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若松丈太郎 [Language]

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本日届いた本二冊は、いま、わたしにとって最も大切な十冊の本のうちの、二冊となった。若松丈太郎の第八詩集『北緯37度25分の風とカナリア』、それに若松丈太郎がこれまで刊行した八冊の詩集(第八詩集を除いて、入手は困難)と未刊詩集から抜粋した『詩選集130篇』である。
フクイチ事故を予見した、といわれる詩により若松丈太郎は有名になったが、この選集を読めば原発詩がなくても彼の詩がすばらしいことが分かる。
 若松の視点は、賢治がそうであるように、土俗的であると同時に宇宙的である。作品世界はけして彼が大部分の生活拠点としている福島や南相馬に閉じていない。自身も原発事故を追ってチェルノブイリに出向き、郷里の敬愛する作家・島尾敏雄を追って石垣島に旅する。詩人は数千キロ、数千年の時間を瞬時に移動する軽やかな時空の旅人なのである。わが芭蕉もそうであったように。。。

『選集』に、詩人論を詩人・石川逸子が書いている。石川逸子が聴いた、若松丈太郎の言葉からいくつか引用しておこう(p212〜213)。わたしはこれを読んで怒りに震えた。自分の無知に対する怒りでもある。




電力業界で公然と「東電さんは植民地があってうらやましい」と言っていることを、核災後に耳にし、「わたしたちが生きている土地にいま起きていることのすべてが理解できた」という若松丈太郎氏。


「なぜ『東北』というのか、自分たち自身がいうはずはない。『西南』と言わないのに、なぜ? 命名したのは『西南』のひとたち。近世から近代に遷るときに定まった呼び名です」


石川逸子は、若松の問いを重く重く都会人の一人として、私(石川)も受け止めねばならない、として次のように続ける。

「東京は福島から250キロ離れていますから安全です」とプレゼンし、ぼう大な被災者の今に続く苦難にそっぽを向いてオリンピック招致した現政権や東京都知事など論外と言うほかない。



日本はとんでもない国になったが、いや、明治から平成に至るまでとんでもない国であり続けたことが<核災>により暴露されたが、差別され続けている<東北>が宮沢賢治、啄木などにくわえて、昭和の若松丈太郎を生んだとすれば、東北それに若松丈太郎をわれわれは誇りとせねばならない。


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『日本語は亡びない』 と『日本語が亡びるとき』 [Language]

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金谷武洋『日本語は亡びない』(ちくま新書)が出版されたので中味も見ずに購入した。2008年に出版された『日本語が亡びるとき』(水村美苗著、筑摩書房)を批判するために書かれた本である。しかし読んで忽ち失望した。まるで批判になっていないからである。批判といえる部分は全八章のうち第一章だけ。しかし、これは全面的に金谷の責任ではあるまい。もともと、批判に足る論点が少ないし、水村の文章もきわめて分かりにくい。金谷さんは持論である日本語論(日本語に主語はない)をこの書物で再説してお茶を濁している。

『日本語が亡びるとき』は出版されてすぐに私は購入した(初版第一刷)。しかし、あまりに著者の独りよがりの発想が多く閉口した。ほとんど投げ出した、といってもいい読み方しかできなかった。この本の帯にはこうある:

<「「西洋の衝撃」を全身に浴び、豊かな近代文学を生み出した日本語が、いま「英語の世紀」の中で「亡びる」とはどういうことか?日本語と英語をめぐる認識を深く揺り動かし、はるかな時空の眺望のもとに鍛えなおそうとする書き下ろし問題作が出現した!

豊かな近代文学を生み出したのは日本語だろうが、日本語が生み出したのは近代文学だけではない。<近代文学>を生み出すために幕末の知識人が日本語を確立したわけでもない(西洋語の輸入)。

著者の言う意味での近代日本語が生まれたのは、幕末から明治にかけてわれわれの先人が西洋語を日本語に置き換えてくれた努力が大きい。その作業は翻訳というものではない。たとえば、人権、鉄道、憲法、選挙、等日本に対応物がない概念、事物に日本語を宛てるのだから発明、といってもよい作業であった。この作業に寄与したのは西周や福沢諭吉らの武士(精確には下級武士。つまり明治維新の主役)である。かれらは西洋に渡り、啓蒙され、多くの書物を読んだ。諭吉は民間人として、西周は幕府の役人としてこの作業にあたった。西周(1829-97)をわたしはとりわけ評価したい。この時期に彼らが発明した日本語はつぎのようなものである。

鉄道、電信、電話、電報、郵便、学術、技術、芸術、文学、哲学、心理学、生理学、地理学、物理学、化学、天文学、地質学、鉱物学、植物学、動物学、演繹、帰納、口碑、散文、政府、立法、行政、思想、文化、文明、、経済、教育、社会、進歩、流行、構造、規則、科学、医学、概論、現象、批評、象徴、現象、観察、抽象、概念、定義、分類、理性、命題、合成、哲学、思考。。。

近代は経済、産業の時代であり、政治、学問の時代であり、その基礎には言葉があった。言葉を習得せねば近代国家は建設できない。幕末の知識人がそれを悟って西洋の物的知的資産を導入するための基礎作業を行った。明治期に花開く文化や言論活動はこの基礎作業がなくしては考えられない(しかも、この導入作業は江戸期だけに突発的に起こった現象ではない。日本の文字=漢字、そのものが半島を渡って導入されたのであり、さらに言えば「日本人」とは渡来人なのである)。この基本語彙は数千におよぶがその大部分は中国にも輸入され、現在でも使用されているという。中国の 小平とう しょうへい)首相が生前、日本高官に対し「中国は日本に悪いことをした。それは、漢字を輸出して民衆を苦しめていることである」と言ったそうだが、とんでもないことである。漢字がなければ西洋語の導入をかくも短い期間に行うことはできなかったろう。現代中国語の語彙の60%は明治以後日本から中国に逆輸出しているのだから中国はシッカリ、収穫を刈り取ったというべきだ。

水村美苗の「叡智を求める人」には西周や福沢のような基礎作業をした人々を数えるべきである。

水村はさらに、英語を<普遍語>と呼称している。(私は普遍語というより共通語で十分だとおもっている)。水村に言わせればラテン語や古典ギリシャ語は亡びた言語ということになるのだろうか?しかし、現在の英語のうち、とくに学術分野で多用される言葉(上記の幕末人が日本に導入した言葉)は、ラテン語、ギリシャ語を使用して西洋の先人が数千年にわたって築いた学問体系がなければあり得ない言語である。オックスフォード辞典などを引き、英語の語源を調べれば明らかなことだ。この意味でラテン語は<亡んで>はいない。日本語に翻案されたのは英語、フランス語、ドイツ語からであるにしても、その根底にある知の体系としては日本語もラテン語、ギリシャ語に直結しているとみるべきなのである。英語を<普遍語>と呼ぶのは皮相的な見方である。普遍なのは、ラテン語やギリシャ語であり、これが現代の(西洋、そして日本の)世界観の幹を構成しており、枝葉である英語や日本語に直結していると考えるべきだ(注)。西周や福沢等が(さかのぼれば解体新書の訳者達が)西洋語に対応した日本語を発明した時点で、日本語は西欧の知的体型に繰り込まれてしまったのであり、日本語の普遍語化への回路は半分以上完成していたのだ。

(注)むろん、ギリシャ、ラテンを普遍というのは西洋中心主義である。たとえば中村元博士の言う<普遍思想>のような、仏教、ヒンズー教、儒教、キリスト教、等々を文化圏を異にしながら共通な思想問題がある、とする比較思想的な考察が必要になる。 日本の幕末がなぜ、西洋思想を(苦労はあったとはいえ)受容できたか、という問題である。この問題をこそ、いま考えないとイケナイのだ。

水村はどう理解しているのかはっきりしないが、水村のいう<現地語>には上記の幕末明治に製造された言葉を含めるべきであろう。これらは中学高校生の使用する学習辞典には(広辞苑、大辞林には無論のこと)収録されており、高校生たちは、受験科目である現代国語の小論文にこの言葉をあやつって作文している。

「亡びる」とはどういう事態を指すのか?著者はつぎのように<定義らしきもの>を掲げている。長くなるが重要な箇所なので厭わず引用する。p51~52。

英語が<普遍語>になるとは、どういうことか。

 それは、英語圏をのぞいたすべての言語圏において<母語>と英語という、二つの言葉を必要とする機会が増える、すなわち、<母語>と英語という二つの言葉を使う人が増えていくことにほかならない。そのような人たちが今よりはるかに増え、また、そのような人たちが今よりはるかに重要になる状態が、百年、二百年続いたとする。そのとき、英語以外の諸々の言葉が影響を受けずに済むことはありえなあいであろう。ある民族は<自分たちの言葉>をより大切にしようとするかもしれない。だが、ある民族は、悲しくも、<自分たちの言葉>が 亡びる のを、手をこまねいて見ているだけかもしれない。

 言葉の専門家である言語学者の多くは、私のこのような恐れを、素人のたわごととして聞き流すにちがいない。私が理解するかぎりにおいて、今の言語学の主流は、音声を中心に言葉の体系を理解することにある。それは、文字を得ていない言葉も文字を得た言葉も、まったく同じ価値をもったものとして考察するということであり、<書き言葉>そのものに上下があるなどという考えは逆立ちしても入り込む予知がない。言語学者にとって言葉は劣化するのではなく変化するだけである。かれらにとって言葉が 亡びる のは、その言葉の最後の話者(より精確には最後の聞き手)が消えてしまうときでしかない。

 いうまでもなく、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの<書き言葉>が、あるとき空を駆けるように高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。

(引用おわり)

つまり、水村がいう<亡びる>とは明治の頃(日本を席巻した?ほんとか?)にあったらしい日本近代文学が生産されなくなる状態(もちろん図書館や書店には遺産として存在する)を指しているのである。家庭でも日本語が話され(十年前、プロアメリカ政策を進めていた米国のある州において、家庭で母親が子供とスペイン語で話していて罰せられた例もある。むろん母親はスペイン語しか話せなかった)、義務教育として日本語が教えられ、放送局からは日本語が流れ、日本語新聞が読める(外国語新聞は数えるほどしかなく、外国語放送局などない)。ただし、<読むに足る文学がない>。こういう状態を<亡びる>と称しているのである。

現在世界には六千程度言語の種類があるらしい。その言語が(言語学者のいう) 亡びる 状況とはどういう状況だろうか。わたしは少し考えてみたが、3種類のパターンしか想定できなかった。

