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滝の白糸・残菊物語 溝口健二 [Art]

都内の名画座で行われている溝口健二特集。
滝の白糸、と、残菊物語、を観た。

新藤兼人『ある映画監督の生涯』dvd に収録されている佐藤忠男と新藤兼人の音声解説はめっぽう面白く、ツタヤで2週間借りっぱなし、毎日、何度も連続してみても飽きることがない。なかでも、入江たか子と、田中絹代は圧倒的存在感である。むろん、気品の高さ、美しさ、では入江たか子。はじめてこのビデオを観たとき、うわさにきく入江たか子を観たときは息が止まりそうであった。。。 日本女性特有の美、と奥ゆかしさ、というものをそれまで信じていなかったが、「ある映画監督の生涯」にインタビュイーとして登場した入江たか子を観たとき、外国女性にはあり得ないものがある、と確信した。入江たか子はこのインタビューを行ったとき、すでに高齢であったが、気品と香華、。。女性の魅力というものは年令を超えている。

滝の白糸は入江たか子が22歳で出演し、みずからプロデュースをやった映画。無声映画であるが、流れるようなストーリー。75分の作品である。入江は妖艶。

残菊物語。佐藤忠男は上記の音声解説でこのように語っている。ある英国評論家に佐藤が、溝口でベストは何か?と尋ねたところ残菊だ、と直ちに相手が答えた、と。 140分を超える長さである。ストーリー自体はありふれた夫婦物語。妻が世間の無理解に逆らって夫を助ける話である。溝口映画でもかなり長い部類に入るが長さは全く感じなかった。この作品をdvd解説で新藤は次のように言っている。ストーリ自体は古いが、この映画のテーマは普遍性があります、と。

新藤は女性と問題を多く起こしたがその結果、奥さんが発狂した(と、溝口は信じていた)。幼いときから溝口は多くの女性に取り巻かれ助けられた。溝口の映画は妻(女性)にタイする贖罪意識から作られている。 映画を観おわってハタと気が付いた。新藤兼人自身が溝口の後を追っているのだ、と(女性に対する贖罪と感謝)。新藤における最大の女性はむろん母親である。 残菊物語の語り直しは、新藤の「愛妻物語」である。

両映画とも、ラストが素晴らしかった。

ある映画監督の生涯 ~ 田中絹代
http://www.youtube.com/watch?v=7YGXnjUiWXE

芸術家同士の愛情と対立と尊敬。

実生活ではたとえ結婚できなくても。。「(溝口)先生からそう想われている、ということは、結婚したも同然。。。そうじゃございません?新藤さん! そうじゃございませんか?」
新藤は田中絹代へのインタビューが成功しなかったらこの映画(ある映画監督の生涯)はあきらめよう、と覚悟を決めてインタビューに臨んだという。新藤の必死の食い下がりに、田中も応じた。気迫と感動のインタビューである。


解説対談で新藤兼人は、溝口と田中は男女の仲になった、と明かしている。ベネツア映画祭に参加したときホテルでのことである。わたしは大いに驚いた。もちろんインタビューで田中はこのことを明かすわけはないし、インタビューする新藤だってこのことをまだ知っていない。

新藤「(男女関係になったことは)よかったとおもいますよ。田中絹代は溝口健二が恋いこがれた女性ですから。。。」。。わたしは胸が熱くなった。

安岡章太郎の死 [Art]

生きている作家・批評家では唯一信頼を置いていた安岡章太郎が死んだ。この一年、発言もすくなく衰弱している様子だった。死も近いか、と覚悟はしていたからショックもない。小説はもとより安岡章太郎の歴史、美術とりわけ映画に対する批評眼は誰も追随できない。さらに、反差別やナショナリズムにたいする知見。師である井伏鱒二を思い、語る文章は愛情と尊敬にあふれる。夕べは評論集を中心にアマゾンのカートに入れていた安岡章太郎の批評集対談集10冊を注文した。中村真一郎、加藤周一、小田実、。。。どんどん死んでいく。

私の目標とする文章は安岡章太郎の文章である。目線を低くし、人間や歴史を見極めた、あるいは、追求するひと。そういうひとにしかああいう文章は書けない。安岡章太郎が二十世紀や昭和さらに幕末維新の歴史や、おのれのルーツを問うのは人間というものの謎を探るための行きがかり上、である。何を書いても、書いた対象ではなくおのれの浅さ深さが文章には露出してしまう。

『志賀直哉私論』、末尾の文章。「。。。しかし、この小説(暗夜行路)の主題は本当に父子の対立といふことだけだらうか。実際はそれもまた無意識の虚構で、真の主題はむしろ各所にわたつて行はれた描写の奥にある何かなのではないだらうか。たとへば、それは暗闇の中に背をうねらせる夜の海なら海そのものが、一切の理屈をぬきにして、そのままで私たちを引きずり込んでしまふやうな何かではないだらうか。」

