、ということです。これは フランス革命が悲劇でありふりかえってみれば近代化を早めた劇薬であった、のとおなじく、ニッポンの近代化にも劇薬であったというべきでしょう。福澤をわたしが非難しているのは、現在の視点から他にとるべき道が明治の日本になかったか、と言う観点から同時代人としての福澤を、あるいはわたし、われわれが、かりに(if) 明治時代にwarpしたらどういう政策により近代化を図るべきか、という観点からです。 福澤は遅れた帝国主義国家から出た知識人の一典型であり、われわれが超克すべきモデルのひとりとしてあります。現在、まさに、研究しなければならない人物です。そういう観点から、わたしは、平山さんにも 論じて頂きたく思います。

以上
###

平山さんのような著名な研究者から直接、コメントをいただいたことを名誉として再度、謝意を表します。

追記: よく考えたら、ここで省いた 竹内好 などの 明治維新に対する意見も 福澤諭吉の近代、に関するものだ。元記事を参照願いたい。


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