パターン1 絶海の孤島に住民が300人程度住んでいる。使用言語は他のどの国とも異なる。あるとき、治療困難な流行病にかかり住民が全滅してしまった。あるいは住民が世界各国に分散移民することにより言葉を捨ててしまった。(ガラパゴス型)

パターン2 国語を有しているある国と他国が戦争をして敗れた。あるいは侵略された。戦勝国あるいは侵略者が、そのくにの国語を使用禁止として戦勝国、侵略国の言語を強制的に押し付けた。インドにおいて英国が押し付けた英語や、朝鮮、台湾において日本が押し付けた日本語のような状況。もとからあった言語はすくなくとも表面的には壊滅する。(植民地型)

パターン3 複数の言語が同時に存在する国家で、ある一つの言語しか実質的に公用語とせず、他の言語は放置した結果、自然消滅する。あるいは、多言語国家であるカナダやスイスが、住民の総意により公用言語を一種類に絞る(学校では教えない)、と決定した場合。(シンガポール型)

第3のパターンの代表例であるシンガポールに、わたしは15年前、何度か出張し現地のひとびとと共に仕事をしたことがある。国民(市民)の8割が中国系、残りをマレー系、インド系が占める多民族国家であり、言語もそれぞれの母語を話している上に、英語を話さないと暮らしていけない国であった。もともとバイリンガルがほとんどを占めていた。われわれ外国人と話すとき(ビジネス)は英語であるが、私たちがいないところでは(シンガポール人同志)、猛烈な速度の広東語が飛び交う。香港でも同じことを経験した。そのころ、マレー語、中国語も一応、英語と並んで公用語に指定されていたが学校で教えられる時間もどんどん削減され、実質的にこどもたちは英語しか話せなくなってきている、という問題があった。家に戻っても子どもたちは、中国語しか話せないお爺ちゃんお婆ちゃんと意思疎通ができない、という問題がある、と現地の同僚が話していた。当時は中国語新聞も数紙みかけたが、やがて消えていったろう。それでも、シンガポール国家は住民の意思として英語の実質単独公用語化を支持したのだ。

インターネットで英語が飛び交っているというのに、日本人はいつまでたっても英語がしゃべれない、使えない、と水村は考えているらしい。私に言わせれば、しゃべる必要がない人が多いからしゃべらないだけ、使う必要がないから使わないだけ、である。それだけ日本語が優秀であるということの裏返しにしか過ぎない。将来、<内需>が激減し、国内に就職口がなくなり(遠い将来のことではなさそうである)出稼ぎするしかなければ、日本人も本気で英語を習得するだろう。もう20年も前のことだが、私の田舎(広島)の近所の若い人(マツダ勤務)がデトロイトの工場に長期出張することになった。いま、会社で英語の特訓を受けている、と言う。何をやっているの?と尋ねたら、リンカーンのゲチスバーグ演説の丸暗記だそうだ。私はこの勉強の仕方を悪いとは思わない。もっとよいのは、中学三年生の教科書を丸暗記することだが(これは、わたしの学生時代の英語教師の言っていたこと)。いずれにしろ、必要がアレバ、外国語などすぐ身に付く。そのまえに、自動車会社であれば、安全なクルマや人事管理について<日本語>でしっかり知識を身につけておくことだ。

水村のいう<亡びる>をわたしはまだ理解できていないようだ。再掲する。

いうまでもなく、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの<書き言葉>が、あるとき空を駆けるように高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。

著者は第八章(最終章)で、日本語を亡ばせたくなければ、「近代文学を多量に読め」とくり返している。これは著者の意見だ。反対したって仕方がない。価値観の相違だから。しかし、水村の私淑しているらしい<知の巨人>加藤周一ならこんな馬鹿なことは言うまい。加藤は『文学史序説』で、文学概念を、科学宗教を含めた人間活動の内の言語表現すべてを対象としてとりあげ、日本人の知の歴史(とくに海外からの影響と、その受容の仕方)をおさらいしている。加藤は、「富士山が日本一美しい、というのなら了解しよう。富士山は世界一美しいというからおかしなことになる」とも言う。水村は、明治期日本の近代文学は世界史的に見ても希有の現象、日本のホコリ、という。わたしも、漱石や鴎外がエライ、とはおもうし、漱石の『文学論』『文学評論』は愛読書、といってもいいほどだ。しかし、漱石の文学が日本一だともまして世界に誇れるとはサラサラおもっていない。極端にいえば、明治期の近代文学が消えてしまっても現代の日本がどうこうなるというものでない、と思っている。しかし、前述した、明治維新前後の先人の基礎作業(語彙作り)にはこれからも敬意を表し続けるだろう。わたしは馬場辰猪のファンであるが、彼は反政府活動で国外脱出し、英国ロンドンで、日本語文法書を(英文で)著した。当時、日本にはまだ『国語』がなかったから、この際、英語を輸入して国語にしてしまえ!という意見に対し、それをやればインドのように上流階級(知識階級、すなわち武士)だけが英語を話し、下層階級(町人の大部分、農民)は日本語=和語、しか話さなくなる、と主張しこれに大反対した。インドの実態を知っていたわけだ。こういう先見の明がある人間にもわたしは敬意を払う。

060423_1541~01馬場辰猪.JPG 馬場辰猪

わたしは、別のブログ記事で3年前に『小学生からの英語教育』に反対した。わたしは、日本語を身につけることは英語教育の基礎にもなるのだ、と言ったはずである。上記の説明はこの補論になっているはずである。日本語(現地語あるいは国語)を習得することは、いわゆる<英語>(水村に言わせれば普遍語)のかなりの部分を習得することなのである。日本語と英語は別物ではないのだ。

ついでにいっておけば、公用語に英語を追加してもそれほど問題ではない、とおもっている。この意味は、小学校で英語を教えろということではない。シンガポール方式を採用しろということであり、義務教育としては(中学で)英語をほどほどに教える、ということだ。(つまり現状の日本は英語を公用語として採用している、といえる)。さらに、極言すれば、『国語』として英語を採用してもかまわない、とおもう。問題はそのための経済的な損失、国民生活の大混乱が生じる、という実生活の被害が大きくなる、ということ。シンガポールの場合は建国してから年数も浅い。英語に絞ることによる現実的な損失はほとんどない。原理の問題と、現実の問題はわけて考えるべきである。

英語は、米英でしゃべっている言葉、ではなく、国際英語である(英語と国際英語は質が異なる。土着英米語は国際英語ではない)。経済におけるドルやポンドのアナロジーとして英語を論じるのは正しくない。かりに英米が、英語を捨てても、英米以外が英語を国際語としてそのまま採用し続けるということである。もちろん、国際語としてエスペラントを採用するということもありえる。どれほどの国がサポートするか、という現実の問題が残るだけだ。さらに、現在の社会の言語にたいする要求条件(グローバル化、政治や経済活動、学術交流など)を満たすことができるか、ということ。

水村はおもしろいことを言っている(p10)。水村が日本に帰国したあと、米国の片田舎で作家会議に参加したときのことだ。

「。。質問の内容以前に、いったい何の木についての質問なのだかがわからない。私は木の名前などは日本語でさえほとんど知らなかった

現代日本の最先端をいく作家にしてこうである。私の田舎では小学生でも木の種類は十種類以上知っているだろう。文学者にはもっと世間を知ってもらいたいものである。

この作家会議に参加していたモンゴル人作家と次のようなやりとりをしたという。

You are a very important person

何かのときに私(水村)がそう言ったことがある。

Everybody is important

英語はきわめてたどたどしいのに、そのような反応が一瞬のうちに返ってくる人であった。

 言葉の上手い下手にかかわらず人格の上下はおのずから明らかになるものと見え、ダシュニムは人格者としてみんなから信頼されていた。

水村はなぜ、日本人が目指すのは、普遍語をペラペラしゃべりまくるひとではなく、このダシュニムさんのような英語は下手でも「叡智を備えた人」になることである、と言わないのだろうか?

ダシュニムさんと仮想問答をやってみよう。

「日本語は非常に重要な言葉である。日本の近代文学は世界の希有な現象である」

「すべての言葉が重要です。すべてのくにの、すべての時代の、文学に限らない言語活動が重要です」

水村は別の講演(日本記者クラブにおける講演。末尾にURLを記載)で次のように述べている。

 せっかく「国語」たりえた日本語を粗末にしてきたという事実と、全地球を覆う「普遍語」としての英語の台頭。その二つが絡み合ってどうなるのかというのが今の状況だと思うのです。

 このままほうっておいたらどうなるか。どんな社会でもそうですけれども、「叡智を求める人」(ほぼ、知識人のこと=古井戸、注)というのは 「普遍語」を読みたい人、すなわち「二重言語者」になる傾向をもつ人です。このまま無策でいると、「叡智を求める人」ほど、日本にいながら、頭脳流出してしまう必然性が高い。それは「叡智を求める人」が日本語を真剣に読まなくなることによって、日本語がいずれ知的、倫理的な重荷を担わない言葉になる、「国語」から「現地語」へと転落する可能性が出てきたということです。

一部の論者が水村を「憂国の士」と呼んでいるのはこういう主張を指しているのだろうか。 日本にいながら頭脳流出とはどういうことか?今、ものごとを真面目に考えれば特定の国民(の利益代表者)と考えていてはダメ、であると、「叡智を求めるひと」なら考えるはずだ。どの国家の国民であれ、国家のエゴでなく、グローバルな視点を要求されるという時代になれば、普遍語が求められるのは当然のことである。水村は普遍語(現状、英語)を <彼らの言語>、であり、<我々の言語ではない>、と自明のように考えているらしい。これは意識の上で英語が<普遍語>たり得ていないということの告白に他ならない。定義からして矛盾した命名である。では、水村は普遍語(英語に代わる)を不要と考えているのか?何も見解を明らかにしていない。杉田玄白、前野良沢らが解体新書を翻訳した時代と今を同列に考えているようであり滑稽である。<日本語がいずれ知的、倫理的な重荷を担わない言葉>になる可能性を憂えるのは杞憂だろう。これは日本語の責任ではなく国民の責任である。明治に発明された日本語という優れものがありながら、日本は今日に至るまで何度も何度も亡び続けているではないか。問題は人間であり、言語システムなど、国家や国家倫理を支えるには屁の突っ張りにもならない、と知るべきだろう。