村上春樹の発言 [Art]

村上春樹の朝日新聞寄稿

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中国の書店で自著をふくむ日本の書籍が姿を消したことはショックであった、が、これはかの国の国内問題であるから、口を出さない、村上は言う。では国内問題であるオスプレイ配備や、沖縄の基地問題(といわず、安保と地位協定の問題といったほうがよい。日本の米国への属国化問題である)は日本の国内問題ではないのか?村上は何を発言してきたのか。

安倍の対応を安酒に酔わせるものだ、という。ならば、中国の対応も、安酒以上のものがあるのではないか。日中の紛争を傍観して漁夫の利をねらう米国の対応はどうなのか。

政治評論を魂の問題にすりかえるところなどは感服。さすがノーベル賞候補。
 
村上がバルセロナで行った東北大震災スピーチもなまぬるかったがこれよりはマシであった。<ノーベル賞などくっだらねえ>と受賞を拒否したサルトルは、ベトナム戦争を裁く市民法廷をラッセルと開いたし、訪中したときは広島を訪れ、欧州には絶対に原爆を落とさなかったろう、これは人種差別である、と述べた。いや、。。比較しては気の毒か。
天安門で中国人学生が中国軍戦車にひき殺されたとしてもかのくにの国内問題なのであろう。日本で、原発を直ちに廃棄できないのは米国の指示によるのであり、オスプレイが配備され住民家屋の上を飛ぶのは日本に交渉はできても決定権がないことを定めた日米地位協定のためである。これは国内問題ではないのか?ムラカミは何か発言したか?日本列島に住む日本人は国内問題だけではなく、国際問題の直撃を日々受けている。<領土問題は存在しない><国際問題ではない><他国のことには口を出さない>。。。安酒をふるまっているのは安ッぽい政治屋と作家ではないのか。

追悼・新藤兼人 [Art]

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http://www.youtube.com/watch?v=ZygI8NqbjNM
裸の島(ダイジェスト版)

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わが郷土の偉人、新藤兼人が亡くなった。享年百歳。

新藤兼人との出会いは私が中学生時代(東広島市、志和中)のことである。1961年か。中学校の講堂で定期的に行われていた映画鑑賞会に『裸の島』が選ばれ、上映された。音楽だけでせりふが全くないこの映画に私は驚いた(映画に詳しい国語の先生が開始前に蘊蓄を垂れてくれた)。映画の舞台である瀬戸の小島で暮らす家族に、ちょうど私と私の弟とほぼ同じ年齢差のある少年二人が兄弟として登場するのですっかり感情移入してしまった。四人家族が黙って食事をするシーンなど、我が家と同じ風景であった(もちろん、我が家では映画のように露天で食卓を囲むことはないが)。私が4歳の頃、母親に連れられて、瀬戸田の耕三寺に行った、かすかな記憶がそのとき甦ったりした。

その後、映画館で見た新藤の映画は『人間』と『裸の十九歳』だけであり他はTVやビデオ(録画)で観た。去年、TVで受賞作『午後の遺言状』を観たが画面は斬新、老人くさいところなど全くなく、安心した。

私が新藤を親しく感じるのは広島出身である、ということ(女優・杉村春子も広島出身だが、彼女は演劇を始めるとき広島訛りを抜くことが条件とされたが、新藤は堂々とした広島弁をしゃべる)のほか、監督と同じく、私の実家も農家であり働き者の母親を持っている、ということ。新藤はマザコンであり、子供時代かなり大きくなっても母に抱いてもらって寝ていたらしい。新藤の映画はすべて私小説ならぬ私・映画である、と新藤に親しい人は言う。『裸の島』は、新藤の労働する人々に対する共感に溢れ、なにより、働いて育ててくれた母親に対する感謝、恩返しである。

120530_1559~01.jpg 新藤兼人の母、42歳

この映画を見ると私の小さい頃のある夜の出来事を思い出す。三~四歳の頃か、夜中にふと目覚めて月夜で明るい背戸に誘われるようにはい出たときの光景だ。月光に照らされた田圃で私の父と母が働いていた。

『裸の島』の冒頭のシーン。小さな島の頂上まで続く段々畑に文字が被さる。曰く、

耕して

天に至る

いつ見ても、涙がこみ上げ、胸が熱くなる映画である。汗にまみれて働いているひとに共感し、よく観察した人にしかこの映画は撮れない(脚本ももちろん新藤)。いつ撮影するとも当てのない脚本を書き、あるとき、瀬戸を巡る旅で偶然この島に行き当たったのだ。これこそ裸の島だ、と。脚本を書いて二年後のことだ。すぐに、役者(殿山、乙羽のふたり)を含めてわずか15人のスタッフを集め、この孤島(すくね島)から一キロ離れた佐木島に宿を構えて撮影に入った。新藤映画には珍しく、ヘリコプターからの撮影が入っている(映画の冒頭とラストシーン。島々を眺望するシーンである)。なけなしの予算から二十万円をはたいて大阪からヘリを雇ったのだ。すばらしい効果を上げている。

人は、生まれ、苦しみ、汗にまみれて働き、ひとを愛して、そして死す。

120530_1559~03.jpg実家の蔵のそばに立つ監督。小さい頃、借金で母屋を失い、この蔵の中で一家が暮らした。これとおなじ造りの蔵は、いまでも私の実家にある。防火機能をもち、重要な家具はこのなかに納められる。窓が少なく、イタズラをすると、折檻の代わりにこの蔵に閉じこめられた。

新藤兼人『人としなりお』(シナリオ作家協会、1996)には映画関係者の証言が載せられている。なかから、大島渚監督の、短い言葉を引用して、とりあえずのお別れと感謝の言葉としたい:

「新藤様は、あらゆる困難を乗り越えて、誰もまねすることのできない、独自の映画づくりの高みに到達されました。」

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【中國新聞・速報】映画監督・新藤兼人さんが死去 100歳
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201205300123.html
 
 「原爆の子」「午後の遺言状」などの作品で知られる映画監督・脚本家で、文化勲章受章者の新藤兼人(しんどう・かねと)さんが29日午前9時24分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。100歳。広島市佐伯区出身。

『裸の島』 (全編) http://www.youtube.com/watch?v=OjVtXe2pLaU

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ブログ記事・ある映画監督の生涯
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-02-28-1

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21世紀をクレーする高校生たちをミロ。   第20回記念国際高校生選抜書展 [Art]

1月31日毎日新聞の21面に掲載されている高校生による書作品。圧倒されてしまった。本日の新聞のすべての記事を削除して、作品だけで埋め尽くしてもらいたい、という気さえした。国内外からの応募作品から厳正な審査の上で選ばれた作品たちである。

毎日新聞さん(と高校生たち)には済まないがケータイで撮して引用させてもらう。毎日新聞よ、写真が小さすぎる!作品を特集した別刷りとして書のもつエネルギーを全国の読者に伝えろ! 今日から大阪市立美術館で展示される(~2月5日まで)。

伝統と革新。書は人なり。21世紀をクレーする高校生たちをミロ。 

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村上鬼城 [Art]

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本日のNHK俳句王国。
主宰は金子兜太。
兜太のこの日の作句には参加者から一票も投じられなかった。兜太は多いに不満である、と述べた。今回は私の句も含めてレベルが低かった、兼題=闘鶏、が難しかったせいもあろう、と。

兜太の、この日の選評はいつになく厳しかったように見えた。ある参加者が兜太を闘鶏になぞらえた挨拶句を詠んだがこれには、「持ち上げすぎ」、と照れていた(かわいい)。おのれの句にも、他人の句にも遠慮会釈無く批評の言葉を放つ。闘鶏、これ兜太かな。

合評の最後に兜太先生がしわがれ声でつぶやいた、闘鶏の眼(まなこ)つぶれて飼われけり、キジョーはいいねぇ、と。私はなみだあふれ、すぐに検索に走った:



  「春寒やぶつかり歩く盲犬」
 「闘鶏の眼つぶれて飼はれけり」
 「冬蜂の死にどころなく歩きけり」
 「生きかはり死にかはりして打つ田かな」

                                               村上鬼城



ああ、これがキジョーか。


手持ちの筑摩文学大系69『現代句集』に『鬼城句集』をみつけた。約1200句を収録。高浜虚子が句集としては異常に長い<序>を付けている。鬼城は高崎のひと、耳をわずらっていた。あるとき、虚子に次のような手紙を書いたという。

「人生で何が辛いと言つたところで婚期を過ぎた娘を持つてゐる程苦痛なことは無い。自分は貧乏である。社会的の地位は何もない。さうして婚期を過ぎた娘を二人まで持つている。私はそれを思ふ度にぢつとしてゐられなくなる。かと言つて何うすることも出来ない。いくらもがいたところで貧乏は依然として貧乏である。聾は依然として聾である。今日も一日の労働をはたして家へ帰つて来て此二人の娘を見た時に、私の胸は張り裂けるやうであつた。私はもうぢつとしてゐられなかつた。。。」

虚子はつぎのように続ける:

同君の眼底には常に此の種の涙が湛へられている。同君は只かりそめに世を呪ひ、人を嘲るやうな、そんな軽薄な人ではない云々。

 