『日本語は亡びない』で、金谷は『亡びない』とは言っているが私の見解とは主旨は異なる。持論である三上章(日本語文法学者)の説を再論しているだけである。日本語は亡びない、という根拠として、宮部みゆきと中島みゆき(二人のみゆき)の作品をもちあげている。これは反論ではなくクリンチ作戦である。おしまいに近いころになって、クローデル、ラフカディオハーン、さらには、藤原正彦『国家の品格』までもちだして、日本語ではなく、日本国を賞賛している。あきれてしまった。だから、水村のつぎのような非文学的な啖呵にも「こう言い切る水村に、私は立ち上がって拍手を送りたい」と賛意を表するのだ。

人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。

日本人(日本国籍を有する人)であって、日本語を日常的に使用しない人はいてもおかしくない。この引用のような発想をすれば、日夜、外国語を読み書きし、外国語で論文を書いている人は日本国籍をもっていても日本人とは呼べないだろう。日本列島に生まれた人間が選ぶ言葉は本来自由に選択できてよいはずである。それを認めないのは親であり、国家である。私の親は私を中国語で育てたが、わたしは赤ん坊を英語で育てる--こういうことがシンガポールでは起こっているのだ。

水村は日本語を母語とする日本人が、ポーランド語を母国語とするコンラッドが英語で小説を書いたように、第二言語として英語を習得し、英語で小説を書く人が増えることをもって、「日本語が亡びる」と言っている。(すでに、国際ビジネスの世界では英語を使うことは常識である。日本人が中国人、韓国人と話すときでも英語を使わざるを得ない状況である) つまり、村上春樹が日本語ではなく最初から英語で小説を書くようなものだ。文学者が小説を書くとき、どの言語を選択するかは彼の(彼女の)文学の本質に係わることだろう。英語で書けば沢山の人間に読まれて、金が沢山稼げるから。。という理由で普遍語を使うわけではあるまい(金もうけが文学の本質である、という作家がいてもおかしくはないが)。であれば、日本人作家が普遍語(英語)で書くことに他人が異議を差し挟むことはない。コンラッドにおまえはポーランド語で小説を書け!というのはオセッカイでしかない。小説は何語で書くべきであるか?母語を使う必然性はどこにあるか?という設問にまず、マトモの答えるべきではないか?水村はもちろん考えたことはあるまい。(リービ英雄にでも尋ねたらよかろう)ほとんどの日本人の作家が英語を習得し、英語で小説を書く。。これは慶賀すべき事態ではないか?(ファンはこの小説を読むために一所懸命英語を勉強するだろう)。もっとも、水村にいわせれば、そういう小説家は日本人ではない!ということになろう。

金谷は第九章で藤原正彦を援用している(p182)。

「 藤原正彦は『国家の品格』(2005)の最後にクローデルのこの言葉(日本人は貧しい、しかし高貴だ。世界でどうしても生き残ってほしい民族をあげるとしたら、それは日本人だ)を引用して、こう述べている。

 日本は、金銭至上主義を何とも思わない野卑な国々とは、一線を画す必要があります。国家の品格をひたすら守ることです。経済的斜陽が一世紀ほど続こうと、孤高を保つべきと思います。たかが経済なのです。

 ここ四世紀間ほど世界を支配した欧米の教義は、ようやく破綻を見せ始めました。世界は途方に暮れています。時間はかかりますが、この世界を本格的に教えるのは、日本人しかいないと私は思うのです。

 私も藤原にまったく賛成である。さらに言えば、混迷する世界を教える思想が日本語に含まれていることを、本書は明らかにしようとした。そして、それだからこそ、日本語の脱英文法化をさらに進めなければいけないのだ。」

私は金谷武洋のファンであり彼の書いた本は全部読んでいる。『日本語文法の謎を解く』『日本語に主語はいらない』『英語にも主語はなかった』など。スッカリ賞味期限の過ぎた『国家の品格』を金谷がこんなところで引用するとは思いもしなかった。 水村美苗も藤原正彦と案外近いところにいるのかも知れない。明治政府は朝鮮半島に進出し、朝鮮王国の王妃を虐殺することまでやった。韓国併合を見ずに世を去った明治人(漱石など)はまことによいときに死んだと言うべきか。日本の近代に言及したいのであれば明暗、その功罪を明らかにすべきではないのか。

金 文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年 http://pub.ne.jp/bbgmgt/?daily_id=20090618

旅順大虐殺事件 http://www.geocities.jp/forever_omegatribe/thepurtarthurmassacre.html


最後に水村の文章について。明治の文人を賞揚するのであれば、主張の内容はともかく、日本語として音読したり、書き写してみたくなるような(できれば文学ではなく)評論や実務的文章のモデルとなるような現代文を量産してほしいものである。近代国家を築いた幕末や明治の先覚者はとくに個人の名誉を求めるのではなく、無償の行為として国語の構築のため汗を流したのではなかったか。<普遍語>と日本語の間に介在する優秀なバイリンガルの量産を国家に求めるより、先にやることがあるようにおもう。水村は日本の政治家の下手な英語を嗤っている。米国大学院を優秀な成績で終えた鳩山首相や秋葉市長は多少上手な英語を操れるようだが、オバマ大統領にすり寄っているだけの存在である。日本の政治家は英語を話せたしても立派な日本語で演説し、海外の政治家と日本語で会話し、それを通訳を介して普遍語(国際公用語)に直す(中国の政治家はこれを行っている)のが正しい、とわたしはおもう。

水村美苗は本書冒頭で漱石『三四郎』から、広田先生の「亡びるね」という言葉を引用している:

「然し是からは日本も段々発展するでせう」 と弁護した。

すると、かの男は、すましたもので、

「亡びるね」と云った。

広田先生の予言が当たったところで19世紀末の日本が、たかだか幕末維新に戻るだけである。水村美苗の杞憂が当たったところで日本や、日本語が変わるだろうか?何も変わりはしないし、変える必要もない。

水村美苗の日本記者クラブ講演。pdfファイル。これを読めば本を読まずとも彼女の主張はほぼ伝わる。
http://www.jnpc.or.jp/cgi-bin/pb/pdf.php?id=415

関連記事: 小学生からの英語教育について
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2006-04-01


追悼 大野晋先生 [Language]

                                     080714_1405~02.JPG

国語学者大野晋先生が亡くなられた。

私は理系出身であり、先生の御著書の一読者にしかすぎない。先生が著わされた岩波古語辞典を発売直後購入し、折にふれ参照した。この古語辞典作成の過程で得られた知見をまとめられた岩波新書『日本語をさかのぼる』を愛読した。記憶を辿れば、岩波日本思想大系『日本書紀』の解説で先生は、日本書紀の記述は日本の文物をまったく解さない中国人の筆になるものである、と断定されていた。さらに、狭山事件(冤罪)では、弁護側証人として、検察が有罪の証拠とした脅迫文の文体筆跡を分析し、石川被告の筆になるものではないと鑑定されたことなどが印象に残る。岩波新書『日本語をさかのぼる』のなかの日本語の基礎語解説は素人にも明解であり、とりわけ助詞<は>と<が>の相違点の記述は鮮やかであった。


先生の著された『岩波古語辞典』(佐竹昭広、前田金五郎両氏との共著)の「序にかえて」は何度も読み返し、そのたびに励ましを得た。ここに抜粋掲載して先生に感謝し、追悼することとしたい(なお私の保持している辞書は1974年初版、全1488頁である。1990年頃増訂版、1530頁、が出版されている)。

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序にかえて

  長いこと力を注いで来た古語辞典の世に出る日が近づいた。その仕上がりの形を見ると、まことに小さい一冊である。しかし、このささやかな辞書にもそれなりにこれを世に送る志があり、成立の経過がある。今そのおよそのことを記しておこう。
  だれしも、日本人であれば、知的世界に目覚めたとき、眼前にヨーロッパ・アメリカの学芸と技術とを見るであろう。それを学び取ることが日本の将来をきりひらくと多くの人は考える。しかし、ヨーロッパ・アメリカに学ぼうとする主体である日本とは一体何であろうか。
  日本の思想や文化の源流を尋ねるには、さまざまの道がある。しかし、その中で私は、日本語を明らかにすることによって、日本を知るという行き方を選んだ。日本語の根源を明らかに知るために、私は古代日本語を学び、その展開として、日本語の系統あるいは成立を知ることを重要な課題と考えた。そこで私は日本語とアジアの言語との比較を試みたことがあったが、その際に、基礎語なるものが実に重要であることを身にしみて感じた。基礎語は、日本人の物の判断の仕方を根本的に規制している。また、それは長い年月にわたって使われ、変化することが少ない。日本を理解するために、基礎語の個々の意味を明確に把握することは、一つの大事な仕事である。
  その考えによってこの研究に進み入ろうとしていた私は、たまたま「広辞苑」(初版)の基礎語項目約一千の執筆を委嘱され、それに没頭した。ところが「広辞苑」刊行のお祝いの席上、当時の編集部長稲沼瑞穂氏から「古語辞典」を作るつもりはないかという思いがけない言葉があった。それがこの辞書の具体的な出発である。
  由来わが国では「字引」という。不明の漢字の字形・字音・和訓を手軽に知ればそれで終りである。ヨーロッパ語についての辞書もその習慣を引きついでいる。意味不明の語を辞書に求め、当面の文脈にとって適当と思われる訳語が安直に知られれば足れりとする。しかし、辞書はそれでよいものか。
  言語社会における単語は、人間社会における個人に比せられる。人間は、生まれ、成長し、活動し、老化し、死去するという経過を歩む。単語も一つの役割を負ってその言語社会に誕生し、多くの単語の力関係の中で活動し、やがて老化して意味が片寄り、衰えて去るという一生を持つ。広く使われて豪華に生きる単語、全く異なる意味に変身して世を渡る単語、ひそやかに言語社会の片隅に生きる単語がある。児が親の性格をうけつぐように、単語も親の語の意味の血筋をひく。その親の語も、さらにさかのぼれば古い二つの親の語の結合として分析できることが多い。本当は、辞書は単に文脈にかなう訳語を探す場であってはならないものである。辞書は一語一語の出生、活動、老化、死という語の生涯の記録を読み取る場でなければならない。
  殊に日本人の思考の根幹をなす基礎語のごときは、簡単な訳語の羅列によってはその意味を十分には示し得ない。文章を以てその単語の意味を記述し、時に類義語の意味まで併せ記して、その語の個性を明確に弁別する必要がある。それによってはじめて単語の意味の根源を読者に伝えることが可能となり、単語の意味を別の単語で置き換えるという従来の方式を脱した新しい古語辞典とすることができるだろう。  

  (9行省略)