キジョーリンク:
http://www.sunfield.ne.jp/~shihou/kijyo/kijo2.htm
http://uraaozora.jpn.org/haimura.html
http://www.kijyou.jp/
http://www.haikudiary.jp/haijin/person/kijyou.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/haiku/kijou.html


memento mori 辺見庸『私とマリオ・ジャコメッリ』(NHK出版) [Art]

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辺見庸『私とマリオ・ジャコメッリ』(NHK出版)の末尾にジャコメッリ略年譜が掲載されている。これはまことに啓発的な情報を提供してくれる。ジャコメッリの写真の謎の一部がほどけてくるような感じがした。青少年時代を中心に書き写してみる:

1925(1歳)  
8月1日、イタリア半島東岸、アドリア海に面したマルケ州の小さな町、セニガリアで生まれる。
父母、子供三人の貧しい家庭だった。

1934(9歳)  
父、死去。窮乏した母はホスピスの洗濯婦となる。
マリオも多くの時間を母の仕事場で過ごす。

1938(13歳)
地元の印刷屋で働きはじめる。文字をコラージュした絵画的オブジェの制作に想像力を刺激され、<表現>への意欲に目覚める。

1945-46(20-21歳)
第二次大戦で破壊された印刷所の建て直しに奔走。
このころには印刷所の共同オーナーとなり、印刷業が終生の職業となる。
余暇には抽象画を描き、また詩に出会い、ひそかに試作を試みる。

1953(28歳)   
8月、自動車レース中に瀕死の重傷を負う。
12月、初めてカメラを手にし、写真撮影をはじめる。

1954(29歳)  
地元のアマチュア写真家のグループに属するが、すぐに遠ざかり、独自の道を歩み始める。            
土曜の午後、日曜日の昼に撮影し、日曜の夜に暗室作業を行うという習慣を生涯にわたって持続することになる。
のち「死が訪れて君の眼に取って代わるだろう」(~83年)にまとめられるホスピス行きを開始。
(中略)

1986(61歳)
母、死去。

(中略)

2000(75歳)
11月25日、セニガリアの自宅で死去。


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30年におよぶホスピス通いから得られた作品集「死が訪れて君の眼に取って代わるだろう」の世界はジャコメッリが幼少時から慣れ親しんだ世界であったのだ。ジャコメッリにとって<死>はつねにそばにあった、いわば、生もしくは生活の一部。死の世界は異世界ではなく此岸の世界であった。ジャコメッリの描く世界は<異界>にみえて異界ではない。死と生は同居している。

ジャコメッリは語ったという。「僕が興味あるのは<時間>なんだ。<時間>と僕の間にはしょっちゅう論争があり、永遠のたたかいが行われている」p26

辺見庸はロランバルトの写真論を紹介している(ロランバルト『明るい部屋』)。写真には二つの要素がある。一つは情報により成り立つ要素であり、教養や知識、文化をとおして理解・共感される。バルトはこれをラテン語で「ストゥディウム studium」(一般的関心)と呼んだ。もう一つは、そうした一般的関心を破壊する要素である。それは向こうからやってきて、写真を見るものの躯の奥深くにある感性の痛覚をいきなり刺す。その要素、働きをバルトは、刺し傷や小さな裂け目という意味のやはりラテン語をあてて「プンクトゥム punctum」と名づけている。そして辺見庸は「ジャコメッリの映像はプンクトゥムに満ちている」という。

わたしはストゥディウム、と、プンクトゥムを、吉本隆明のいう指示表出と自己表出に置きかえる。プンクトゥムを表出する主体(人間)を、われわれは日常的に<作者>と呼称しているのであるから。猿が撮った写真であっても<プンクトゥム>を読み取ることはありうる。つまり、<プンクトゥム>とは読み手側に潜在的に備わっている能力を謂うのであり、読み手にとって<作者>とはもともと<仮想的>な存在であるということ。(ジャコメッリが実在の人物であるかどうかは、彼が撮った写真に感応する人間にとって本来どうでもいいこと。彼が実在し、少年時代からホスピスで過ごしたという事実を知って、読み手が得るプンクトゥムに<確信>が加わるのだ)。

吉本隆明は三浦つとむの言語観を基にして、言語は自己表出と指示表出の統一体である、とした(『言語にとって美はなにか』)。自己表出とは客体(対象)に対する自発的な意識の表出(実存的価値の定着をもとめる)であり、指示表出とは客体を指示、伝達しようとする意識の動きである(社会的な実用性をもとめる)。

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言語学者・三浦つとむの言語観とは次のようなものだ(『日本語はどういう言語か』)。
「言語も絵画も、人間の認識を見たり聞いたりできるような感覚的なかたちを創造してそれによって相手に訴えるという点で、言いかえれば作者の表現であるという点で、共通な性格をもっています。(中略)絵画の場合と同じことが写真でもいえます。 (中略) どんな写真でも、うつされる相手のかたちをとらえられるだけではなく、それと同時に、うつす作者の位置をも示しているのです。 (中略) 誰でも、毎日の生活のなかでいろいろのものを見ていながら、それらすべてが自分の眼の位置でとらえたかたちなんだ、という反省を特別にすることはありません。その必要がないからです」

「ちょっと考えると、写生されたり撮影されたりする相手についての表現と思われがちな絵画や写真は、実はそれと同時に作者の位置についての表現という性格をもそなえており、さらに作者の独自の見かたや感情などの表現さえも行われているという、複雑な構造をもち、しかもそれらが同一の画面に統一されているのです。作者のとらえる相手を客体とよび、作者自身を主体とよぶなら、客体についての表現をすることが同時に主体についての表現を伴ってくることになります。絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現のきりはなすことのできない統一体として考えるべきものであり、主体的表現の中にはさらに位置の表現と見かたや感情などの表現とが区別される、ということになります。」


辺見庸がつぎのように云うとき、このことに触れているのだろう。p66

「。。表現をする人間、表現芸術をする者はだれもが、そのことに気づかなければならないだろう。虫を描こうが動物を描こうが、むこうも見ているぜということに。とりわけひとという生き物は、一方的に<見る、撮る、表現する>という特権的行為にたいして、ときとして歯むかうことがあるということに。

ジャコメッリは、そのことに気づいていたはずである。「死にゆく人間の意識の側から撮っている」と私が感じたあの一枚は、おそらく、<見る - 見られる>の相互的関係、あるいはその弁証法にかれが気づいていたことの証ではなかろうか」

このとき死にゆく人間の意識はジャコメッリの体内以外に存在する場所はないのだ。

あるいは次のように云うとき。p62

「「向こうはこちらを見ていない。こちらはむこうをみている」と考えるのは、相手を撮影するときのカメラマンの、あるいは表現する人間の救いがたい特権意識である。撮影行為や表現行為というもののなかには、そんな意識せざる特権意識がある。それは私のなかにもあったし、いまだにあるだろう。

とりわけジャーナリストにはそれがある。かれらは、かれらが相手を見るのと同様に、それ以上深く、相手からも見られているということを知らない。」

表現する者は言語であれ絵画、写真であれ、おのれの視線、思考、意識を、読者、視聴者に対して丸裸状態で晒しているのである。


三浦・吉本が依拠している国語学者・時枝誠記はスターリンの言語観をつぎのように批判している(三浦『日本語はどういう言語か』p33)。
「(スターリン)氏が、言語は単一であるといふのは、専らその言語の基本的語彙と文法的構造の同一であることをよりどころにしてゐるのである。もしこの論理が許されるのならば、すべての日本画は、線と色彩を同じように用ゐることによって皆同一であるといふことが出来る筈である。このやうにして、我々は、民俗には単一の言語しか存在し得ないとして、安住してゐることが出来るであらうか。それは宛もすべての犬は皆ひとしく犬であつて、その間に区別が存在しないと考へるやうなものである。しかしまた別の見地から云へば、すべての犬は、それぞれに異なつてゐることも許されなければならない」

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マリオ・ジャコメッリが切り取ったホスピスの風景から、わたしは、ジャコメッリの人間観・世界観を受け取る。人間が言語から得る情報などたかがしれている(人類史全体を通してみれば、言語を発明・使用してきたのはほんのわずか、にしかすぎない)。世界に充満しているのは人間にほとんど見過ごされている非言語情報である。非言語情報を解する(情報を解する能力を自己開発する=情報の生成)動物、これは人間の定義である。ジャコメッリにはとりあえず自己表出の欲求があった。そのために彼は30年、ホスピスという場所を選択し、ホスピスを通り過ぎる老人達を撮影し続けた。言語で自己表出する人間は、語彙辞書が存在するから一定の理解を他人から得られること(指示表出)を期待できる。非言語で自己表出する人間はいったいなにを他人から期待しているのか?わたしにはわからない。すくなくとも、非言語によりなにかを表出し、伝達することは、言語により伝達することによる社会的制約や約束事からは免れているだろう、ということはいえそうだ(言語情報と非言語情報のどちらにより強い社会的規制が働いているか?これは時代によるだろう)。