  以上のような考えをもってこの辞書に臨んだのであるが、これを実際に具体化することは至難のわざである。到底私一人のよくなし得るところではない。幸いに前田金五郎・佐竹昭広両氏の参加を得て、三人の協力によってこの辞書の編纂に当たることとなった。古代を大野、中世を佐竹氏、近世を前田氏が主として分担することとした。

  はじめは長くとも数年にしてこれを完成できると考えていた。しかし進むほどに、これは、大海の波濤の中を小舟で漕ぎ渡ろうとするに似た困難な仕事であることを悟らねばならなかった。行けども行けども波は押し寄せて来た。単語に対して誠意をもって努力すればするほど進行は遅くなった。一応の原稿が出来上がって、訳語・例文の検討の会合が重ねられるようになってからは、白熱した応酬が交わされた。主張が分れ議論の激することも屡々あったが、それも、よい辞書を作りたいという三人に共通の情熱から出たものであった。私はこれらの議論を通じて少なからぬ啓発をうけた。
  中世・近世の文献は、数も膨大であり、内容も多岐にわたる。未翻刻の写本あるいは板本の類の、見るべきものは多い。しかもこれらの資料を的確に掌握しなければ、語史を一貫したものとして記述することは不可能である。本書はつとめてここに力を注いだ。それによって、基礎語はもとより、中世・近世の多くの語について、新しい見解に到達したところが少なくないと思うが、これはまさに佐竹・前田両氏の努力の成果である。
  振り返ってみれば、この二十年は私の壮年の時期のすべてに当る。私としては、ほぼ力の限りをつくしてここに到達したように感じる。おそらく前田・佐竹両氏も同じ思いであるに相違ない。しかも、果してこれは所期の内容を十分に実現したのかと問われれば、ただ、かなり誠実に奮励しつづけて来たとしか申しようはない。力及ばず、行きとどかなかった所も多々あると思う。それについて博雅のお教えを心から願う。

(11行省略。原稿執筆者、校閲者、書店への謝意)

  以上を記して、編纂の責任を共に負う前田・佐竹両氏ともども厚く感謝の意を表したい。
       昭和四十九年初秋               
                                            大野 晋


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蝶々は誰からの手紙  丸谷才一(マガジンハウス) [Language]

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本読みの大家が余裕を持って書いた雑文を集めた本、である。内容は自身で書いた書評、書評にカンする考察=本とはなにか、それに、本をめぐる雑文、にわかれる。


書評は著者お得意の文学(日本の古典、西洋文学、文学史。。)に係わるモノが多い。私自身の趣味とは合わないが、ハッとする記述に出会うし、これは読まねばならぬ、と思わせる読書案内として利用できた。何冊かは図書館に注文したし、古書店に注文した本もある。こういう読書案内としての機能が書評の重要な役割だろう。この本では著者の仲間誉めも目立つ。わたしにとってドーでも言い話題が多すぎる。。と、不満をいいだせばきりがない。だいたい、書評とは、本のジャンルにはいらないものなのである。読書好きの井戸端会議を文字にしたもの。丸谷のようにあたかも、教師の如く語るのより、わたしとしては、荒川洋治の物珍しさで書いたような、生徒としての書評が体質に合う。


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本書中の一編、『考え考へるための道具としての日本語』を紹介する。著者が朝日新聞に書いたコラムである。2002/7/31夕刊。

いま日本人はものごとをどう考えたらいいかわからなくなって、途方に暮れてゐる。日本語のことがあれこれ取り沙汰されるのは、そのせいではないか。 日本は西洋の真似をして国家を作った。そのとき国語も作った。標準語も口語文もこのときに出来て、それによって列島を結びつけ一体化することが可能になった。これが日本語である。

(略)

しかし言語には伝達の道具といふ局面のほかに、思考の道具といふ性格がある。人間は言葉を使ふことができるから、ものが考へられる。言葉が寄り添はなければ、思考は単純になつたり、しどけなくなつたりする。その思考の道具としての日本語についてはちつとも配慮しないのが近代日本の言語政策であつたし、言語観であつた。

(略)

総じて言へば大衆と知識人との両方で、思考の道具としての言語が整備してゐない。成熟してゐない。これが日本語問題の急所、あるいは一番つらい所なのだが、このことは在来ほとんど取上げられなかつた。言語能力とは字面だけのことに限定された。自分の言ひたい事柄をはつきりと認識し、まとめあげる力や、相手の言ひ分をよく理解し、もし必要があれば問ひ返したり反論したりする力と読み書き能力との関係は、無視されつづけてきた。

いま日本経済はあやふく、政治はひどいことになつている。一方、日本語に対する関心がすこぶる高い。この二つの現象は別々のことのやうに受取られてゐるけれど、実は意外に密接な関連があるはずだ。といふのは、誰も彼もが国を憂へてゐるが、しかし何をどう考へたらいいか、わからない。何も頭に浮かばない。そこで、これは考へるための道具である日本語の性能が低いのではないかといふ不安が生じたのだ。みんなの心の底で、漠然と

はいはい、たしかに。。と言いたいところだが。<経済はあやふく、政治はひどいことになつている>のはなにもニッポンだけに限らない。世界的現象である(といっても、先進国だけのことだろうが)。ひどいのは、日本語だけじゃなく、世界の、言語一般がひどいのじゃないか?しかも、世界や人間に対する関心の低さを、言語のセイにしてよいのか?日本や世界には、いまより不自由であったはずの道具~彼らが生きた時代の言語を駆使して語るべき事をすべて語り尽くした先人、がゴマンといたではないか。彼らは、生活や思想の必要によって、思想表現としての言語を新しく作り直した、創造した、といっていいのではないか?言語に先立つ、サムシングは存在し、その先立つ物があれば言語を変えること、作り出すこと再編成さえできるのじゃないか?我々が語り、理解できるボキャの数はたかだか数千、にしかすぎない。日常思考のための、思考を活性化する、<辞書>が欲しい。


古典を読め、と、いうか?


2002年というタイミングで書かれたコラム。日本語問題、英語教育問題、つまり、現代に於いて言語一般を考えるのヒントになる文章である。


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古典は古人からの手紙。

。。。吉田健一のコトバ、だそうである。


080710_0952~01丸谷蝶.JPG 2008年3月21日刊

毎日新聞様江 [Language]

三月から30年以上付き合っていた朝日新聞に義絶を申し入れ、毎日新聞に代えた。
代えた理由は様々であるが、なんといっても、この数年激増した広告の量である。電卓を片手に広告の分量を何度も測定したが確実に全紙面の5割を越えている。これじゃ、広告を掻きわけ、掻きわけして記事を読んでいるようなもの、読みづらいったらありゃしない。読者に対する不親切この上ない。新聞屋、とは何を売る商売なのか?宣伝で儲けたいのなら只で記事を配るのが今流じゃないか?


朝日は通常、40頁仕立てだが、毎日新聞は昨日32頁、日曜日の本日は少し減って28頁である。しかし、記事の量は朝日と毎日では等量である。朝日が毎日に比べて10頁も分量が多いがこれはすべて、 <広告宣伝> なのである! 新聞紙、じゃなく、宣伝紙、である。昨日今日と、毎日を隅々まで読んだ。朝日ではこうはいかない。読み切るまでに宣伝がうるさくて、途中で投げ出してしまう。

毎日を読んで、新聞とはこんなにサクサクと読めるモノなりや、と感じいった。月刊誌、週刊誌、文庫本でも、なんでもいいが、全ページの半分以上宣伝が入っていれば(しかも、くだらない宣伝。。)いい加減放り出したくなるだろう?こういうゴミを宅配して金をもらう、などおこがましい、読んでやるから金を置いていけ!といいたくなる。


それに、毎日の日曜<書評欄>がよろしい。取り上げる本の数を抑えて、記事当たりの分量が多い。朝日の書評の分量では書評とは言えない。あんなものは本など読まなくても、目次を眺めただけで書ける。


本日の毎日一面には、2つの記事が並んでいる:

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高校生だけじゃなく、最近の日本人の漢字能力が低下している、とはよく言われることだ。その原因のひとつに、文部省による漢字制限がある、と私は考えている。

毎日の一面から拾うと、

隠ぺい
けん制

など。こういうニホンゴ、を書いたり読んだりしていては、漢字の美観、文字の美観は養われない。漢字を忘れた、辞書で調べよう。。とも思わなくなる。新聞社は、モンチャン(文部省)の漢字制限などに従う必要はない。常用漢字外の漢字でも、ドンドンふりがなを付けて使うべし。


Economist誌が久々に日本特集をやった(アジア版だが)。 Japan -> Japain、とこき下ろしている。日本は汚い、苦しい、キツイ。最近は、隠す=隠蔽、も加わって、政治の世界、企業の世界は 4Kである。Japain はまだ生ぬるい。そのうち、Ja-bane 日本はハメツ、になるだろう。それまでにはあの世に逝きたいモノである。

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毎日7面のコラム『百黙一言』は、赤福偽装問題を取り上げて、餃子問題に言及し、「2007年の漢字は 偽 であったが、2008年は  であろう。。」と、予想している。 偽政治屋と偽官僚、偽軍人 は、一国を危うくする




世界の底が抜けるとき [Language]

雑誌『本』2月号(講談社)に、荒谷大輔(哲学専攻)が『世界の底が抜けるとき』という短文を書いているので引用、紹介したい。

                                         

                                                        表紙    小西真奈 <浄土 2> 2007 

 

                        

冒頭から引用:

言葉が、空々しく響くことがある。ごくありふれた言葉で表現されてしまえば、伝えたいと思っていたこと自体がどこかに失われてしまうような、そんな大切なことを表現したい場合、ひとはしばしば言葉の限界に突き当たる。しかし、そうした特別な場合ではなくとも、日常の些細な言葉から、意味がすっぽりと抜け落ちてしまうことはある。

(略)

よく知っていると思っていたことについて、自分は何も理解していなかったのかもしれないという不安が、それを当たり前のこととして理解できる「普通」の人々をひどく遠ざけ、自分だけを異世界の中に置き去りにしたように感じさせた。これに似た感覚をもっと一般的な例で言えば、例えば、「あ」という文字をたくさんノートに書き連ねたときに得られる感覚といってよいかもしれない。目の前に何度も書き連ねている文字が実際に「あ」と呼ばれるべきものを示しえているか、ふと不安になり、人を呼んで確認したい衝動に駆られる。

(略)

言葉の意味は、それが指示する現実の対象によって決まるのではなく、ある特定の言語体系において隣接し合う言葉同士の関係によって決定される。

(略)

。。。その言葉が指し示す現実との間に、「確信」に足るようないかなる連関も持たないことになるだろう。つまり、例えば「ロールスロイス」という語は、それが使用される言語体系に身をおいてはじめて意味をもつものであるに過ぎず、その言語的な共同体を離れて、何か「現実の意味」のようなものを持つものではないのだ。その言葉が、現実の存在をきちんと指し示しえているかどうかということは、実は全く何の保証もあたえられていないことだったのである。 (略) 言葉と意味の間との間の連関に、実際には何の保証もないのであれば、その繋ぎ目がふと失われる瞬間は、いつでも到来しうる。慣れ親しんだ世界への信頼の上に成立していた言葉の意味が、根本的なところで疑われてしまう可能性は、ある意味で、言語の本質に根ざすものとして、常に言葉の使用に内在しているのである。

そうした言葉と意味との間の落とし穴に、すっぽりとはまってしまった時、ひとは、言語によって分節化されていた世界が、がらがらと崩れさっていく感覚に襲われることだろう。「シュナイダー」、「ロールスロイス」、「あ」という言葉は、実際、どのような意味をもつものだっただろうか。そこでは、言葉は単なる言葉として、それが何を指し示すものだったのか、もはや明らかではなくなり、言葉によってしっかりと掴んでいたと思っていた現実は、きわめて不確かなものにかたちをくずしていく。言葉はなお言葉として残り、その使用規則についての記憶は、なおはっきりと保たれていながらも、その言葉につなぎ止められていたはずの現実が、底なしの「無」の次元に吸い込まれてしまうのである。しっかりとした論理に支えられた世界の底が、すっぽり抜けてしまったかのような、こうした不安定な状態こそ、実は真の意味で「実在」するものであり、その点を基盤としてはじめて、あらたな論理的世界を創造する可能性が開かれる、と考えたのが、ほかならぬ西田幾多郎であった。

 (以下省略)   記事全文はhttp://shop.kodansha.jp/bc/magazines/hon/0802/index04.html

 

 

 ひとは生まれ落ちた瞬間から自分の<辞書>を頭にこしらえていく生物である、といってよいだろう。まず、親の発する音声とそれの指し示すもの、との対応関係を蓄積していく。その辞書は個人のものであり、とりあえずは母親と辞書の共有化が望ましい。。しかし、少年期青年期を経ると独自の辞書をもつようになる。その辞書は共同体メンバーとの通信の規定をなすから、個人が属する共同体ごとに辞書は形成され、どの辞書をその都度めくるかを瞬時に判断しながら人間は通信し、意味の解釈を行う。共同体とは、とりあえず親子、つぎに家族、つぎに隣近所、つぎに幼稚園、小学校、。。職場、さらに、音声による通信世界から文字による通信の世界に入り込めば、個人の辞書の規模は時空を超えて膨大なものになっていく。辞書を大きくしていく、あるいは変形させていく理由はとりあえず生活のため、であり、そこでは効率と経済が追求され、やがて、遊び~文化を目的とするようになる。

荒谷氏が言う、言葉と意味(言葉が指し示すもの)との非対応はやがて個人の意識するところとなる。この非対応は非経済非効率だけをもたらすのではない。この非対応がなければ人間はなにも創造できないことになる。蜘蛛が精巧な網を、適所にすばやく張るために蜘蛛は手順や文法を個体の努力で獲得しているのではない、あらかじめ蜘蛛の体内にファームウェアのごとく埋め込まれたプログラムに従って、ボディの各パートを作動させた結果が、網、という出力になったに過ぎない。言葉・記号とその意味(解釈系)の個別性~非決定性こそが人間に技術獲得~進化をもたらしたのだ。

 

しかも、人間が営々と作りあげた脳内辞書も時節がめぐれば硬化し、ページも破れ、文字も薄くなり、信号線にもほころびが発生し、やがて切断、検索不能となるが、それに苛立つこともなくなる。老年期にめぐってくるこの辞書の自然縮退現象。なんと巧妙にできているものよ、と感心する。死の間際まで、青年期壮年期のように脳のコンピュータが動作し続けたらたまったものではあるまい。

辞書を買い求めること、机上に辞書を置くこと。これは個人が世界に飛び出すための第一歩だろうか。やがて、辞書を疑い出す。作為的に言語をもてあそび、ひとを籠絡し出す。じつは、籠絡されていたことのほうが遥かに多いはずなのだが、これに気がつく前にひとはふつう末期を迎える。ありがたいことである。

。。。こうした不安定な状態こそ、実は真の意味で「実在」するものであり、その点を基盤としてはじめて、あらたな論理的世界を創造する可能性が開かれる。。

こういう桃源郷のような世界は探求の過程でのみ<実在する>のだろう。だからホントをいえば「実在」というのはおかしい(チョムスキーの言う深層構造、普遍文法のようなもの)。個体の生活のツールとしての言語機能は個体の消滅とともに自動的に消滅する、はずだが、記号、言語として、あたかも預金を子や孫に相続するが如く、残すこともできる。貨幣の経済における機能を言語や記号はハタしている、これは人類にとってよいことなのか?

グダグダ考えているまにブログを書き始めて丁度2年が過ぎた。来訪してくださった方々に感謝。新聞記事によると、ネット世界を見渡して、ブログ記事で一番多く流通しているのは日本語、つまり、一番大量に記事を排出しているのは日本人であるらしい。

    <あ>の書体は、大辞林より。                             

 

 

 

   <浄土 2> (部分)

。。。。そこに描かれた光景は、絵画というものが本来そうであるように、いわゆる「絵空事」の世界なのです。一見平凡きわまりない風景ですが、そこにはひとつの物語に定着する以前の豊饒な逸話の断片、明確な意識に収斂する以前の茫洋とした無意識の沃土が広がっています。実際の風景よりも蜃気楼の方が往々にして美しい。。。。http://www.operacity.jp/ag/exh57.php から引用。

 


小説の技巧 小説の体験 [Language]

(A)
..... The trunks of the trees were dusty AND the leaves fell early that year AND
we saw the troops marching along the road AND the dust rising AND leaves,
stirred by the breezes, falling AND soldiers marching AND afterward the road bare
AND white except for the leaves.

(B)
....The mountain that was beyond the valley AND the hillside where the chestnut
forest grew was captured AND there were victories beyond the plain on the
plateau to the south AND we crossed the river in August AND lived in a house in
Gorizia that had a fountain AND many thick shady trees in a walled garden AND
a wistaria vine purple on the side of the house.

(A)は Chapter 1の(B)は、Chapter 2 の、ともに冒頭に近い部分の文章である。
小説、武器よさらば、Farewell to Arms, by E. Hemingway。

英国の小説家、デイヴィッド ロッジは『小説の技巧』 The Art of Fiction (30人くらいの欧米小説家をとりあげ彼らが用いた小説技法とその意味を説き明かしている)で Hemingway の短編をとりあげ、その文章に接続詞、and がやたらに多いことに言及している。その意味を、ロッジがどう解釈していたかは忘れてしまったが。短編だけでなく実質的なデビュー作であるこの長編でもandの(突発的)多用がみられる(上記の例。ANDは大文字で強調)。ロッジは上記著書で、Hemingwayのような文章をもし中学生が書いたら、作文の先生が添削し、and は片っ端から削られ、ピリオドで切れ、と指導をうけるだろう、とのべていた。短文を and でいくつも結合する、という作文技法はない、ということだろう。「武器よさらば」は、若干の難しいボキャは混じっていてもそれを飛ばせば構文が難しいわけでもなく、日本の中学生でも読めるような文章である。

Hemingway は欧州の従軍記者体験をもとにこの小説を書いた。冒頭のこの静かな田舎の風景とそこを通過する編隊という設定もHemingway の体験によるのだろう。Hemingwayの文章はジャーナリストの文章であるという。当時属した雑誌社Harpersの名物編集者はHemingwayが投稿した文章を徹底的に添削して鍛えたということだが、ときたまあらわれるandの頻出はそのまま放置したわけだ。andを多用せずピリオドに変えて、文をぶつ切りにしたところで小説の意味がかわるわけでもなかろう。わたしは、このandの羅列から作者のガッツ、を感じる。第一章だけではわからないが、この小説は、一人称小説である。

和訳はいずれも(最近、小鷹の武器よさらば、新訳が新潮文庫から出た)、このandを無視して(ピリオドに変えて)訳している。これでは私はちょっと不満なのである。ときおり現れるandの多用は、規則正しく打ち続ける脈に、突然、不整脈が到来する、という効果をもつ。これがなければ、メカニックな文章になってしまうのである。生きているHemingwayの呼吸は聞こえない。不整脈は、地中のマグマかもしれないのである。これを見逃しては小説を読む歓びも、意味もない。

ラストは恋人キャサリン、看護婦、との悲劇的な別れが待つ。病院で出産したキャサリンと子供、共に死ぬのである。

... Don't let her die. Oh, God, please don't let her die. I'll do anything for you
if you won't let her die. Please, please, dear God, don't let her die. Dear God,
don't let her die. Please, please, please don't let her die. God please make her
not die. I'll do anything you say if you don't let her die. You took the baby but
don't let her die. That was all right but don't let her die. Please please, dear
God, don't let her die.

これは恋人が危篤に陥ったことを知ったときの主人公の祈り、訴え、叫びである。大の男が感情を露出する(これを子供じみた表現、とわらうひとは人生経験のないひとである。あるいは、そういう体験をもたなかったラッキーなひと。つまり、小説が不要であるひと)。口や喉はガラガラに渇き、激しく打つ心拍が聞こえてくる、そのような体験を実生活で一度ももたなかったひとは、この箇所を不審におもい、見過ごすだろう。冒頭の静かな風景描写に入り混じる<不整脈>がここで全面展開される。

『キャサリンは、数ヶ月後、子供とともに病院で死んだ。』

武器よさらばの最後の数頁を、このような素っ気ない一行で置き換えた終わらせ方も、ありえたろうか?このような終わり方をする小説家なら、冒頭のANDの羅列もなかったろうし、そも、この小説も書かなかったろう。

川村二郎の苦心の訳であり翻訳文学の最高峰であるブロッホ『ウェルギリウスの死』は英訳(ドイツ語原作と英訳が同時進行した)でも1頁以上ピリオドがない文章は、日本語にもそのまま、マルを使わずに訳している。谷崎潤一郎の細雪には一頁以上マルがない文章が何カ所もある。しかし英訳細雪はこれをぶつ切りにしている。意味を伝えるのなら、ピリオドとマルを任意に打ってもかまわないだろうが(マル、とピリオドは等価ではない。使用法も意味も異なる)、小説は意味を伝えるだけのものではない。感情は形式に先立つ。感情表現は破格を肯定する権利を有する。人生の<不整脈>を表現し得ない小説はArtといえない。

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グレアムグリーンの『Human Factor』。新訳が出たようだ。早川文庫。わたしは最初の翻訳で読み強い印象を受けた。モスクワに脱出した英国スパイ(二重スパイ。キムフィルビーがモデル)と、英国に残した黒人妻サラ、との最後の(わかれの)電話で小説は終わる。

She said, "Maurice, Maurice, please go on hoping", but in the long unbroken
silence which followed she realized that the line to Moscow was dead.