写真は、光学、化学、機械工学、エレクトロニクスのテクノロジーそれに資本が生んだアートである。いわば産業資本の申し子。これは現代芸術全般の宿命である。辺見庸は<資本>を呪っている。「映像は資本と意識産業の犯意無き尖兵である」「われわれは錯視をそれとして認識する能力を日々意識産業によりうばわれている。われわれはおそらくひとりの例外もなく錯視者>である」p75。しかし、人間の認識にとって<錯視>は前提であり、数多の<錯視>を通過せず<正視>は訪れない。錯視のなかから<正視>は読み手が創造すべきものである。現代芸術にとって<資本>の存在・活動は対立する障碍物ではなく、与件である。


生と死を見つめてシャシンを撮った日本の作家は小津安二郎。とりわけ、東京物語。

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マリオ・ジャコメッリMario Giacomelliの公式サイト。写真が編年体で配列されており、たいそう見やすい。
http://www.mariogiacomelli.it/

辺見庸ブログ
http://yo-hemmi.net/



●目次
1章 白は虚無、黒は傷跡
2章 「時間」との永遠のたたかい
3章 生に依存した死、死に依存した生
4章 資本、メディア、そして意識
5章 解かれなければならない「謎」、解いてはならない「謎」
箱写真屋とジャコメッリ―あとがきにかえて

鶴見俊輔 『悼詞』 と 高橋和巳 [Art]

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リクエストした鶴見俊輔『悼詞』を図書館が買ってくれたので受け取りにいった。鶴見俊輔が半世紀にわたって書いた追悼文を集めた本である。編集グループSUREから発行されている。http://www.groupsure.net/


鶴見は難解な文章を憎んでいるのではないか、とおもわれるほどの分かり易い文章を書く人である。

受け取ってすぐ、はらりとひらくと、高橋和巳への追悼文。図書館ロビーの真ん中でつったったまま、読み始め、しばらく動けなかった。

『わが解体』は京大闘争に係わった高橋(当時、京大助教授)の記録である。教授会と学生の狭間で、自己の行動の論理をどう構築するのか。これを書くとき、鶴見は自身の教官辞職問題(東京工大)が脳裏を去来したに違いない。


高橋和巳は学生時代に愛読し、東京に就職してから作品集全10巻を揃えた。大学時代は闘争期間中、講演に来てくれたが、鬱々とした語りで何をしゃべっているのか皆目聞こえなかった。

70年前後、河出書房の雑誌<文藝>だったとおもうが、高橋和巳追悼の文章を発見し愕然とした。これは新幹線の中であったのを覚えている。

買った高橋和巳作品集はいずれも行方不明になった。先日思い立って作品集別巻『詩人の運命』を注文した。高橋の愛した晩唐の詩人李商隠の評伝である。

高橋和巳の父が亡くなったとき、学生であった高橋は師である吉川幸次郎にそのことを知らせに師の研究室を訪れた。高橋の言葉を聞くや、平生、山のように沈着な吉川教授が飛び退くように椅子から立ちあがり、高橋に悔やみの言葉を伝えた。多くの学生がそうであったように当時の高橋も虚無感に浸されており父親の死も平然と受けとめていた。が、師・吉川から慈愛に満ちた哀悼の言葉を聞いた後の帰り道、はじめて滂沱の涙があふれてきた、という。これは高橋が吉川幸次郎を論じた一文に書いていたことである。

吉川幸次郎がその師である狩野直喜君山(支那学京都学派の祖。漢学者)を哀悼する文章も忘れがたい。狩野直喜とはどのような人物であったか。狩野は中国語はもとより、フランス語にも堪能、フランスの文物を愛した。ナチス軍の侵攻により、巴里が陥落したとのニュースを聞くや、狩野君山は礼服に身を整えて仏領事館を訪れ弔意を表した。領事館員は驚き、いたく感激したという。国亡ブレバ則チ弔ス、との中国故事にならったのである。吉川教授が師の追悼文に記すところである。

狩野君山は桑原武夫の師でもあり、桑原の父、桑原隲蔵の同僚、友人でもあった。先生の自宅を訪れたときのことを桑原武夫が書いている。君山先生でもたまに康煕字典を引くことがあった。君山が両の手でぶ厚い字典をマサカリで割るように二つに割ると目的の字はそのページでなくても必ず前後数頁に収まっていたと。

桑原武夫が療養中の高橋和巳を見舞ったことを記した文章がある。若い友人をおもう心情を論語の一節に託している。桑原武夫『論語』、雍也第六(ちくま文庫p139~):

伯牛有疾、子問之、自牖執其手、曰、亡之、命矣夫、斯人也而有斯疾也、斯人也而有斯疾也。

伯牛(はくぎゅう)、疾(やまい)あり。子、之れを問う。牖(まど)より其の手を執る。曰わく、之を亡ぼせり。命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾い有るや。斯の人にして斯の疾い有るや。