サラの声、「モーリス。モーリス。あきらめないで」。長い沈黙が続き、サラはモスクワとの電話が切れているのにやがて気付いた。

死、と、別れ。解決を与えるのではなく読み終わった後、読者に問いかけを残すのがいい小説である。
この2冊の小説はつねにそばに置いて、ときおり、めくって、朗読する。

<参考>
『小説の技巧』 白水社刊、デイヴィッド ロッジ (著), DaVid Lodge
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4560046344/ref=sr_11_1/250-4394691-2059415?ie=UTF8


辺見庸 [Language]

080303_0900~01辺見.JPG 辺見庸が闘病中だという。 表現過剰なこの作家(元、共同通信記者)をそれほど好きではなかったが、つねに、彼の発言は気になっていた。辺見庸は、アフガン攻撃、イラク戦争開始時にも都度、激烈な反戦メッセージを発した。内容に多少の違和はあろうと、その差分、突出はそのままアンテナ付きモーターとしてわたしを牽引した。プロモーターとして体内に残存する異物、放射物質となった。作家としての<虚>の部分と、生活者としての<実>の部分の不釣り合いが彼の文章を好む人と厭う人に分けたかも知れない。空疎な過剰や不均衡もあれば、時代を先行する故の過剰と不均衡もある。組織に属さず、一個の実存としての人間が発するアジテーションを、浴びるも、拒否するも、それはおなじく一個の人間たる読者の自己責任においてなさねばならない。この作家に訪れた意図せざる状況によっても、表現と現実の間の差分は埋まることはあるまい。その差分は表現者の存在根拠だ。 辺見庸の早い回復を祈る。

英語における L音とR音 [Language]

                                     

ことわりがき:
http://sonlastres.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_9e69.html
への 私のコメント分を抽出して掲載する。さらりー、と読んで頂ければうれしい。前後関係(とくに、前)は↑を参照ネガいたし。
下記で● の発言の全体は↑のサイトの主宰者である筆者アルマジロさん。長年の友情と信頼に甘えて、ことわりなく引用さしてもらった。彼を茶化しているのだからなお、ずーずーしい。いや、許されない! (現在出張中、とかや~)

##

Lの発音
Rの発音
という言い方はおかしくありませんか?
一連の単語綴りの中に出現する仕方で音はことなってくる、とおもいます。アルファベットの L あるいはR自身が何らかの音を要求するわけではないと思います。わたしのブログで書いているように、カタカナ発音で 十分 です。

R発音とL発音は英語の歴史の中でも相互転化しているのであり、もともと聞き取りにくいものです。これを入れ違えたために誤解される、というのなら誤解する方が悪いのですよ。フランス人は Hを抜きにした英語をしゃべります(そうでないひともいましょうが)。だれもそれをおかしいとは思いません。日本人がカタカナ発音(いや、それ以上に変な箇所はいっぱいある)をしゃべったからと行ってソレをとがめるような ガイジンさんとは付き合わないことをオススメします(そんなやつはノーたーリンに決まっています)。あくまでコンテンツですよ。ガイジンさんで、「正しい日本語の発音」をするひとがどれほどいるでしょうか?われわれは多少のおかしな発音は認めるべきなのです(日本人同士でそうであるのと同様に)。英語になったとたん ハチオンを正しく!なんて滑稽千万。

●> オーストラリア人は ei をすべて ai と発音するので"I go there today." が "I go there to die." と聞こえますがそんなことは本当にしばらく話せばこちらの頭の中で自動的に正しく変換されるようになります。●

。。。。

日本人は「L音」と「R音」を区別せずに発音します。しばらくすると聞く方も文脈依存で聞いてくれます。
I ate rice this morning.
と日本人がしゃべったとき、おまえ!シラミを食べたのか!と言うような馬鹿とは付き合わない方が良いと思います(世界に何人もいるとは思いませんが)。
ラーメンは lamen あるいはramenという綴りがありますが、どちらが正しいというものでもありません。

オーストラリア人のグッダイ!フランス人のH抜き、を認めてどうでもいいようなL/Rを問題にする方が、問題だと思います。

オーストラリア英語CDも販売されていると思いますが、日本人英語CDも販売してかの国の、日本人ビジネスマンと付き合う必要があるビジネスマンを訓練したらどうでしょうか?彼らは言うでしょう、俺等の英語とどこがちゃうの?と。

日本語のなかでもすでに 同音異義語がある、というのをご存じでしょうか?これで大問題になることはないようです。注意して使えば、英語でもLとRを間違えると大問題になる、という場合はあるでしょうが、それは言語としての(頻度の低い)欠陥であり、異音同義語をあてるなどの注意が必要です。これは日本でも同じです。別の語で言い替えるなど、の注意が、音声で伝える場合には必要です。これは英語・日本語の問題ではなく、言語の 一般的問題、です。

いずれにしても、発音問題で学習者をビビらせたりするのは愚の骨頂と思います。あくまで、発音などきにせず、ライティング、リーディングに力を注げば、相手からほぅ~、やるねぇ~~♪ と唸ってもらえるでせう♪

追記:
カタカナで十分とはつぎのようなことだ。L音R音というまえに、綴り字を そのまま発音するのかあるいは 発音しないのか、という問題がある。発音記号の L でも、音に出る場合と、出ない場合があるのだ。

moral モーラウ
mortal モータウ
alternate オータニt
coarse コース
cordial コージャゥ
costly コーストリ

* 晴山陽一著「英単語1500 発音するだけ 超速暗記術」 角川新書から引用


競馬評論家による量子力学的翻訳論 [Language]

「物理学史によれば、電子が 波 と 粒子 という相いれない2つの性質を持っていることのパラドックスを解くために生まれた量子力学は、数式では記述できるのに、ふつうのことばにいいかえることができないという事態に陥った。隠された自然の法則を他人に理解できることばに「翻訳」するのが自然科学のことばであるなら、それができないことばとは、なになのか?若きハイゼンベルクは量子力学の祖であるボーアに質問する。

『もしも原子の構造が直感的な記述では、そんなに近づきがたく、あなたの言われるように、そもそもそれについての言葉を持ち合わせていないのならば、いったいわれわれはいつの日に原子を理解できるようになるのでしょうか?」 ボーアは一瞬、沈黙したがやがて言った。
「いやいやどうして、そう悲観的でもないよ。 われわれは、その時こそ、 ”理解する”という言葉の意味もはじめて同時に学ぶでしょうよ』」 (「部分と全体」Wハイゼンベルク、みすず書房)

。。。これは 1991年頃、朝日新聞夕刊、文芸時評の一節、担当は競馬評論家=高橋源一郎であった。会社からもどって夕刊を手にとって、この記事を読み出した私は、。。なにやら怪しき雲行きを感じ始めたのであります。

競馬評論家は続ける。。。
「ぼくたちは経験と類推によって言葉を使う。だからまったく新しい事件に遭遇した時にはなにもいえない。ことばがないからだ。でも、どんなことばも持ってこられないような真に「新しい事件」は滅多に起こらない。量子力学ではそれが起こったのだ。

『量子論は、われわれがある事柄を完全に理解することができるが、それにもかかわらずそれを語る場合には、描像とか比喩しか使えないことを知らされる一つの素晴らしい例だ。この場合、描像と比喩は本質的に古典的な概念であって、だから 波 や 粒子 もまた古典的な概念なのだ。それは正確には現実の世界には適合しないし、お互い同士は部分的には相補的な関係にあり、だから矛盾もしてもいる。それにもかかわらず現象を記述する際には普通の言葉の枠内にとどまらねばならないので、真の事実に近づくには、これらの描像によるしかないのだ』(ハイゼンベルク)

「ここでハイゼンベルクが言っているのは、量子力学で使う 波 や 粒子 は 日常でぼくたちが使っているものとは全然違い、他に適当なことばがないので仕方なく使っているということだ。かくして自然科学は自然なことばによる完全な記述を断念する」

そうか。。。そうであったか。。とワタクシは、しばし、呆然としたのでありました。

われわれが使う言葉は、われわれ個人個人が発明したものではない。我々が生まれたときにあたかも点から降ってきたように、あるいは力は得てきたように、ソコに既に大昔から居座っているように存在しているものである。自分の名前さえ、われわれがものごころついたときには、あたかも天が与えたように、与えられている。自分の自由になるものはなにもない(つまり、自分独自の名前付けなどできない。わたしは、ヒトビトが犬、とよんでいるものを 猫、といいますけんね!! という勝手を社会は許さない。つまり、社会は言語使用を個人に強いる暴力装置=権力、ともいえる)。

過去の人間の営みの結果として残された言葉から溢れるものが、ある一群のヒトビト(学会、業界、学生、やーさん、警察、マスコミ、芸能人。。)から生まれ(新語)、忘れ去られ(死語)たりする。しかし、特定の単語があまりに強烈な世界観を規制するものであればその支配や影響を覆すには数十年数百年の歴史が必要となる。その影響力の圏内にあれば上記のように、たとえば 波 とか 粒子 とかいうニュートン物理学の古典的概念を体現する言葉を、その制約を付帯条件として、切歯扼腕しながら~、新しい物理学にも、使い続けねばならない。

しかし。。以上は、高橋源一郎文芸時評の 前段、であります。
後段、があります。。。
日常の言葉で書けない場所に達した小説家がおり、作品がある。それがジェームスジョイス、フィネガンズウェイクである。これは夢を、語った作品だ。英語の作品ではない、世界60カ国の言葉を渾然一体混ぜ込んだ作品だ(もちろん、日本語も入り込んでいる)。この作品を通常の意味で、日本語に、翻訳できるだろうか?一つの言葉に三つも四つも五つも六つも七つも意味がある。英語版も膨大な解説書があって、始めて英語読者は読めるというしろもの。

高橋源一郎:
「日本語翻訳にも、本文の何倍に達する翻訳が必要となる。。こう考えるのが当たり前だが、この思考法は ニュートン的なのだ。 電子 が 波 であると同時に、粒子であるように、
ジョイスの フィネガンズ・ウェイク と
注が一つもない 日本語による フィネガンズウェイクが
  「同時に存在する」
このことがわかったとき、柳瀬尚紀の翻訳「フィネガンズウェイク」の成功は約束されていた。
「量子力学的」世界は、「量子力学的」手法によってのみ翻訳が可能だったのである」

この卓抜な翻訳論をふくむ朝日新聞文芸時評をのせるのは。。。
           高橋源一郎「文学じゃないかもしれない症候群」朝日文庫
である。この本には、そのほか、「正義について」という湾岸戦争反対のメッセージも:
   「。。。わたしは「日本国憲法」というものにほんとうはほとんど関心がないのです。わたしは関心がないものについて、署名をし、擁護の意思を表明したいと思ったのです」

高橋源一郎は、イラク戦争開戦時にも、痛烈で、軽妙な反戦メッセージを朝日夕刊にのせていた。

競馬評論家も棄てたもんじゃないの、どすえ。

追記: 本屋で、文庫本を立ち読む方、p141~p145 「翻訳の量子力学」です。
         くれぐれも、ちぎって持って返ったりしないように。
      


小学生からの英語教育について [Language]

            

4/1の朝日読者の声欄に
「小学5年でも英語教育遅い」
と題して、ジャーナリスト服部哲夫氏(米国、52歳)が投稿している。

服部氏の主張を要約する:
1 中央教育審議会の提言「小学校5年から必修にする」に対し、「何を今ごろ時代錯誤な」との感を禁じ得ない
  外国語教育に熱心でない米国でさえ、多くの大都市で仏語、独語、中国語、日本語を教える小学校が増えている。(服部氏の住むミズーリの小都市コロンビアでは公立小では6年から選択できる。私立では1年生から選べる)

2 10歳以前で外国語学習を始めれば他の学習の効果も上がる、と指摘する米国の専門家は多い。服部氏自身は静岡で中一から英語を学んだ。30代後半に渡米したが、貧弱な英語力を嘆き「小学校から英語を教えてくれたら」となんどつぶやいたことか。
(その後、英語新聞社3社で働いた後、独立した)

3 記者会見やセミナーで接する日本人の英語力は服部氏が見る限り、中国人や韓国人と比べて驚くほど低い。これは学校での英語教育がわざわいしているのではないか。
5年生から、といわず英語教育はさらに早めるべきだ。そうできないのであれば、予算の制約だからだとすれば、日本は政策の順位を見直した方がよい。

以下、私の反論である。

1 服部氏は米国でジャーナリストになっている。しかし、一般にどの国の外国語教育であろうと、大人になって海外でジャーナリストになるために外国語を教えている余裕もないし必要もない。ジャーナリストの英語は最高級の(わかりやすさ、という意味で)英語なのであり、通常の外国語教育を越えた「特訓」が必要なのだ。現地に渡って、ジャーナリストになるのなら再教育が必要なのは当然のことで、そのための教育訓練を公立の小学校に期待するのは間違っている(予算や人員、の無駄が多すぎる、ということ。必ずしも全員が海外で、しかも語学のプロになるわけではない)。たとえば、俳優真田広之はロンドンの舞台に立ち、最近、中国映画に出演した。俳優は外国人だからと割り引いては見てくれないから厳しい台詞の訓練をされている。
 第2外国語の目的を明確にしないとこのような過大な要求をしがちである。では、どこに目標を設定すべきなのか?これがそもそも明確でないのが問題なのである。わたしは次を目標とすべき、とおもう。第2外国語=英語に限定するのもそもそもおかしいのだがここではそれは議論せず、英語、に限定する。

1 外国のビジネスマン、アカデミを含む実務家と討論できる。
2 外国の教育機関(大学)で受講、討論できる。
3 ジャーナリストや俳優、文学者など高度の英語使い手としての基礎を習得する

ここで3はツケタシである。3はハードな訓練を覚悟した方がよい。

2 その上で重要なことは、現在中学高校大学で受検に必須となっている英語を受験科目から外すこと、である。現在の英語は、英語教師や塾、受験産業の餌食になっており上記の目的から逸脱することおびただしい。高校では少なくとも選択科目にすべきである。
1) 英語を必要としない生徒も多いのであり、余計な負担を強いるべきでない。
2) 昔と違って現在、ネットやCDなどにより只同然でやる気のある人間はいつでもどこでも英語は学べる(ただし、まずい日本の教え方により実現できていない)
3) 英語といってもさまざまであり、読むだけでよいひと、ライティングをこなさなければならないひと、さらに、分野(数学、工学、物理、化学、農業、金融、政府機関、環境。。。ジャーナリズム、マスコミなど)ごとに要求条件は異なるのにこれを考慮していない教育内容になっている。
4) 英語はまず、自分の専門を確立した上で学べば十分だ。どの分野にしてもいまや日本語だけで足りる時代ではないのだから、ある程度の専門知識を身につければ必然的に英語をやらなければ成り立たなくなる。そうなってからの英語習得に熱が入るのは当然である。そのための基礎(文法)のみを中学高校で教えればいいのだ。実際、英語学者が言っているように中学のテキストを丸暗記すれば、日常的な英語(ジャーナリストを含め)では不自由しないのだ。

3 つぎに英語の質の問題。現在の日本の英語教育は、米語(土着米語)を無批判に取り込みすぎる。馬鹿な教育家やTVの訓練講師が無批判に土着まみれの最新イディオムでござい!と輸入している。われわれがまなぶべきなのは国際語、としての英語である。たとえば、中国や韓国、タイ、フィリピン(シンガポールは英語が公用語だから当然)の人々と業務で付き合うときも英語を使用しなければならないのが現実。そういうとき、土着英語フレーズなどを使うのは滑稽千万である。アジアだけではない。たとえば、国連関係の会合は欧州で開催されることが多いが、欧州は既に土着英語とは切り離した「国際英語」を教えている。米国人と話すとき、彼らの土着英語を理解しなければならないことはあるが、日本人がわざわざ米国土着英語を話す必要はない。(これは、オーストラリヤ英語、シンガポール英語=シングリッシュを話す必要がないのと同断である)。

4 教育の問題
現在小学校や中学校でALTと呼ばれる英語教育者が教師をサポートしている。この質は大丈夫なのだろうか?「私は米語しゃべれます!」「あ、そんな言い方、米国ではしませ~ん、わたしたち、こう言います~」ダケじゃ困るのだ。すくなくとも、米語、と、国際英語のちがい、は認識していてもらわないと。たとえば、発音。日本人の発音下手や有名だが、これは程度問題だろう。内容さえちゃんと整っていれば(すなわち、文章の構成を含めたライティングさえちゃんとできれば)発音がおかしい、とイチャモンをつけるようなやつはいないはずだ。私の狭い体験でも、日本人の下手な英語を指摘するような人間をみたことがない。陰でこそこそ笑いそうな人間もみたことがない。フランス人の英語などHを発音しないから最初何を言っているのかわからないが慣れてくれば、どうということはない。おまえの英語、おかしいから直せ!などとイチャモン付けているヤツは馬鹿とおもわれるのがオチである。要は、コンテンツなのだ。英語はまるっきりダメ、超ブロークンという日本人の英語であっても、こいつはコンピュータのプロである、ことを直ちに察して相手は真剣に聞いてくれる(その逆は悲劇である。これは我々があちこちで目にしている状況である。たとえば、NHKに登場する英語はできる、ただそれだけのヒトビトである。ウン十万といるネーチブ英語教師をあげてもよかろう)。まず、専門知識をみにつけろ、日本語による専門教育に時間を割け、ということだ。大学を出たら日本を捨てて海外にわたりそこで一生職業生活を送る、日本語で通信をすることもしない、と決断しているのなら別だが、ほとんどの日本人は英語、と、同時に日本語を通信の道具として使うはずである。ならば、まず、母国語でちゃんと、作文できること、を小中学校でやることが重要だ。じっさい、私の仕事である翻訳をやってみてわかるのだが、日本語の作文能力は低すぎる(自分のことをさしおいて言うが)。日本語で理路整然と文章も書けないのに英語で立派な構成を持つ簡潔な文章が書けるわけもない。日本語で討論する能力もないのに、英語で討論できるわけもない。NHKの批判になるが、たとえば、PBSのJim Lehrer NewsHour(BS1 で、毎日午後2:15~)を見ると良い。10分間で1テーマ(たとえば、日本で言えばライブドア問題、偽造メール問題など)を複数のゲストを呼んで視聴者に何が起こったのか、何が法律に触れるのか、どこがグレーゾーンか、今後どのように展開するか、などをコンパクトにQ&Aしている。これは問題を理解(何が、なぜ、どこで、いかに。。。5W1H)しているからこそできることである。NHKに英語を喋れる人間はいるが、用意した英語の質問をぶつける能力しかない。回答をもらったらそれっきり。回答をさらに掘り下げたり、反駁をしたりする能力(=ジャーナリスト力)がまるでないから、つまらないインタビュになっている。これは英語の問題ではない。コンテンツ理解の問題。つまり、あらかじめ回答と相手側はこう応じる、するとこう反論しよう、という事前の調査、お勉強、が足りないのだ(デベート能力というのか)。この勉強不足、と、英語の下手さを、服部氏は、混同しているのではないか、とおもう。
(いずれにしても、これは職業人としての常識であり、この鍛錬をみずからに課す人間なら、語学なんてどれほどのものでもない)。

5 こまかいこと
1) 発音をかんぺきにしよう、などという強迫観念はもたないほうがよいとおもう。無駄な努力であるからだ。時間が無際限にあるならやってもよいが、そんなに完璧にできたとしてもえられる評価は知れたものだ。発音が多少おかしくても、書いてみたらちゃんとした構成をもっている文章ならば、相手は耳をそばだてる。原稿を呉れ!と要求されるような作文をまずしてみようじゃないか。
2) 発音はカタカナ発音で十分だ。日本人にとってネックとなっているのはローマ字読みである。ヘボン(Hepburn)式、というが、ヘップバーン(Hepburn)式、とはいわない。
私の息子は現地で「今日モルクと遊んできた」という。モルクって誰だ?とおもっていたらMarkのことだった(モルク、と口に出してみてください、それがMarkです。)。カタカナ発音を記した辞書(三省堂など)もあるが、まだまだヘボン式ローマ字読みから離陸していない。Mark (発音=モルク)、と辞書に記載する。Hepburn、発音=ヘボン、と記載する。徹底的にローマ字読みを排除する。最近、良い本をみつけた。
 晴山陽一の「英単語1500 発音するだけ超速暗記術」角川書店
この本は中高年以上の発音ダメ人間にとってふってわいたようなありがたい本である(ことし高校にはいる我が娘にも買ってやるつもり)
たとえば、つぎのようなカタカナ発音をつけている。
Subtle サトー
Ultimate アウテミt (tに注意。これだけはカタカナにならない)
Heal ヒーウ
Alter オーウタ
Council カウンサウ
Cordial コージャウ
Yield イーウd (d、もカナにならないカナ)
Theory スィーアリ
Specime スペサマン
Reliable リライアボー
これを全面展開させたカタカナ発音辞書を期待したい。(ただし、発音よりアクセントのほうが重要)。
発音だけは国際英語、といっても手も出にくいところだ(できれば、出したいが。。。くやしいね、ほんまに)