弟子の病を見舞った孔子。桑原武夫は「。。。古注によって、病人がおそらくくずれた顔を見せたくないというその気持ちを察して、孔子は窓から手を握るだけで別れたとよむのが自然であろう」と解釈する。<疾>とは、悪疾=らい病(レプラ)のことである。

「私事にわたるが、高橋和巳がガンにおかされ、命旦夕にせまったとき、私は病室に彼を見舞ったが、この章を想起せずにはいられなかった。彼は長患いになりそうだとは自覚していたが、ガンであることは知らされていなかった。枕頭におかれた魚釣りと高山植物の小型本を見て、私は気ながの養生をすすめるだけで退室した。孔子の立場に自分をおく不遜は別として、状況はすっかり違うけれども、心情は同じであった。そして彼の告別式に私はこの孔子の言葉を捧げたのだった。私にとってはもっとも感銘の深い章である。」





さて、『悼詞』にもどる。

読んだあとで気づいたが、この本、『悼詞』のスタイルは、鶴見の膨大な書評、とスタイルが同じ。鶴見にとって、人間とは肉体にアラズ、精神である、すなわち、文字である、すなわち、書物である、書とは人である。追悼の詞が書評とスタイルが同じになるのは、当然なのである。 この論集はしたがって、追悼文集ではなく、<問題集>として読める。追悼文を捧げられた人々はすでにいない、従ってこの文章は残された人々に対して書かれたものにちがいない。没した人の意味を文章という形として、残された人々の、前に(Pro-)、投ぜられた(-Blem)もの、問題集である。集中、わたしにとっては、「高橋和巳 - 『わが解体』について」がもっとも重要である。高橋の提起した、直接民主主義の問題、「内ゲバの論理はこえられるか」は時代を超えた、未解決の問題としていまだにアクチュアルである。



あとがき、で鶴見俊輔は次のように述べている。

「私のいるところは陸地であるとしても波打ち際であり、もうすぐ自分の記憶の全体が、海に沈む。それまでの時間、私はこの本をくりかえし読みたい。

 私は孤独であると思う。それが幻想であることが、黒川創のあつめたこの本を読むとよくわかる。これほど多くの人、そのひとりひとりからさずかったものがある。ここに登場する人物よりもさらに多くの人からさずけられたものがある。そのおおかたはなくなった。

 今、私の中には、なくなった人と生きている人の区別がない。死者生者まざりあって心をゆききしている。

 しかし、この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、八六年にわたって傷つけた人のこと、そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる」 2008年8月19日 鶴見俊輔


これは、あとがきの全文である。 哲人、マルクス・アウレリウスの声を聴くようではないか。
まことに尊敬すべき文人である。


鶴見俊輔から私はおおくをおそわった。プラグマティズムや記号論、とくに、デューイ。そしてなにより、鶴見自身の生き方、考え方、世界といかに相渉るか、を。鶴見俊輔著作集全五巻(筑摩書房、旧版)はわたしの宝である。

鶴見俊輔の健康を祈る。長生きをしてもらいたい。



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『紅い花』  辰巳泰子 [Art]

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辰巳泰子HP
http://www.geocities.jp/tatumilive/index.html

大阪、十三(じゅうそう)の出身。

音の根拠 Dream Vision    [Art]

                 ジャケット改訂081011_2328~01001.JPG          <二人のミクロでマクロな即興宇宙にタイトルをつけてみた。すると、夢に入り夢からさめる一つの物語が現れた>


現実は夢である。夢は現実である。
夢には、いつでも入れる。音楽は現実ではない。現実から、1フィート離れたところで生まれる、人間の夢である。

第一曲『時の川~夢の入口』から、第十三曲『やわらかい 夢の出口』までの、即興で演奏される曲の連なりは、わたしの感情線に交差し、わたしを先導し、立ち止まらせ、序破急の緊張をつねに用意する。印象をコトバであらわすのはむつかしい。第六曲『私のボッサノヴァ』、第七曲『奏法7』、第八曲『寡黙なサディスト』が私の最も好きな三曲であり、収録曲全体を山に喩えれば、この三曲が山のいただき(~あるいは海に喩えれば最深部)をなすように私にはきこえた。

『私のボッサノヴァ』、は人間の祈り、叫びである。

昨夜はこの曲だけを繰り返して聴いた。ウタが人間を動すのは言葉のゆえではない、声~音によるのであり、コトバを拒否する広い世界があることを確信した。 10/14

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『奏法7』と『寡黙なサディスト』からは、人間の激情、逡巡、思索、そして静寂が聞こえる。私の乏しい記憶の箱からはジョンケージや武満徹が残したコトバが蘇ってきた。