3) ボキャブラリ
ボキャブラリは日本人の得意とするところではあるまいか。端的に英語の実力を見たいのなら、わたしなら、知っている単語を全部書き出してみなさい、という試験にしたいところだ。単語を系統立てて書き下せる人間なら、多少ブロークンであっても、作文もあるていどきたいできるし、物事に明るい、という英語以上に重要なことが検査できるのだ。同じことを日本語でやってみたらどうか?わたしは、学生時代にこれをやられたことがある。専門ではなかったが機械工学概論を教えてくれた(他学科だったがわたしの尊敬していた故)久保田先生がつぎのような問題を出した。
「内燃機関を構成する部品を知っているだけ書き下せ」
とうものだ。部品をたくさん知っている人間が、内燃機関とは何か、を理解してないと言うことはありえない、ということである。車の修理工なら数百の部品や工具は空で言えるだろう。日本語で部品名と工具を言え、動作も説明できるなら、これを英語で直すことにどれほど時間が掛かろうか。
ボキャブラリを蓄えるには、語源のマスタが必須だ。これ!といったほんがないのだが、
最近出た
新日本教育図書株式会社「英単語マニア」語源事典 メルライン・フライダ著
(これは沖縄在住の外人さんが書いた本。訳本ではない)
は値段も2095円+税金と安い。(この会社はほかに絵入りの10冊組の語源事典も出している。これもよい。各冊1000円だが、塾の月謝から比べたら屁のようなもんだろう)。
語源情報はボキャビルになくてはならず、また、自分で新たに単語を作ろう!というときに不可欠である。(語源情報やコロケーションを集めたデータベースなど、やるきになれば簡単にできるはずだ。英語公用語、までさけんでおきながらどんなツールを国民に公開したのだろうか?)
辞書はLongmanなど(良い辞書がCD何枚も付けて)4000円くらいで使いやすいものを安く販売している(すべてに発音付き。例文も100万。。)。昔から比べると、うらやましい限りである。

4)ベーシックイングリッシュ
http://homepage3.nifty.com/BasicEnglishSociety/whatisbe.html

ベーシックイングリッシュ、というのは語彙を850の基本語に制限して、すべてを表現しようという試み。現代の極度に分化した時代を生きるにはこれでは明らかに不便。多彩な語彙があることのありがたさが、逆にわかる、という実験的な試みとして一度は通過しても良いかも知れない。
で、言い残したことだが。。
小学校から英語をやっても良いが、上記のように、大学まで選択科目にすることだ。
それでなくても塾業界や受検業界のやりたい放題によって、教育の差別化が進行しているのにこれ以上この悪弊を助長してどうするのか。コッチのほうが大問題である。

追記: (気が付いたら、ドンドン追加していく)
1) 米国人がドイツ語、フランス語、スペイン語を習うのと日本人がそれらを習うのでは難易度が違う。米国の小学校で中国語、日本語(もちろん選択だろうが)をどの程度教えているのか?
2) たとえば、マークピーターセンは「日本人の英語」で、日本人のa と theの使い方がおかしいのは日本人が英語の世界観を把握していないからだ、と 英米の世界観を身につけろ、とせまる。余計なお世話だ。 a と the、可算名詞や不可算名詞は文法、とはいえ、土着世界観にまみれた、「思想表現」なのだ。忍足欣四郎が述べているように(岩波新書「英語辞書のはなし」)、すべての名詞は複数形を取りうるのだ。これは、発話者の世界観の表現の問題である。こういうことを文法事項として規定する現在の英語はちょっとおかしい(表現者たとえば、小説家などは世界を拡げるためおのれの、文法を作る)。受験生は点数を稼ぐために、学校文法にヘイコラと従うだけ、なんだよ、と自覚させておくべきじゃなかろうか。文法に従うのは相手にタイする、気配り、オツキアイなのである。気を配っておれぬ状況もある。
3) わたしの子供らは現地に到着後、3日でべらべら子供同士でしゃべり出した。近所の子供が、
       Can XXX play? あそぼ! (XXXはうちんちの子供の名前)
と誘いに来る。3ヶ月ぐらいしたころ、台所で、カナイと 「もったいない」て、英語でなんてゆうんかいの?と、話していたら、それを聞きつけた現地で小一息子(日本で幼稚園)がとっさに
          それは、You are wasting!
というんだよ!と大きな声で教えてくれた(きっと、近所のおばさんに自分か、ともだちが叱られたのだろう)。岩波新書、大津栄一郎「英語の感覚」では、「もったいない、などという和語は英語にならないのだ」などと、ぷうたれている。それをいえば、すべての日本語は英語にならないぜ。なるのは、Koizumi =小泉くらいのもんだ。人名をのぞいて、英語と日本語はまったくちがうのですよ、みなさん。でも、日本語に近い英語はあるのですよ、昔のヒトが、あ、これは近いな!とおもうのを書きためたのが辞書、です。辞書なんて不完全ですからね、みなさん、これがもっと良い!というのはドンドン辞書に書き加えてください。こう、教えるべきだ。したがって、辞書には 各語の記述に、空欄を 残しておいて、足りない語義や間違いがあったら、追加したりなおしたりしてください!というのが正直な態度です。 ある言語(単語)から、他の言語(単語)に 「翻訳できる」かどうかは、誰も保証していない。できたとしたら、偶然、できた、ということだ。

4)重要なこと。日本で販売されているいわゆる 英和辞典、は辞書ではない。英単語、とは、単語の語義を説明するものだ。日本の英和辞書は大辞典にいたるまで 赤尾の豆単(わかるかな~?)、の拡大版にしかすぎない。 たとえば、Concise(oxford)のTreeの項:
1 A woody perennial plant typically with a single stem or trunk growing to a considerable height and bearing lateral branches
2 A wooden structure or part of a structure
3 A diagram with a structure of branching connecting lines, representing different processes and relationships
などと簡潔に説明してある。英和辞典では、Tree = 木、樹木、家系図。。だけである。これじゃ辞書とは言えない。訳語集、である。外に生えている木を指さして、あれ!といっているようなもんだ。
こどもに お母さん!木、ってなあに?と聞かれたとき、それらしい説明をする、ということが英語的態度だ。せめて基本語について英英辞典をみなくてはならない。↑をみればわかるように簡潔な英語で説明してある。単語、と同時に、あちこちで使用される超基本的な英語運用法も同時に学べる。日本(語)との、差(connotation 言外の意味)もわかる。端的に言えば、辞書の説明は 要素、と、その要素間の関係を説明している(それが世界の説明だ)。関係の説明の仕方、が辞書には詰まっている(もちろん、英語辞書、あるいは広辞苑や大辞林)。

しかし、英語じゃなく、日本語でこういうありふれた用語を、ちゃんと、文章にして説明すること、が教えられているだろうか?これは国語の先生の問題である。
学校、とはなんですか?
家、とは何ですか?
辞書、とは何ですか?
花、とは何ですか?
単語、とはなんですか?
ことば、とはなんですか?
 この子供電話相談室にでてくるような質問に バシッと 日本語の文章で回答できますか?
ジャーナリスト服部哲夫氏(米国、52歳)が米国に渡って遭遇した問題は、英語日本語のもんだいではなくこういう、 コトバに対する基本的な態度の問題をニッポンの教育がいい加減にしてきたことである、と、私は想像する。つまり、英語の問題ではなく、日本語の問題、もっといえば、日々の生活でで物事をあいまいなままにしておかない、という態度。これを、小学校低学年から教えているか?ということだ。 日本語で自己主張し、ものごとを表現する能力を養ってさえ置けば、何語を学ぼうとその習得にどれほどの苦労がいるであろうか。現地でジャーナリストをやるなら、発音聞き取りに苦労はするだろうが、プロになるのなら何事につけ数ヶ月半年の血のにじむ努力くらい当たり前のことである。
服部氏の意見である
<記者会見やセミナーで接する日本人の英語力は服部氏が見る限り、中国人や韓国人と比べて驚くほど低い。これは学校での英語教育がわざわいしているのではないか。>
これは英語とは何の関係もないことだ。日本の首相や官房長官が行っている記者会見で日本語しかしゃべらなくてよい大新聞の記者等がおこなっているパアプウな質問をみればわかるだろう。服部氏の誤解は (海外で働く日本人)記者の実力を 英語力、で測定しようとしていることだ。英語力じゃないのだよ、記者力、とは。たとえば、小田実(発音は、かなりブロークンよ)が記者だったらどういう質問を発するか、 想定してみればよい。英語、だの、日本語だの関係ないことが分かるだろう。

これが、結論かな。

日本で小学校一年から現地でいきなり三年生になった息子は現地の普通の小学校に入った。その担任に面談したが、先生はこういった。わたしは作文を重視しています。作文するため、しっかりものを観察すること、コトバを選んで、うまく組み立てること。。を教えます、と聞いたときわたしはちょっと感動した。クラスでただ一人の日本人のため特別にリーディングなどをマンツーマンで教えてくれていた。予算もいるだろうに、この鷹揚さ。いま、プロアメリカ政策で状況は変わったのだろうか。

また、こんなこともあった。レーガン大統領の下、イランコントラ事件が発生したとき。小学三年の息子が、先生が教室で、「レーガンは大嘘つきだ!」と怒っていた、という。ニッポンでこんなことできるかい?おもったことをはっきり口に出すことに躊躇しなければならないこと、多すぎないか?社会のひずみを、小学校教育の責任にしてほかにいくらでもすることがある先生にしなくてもいい負担をかけるの愚の骨頂である。先生には、物事を細かく観察し、誰にも分かる簡潔な日本語で表現すること、他人とコミュニケーションをすることを教えてもらいたい。それができれば、英語など将来いつどきでもあっというまに身に付くのだ。