すべての音は透明、無駄がなく、直立している。エモーション発露の現場に立ち会える。グラウンド・ゼロから出立する音の世界がここにある。



22101484_2155020143 silent sadist 2.jpg                         
                             

イムプロビゼーションは演奏家の持続する意志によってのみ、実現される。

この数日、わたしは、朝から晩まで 『Dream Vision』 を聴いて、飽きることがない。つねに、1フィート高いところを追求しようとする演奏家のココロザシは、空気の振動となって記憶をリフレッシュし、脳髄を揺さぶるのである。

 13のトラックを13の短編小説に喩えるのは適切ではあるまい。小説は文字として、公認された意味の塊として現前する。音の塊は無形であり、意味としてでなく、ただ、おと、として、都度、あらわれ、都度、消える。個人個人は、意味を都度、付与し、あるいは無視し、そして永久に忘れ去る。毎日毎夜聴く、あるいは、聴き逃す、小鳥のさえずりのように。虫の鳴き声のように。風の音のように。文字の意味が固定してどこかに存在するとおもうのは幻想であり、その都度、個々の人間は、歴史や社会と無関係の地点で、個別の意味を立ち上らせている、といったほうが正確だろう。意味は時間の属性であり、意味は消えるために、存在する。



080927_2135~01001 縮小.JPG cdジャケットから
Dream Vision by micro macro: 蜂谷真紀(voice/piano)+加藤崇之 (ac-guitar)
http://hookchew.com/html/rc_cd.html


22101484_1100153873 宗法.jpg



武満徹『ジョンケージの死』(1992/12)から:
 「私がケージから学んだことは、外でもない、音楽は、生活と別に存在するものではないということだった。そしてさらに、一つとして同じ音はこの世界には存在しない、ということだった。それは、音の千差万別を聴き出すということであり、音は生きたものであって、それ自身の美しい秩序を具えている。それを正確に聴くことが、ある意味では、最も創造的な行為なのだ。つまり、音楽は音楽であって、それ以上のものでもなく、それ以下でもない。ケージの音に対する本質的認識は、かれが愛したきのこのように、音は、不意に現れて、直ぐに消えてゆくということだった。この当たり前のことすらもが、ともすると忘れられてしまっている。「音楽」という囲いの中で、記号化された音の人工栽培に現を抜かしているような作曲が、「前衛」をすっかり形骸化してしまった。方法は慣習に変り、頽廃が生じた」 

武満徹『The try --- ジャズ試論』(1957/10)から:
 「ジャズが僕をとらえる魅力は、その獣的ともいえる生命感であり、そこに感じられる不思議な静けさと安らぎである。あまりに反生命的なこの世界でジャズを論じるとすれば、僕などよりはるかに考古学者が適している。
 
ジャズは論じられるべき性質(たち)のものではない。ただ感じるものである。音楽芸術とは、音の感覚的世界を通じて人間の実在を探る、表現の音楽についていえる言葉だろうが、ジャズは、なにものをも探ろうとしない。ジャズは、表現よりも行動という言葉の感覚に近い。それは欲望の呻きであり、嗚咽であり、祈りの呪文である」


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                     22101484_2547154920 black unicorn  セピア赤85 8080.JPG

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入れものが無い両手で受ける  尾崎放哉 [Art]

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足のうら洗へば白くなる

海が少し見える小さい窓一つもつ

とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた

なん本もマッチの棒を消し海風に話す

山に登れば淋しい村がみんな見える

秋風の石が子を産む話

投げ出されたやうな西瓜が太つて行く

壁の新聞の女はいつも泣いて居る

鼠にジヤガ芋をたべられて寝て居た


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切られる花を病人見てゐる

陽が出る前の濡れた烏とんでる

蜥蜴の切れた尾がはねてゐる太陽

迷つて来たまんまの犬で居る

都のはやりうたうたつて島のあめ売り

障子あけて置く海も暮れきる

あらしがすつかり青空にしてしまつた

月夜風ある一人咳して

爪切つたゆびが十本ある

入れものが無い両手で受ける

せきをしてもひとり


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墓地からもどつて来ても一人

なんと丸い月が出たよ窓

墓のうらに廻る

窓あけた笑ひ顔だ

肉がやせて来る太い骨である

一つの湯呑を置いてむせてゐる

春の山のうしろから烟が出だした


17377693_154334614肉が.jpg



尾崎放哉。
明治一八(一八八五)年一月二〇日、鳥取県邑美郡(現鳥取市)吉方町に父尾崎信三、母なかの次男として生まれた。本名秀雄。
大正一四(一九二五)年八月、小豆島、西光寺の奥の院南郷庵の庵主となった放哉は、酒と作句に明け暮れる。
翌大正一五(一九二六)年四月七日、病没。享年は四一。



選句とデータは下記、青空文庫サイトから得た。ここに掲載した作品はすべて小豆島時代のものである。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000195/files/974_318.html


尾崎放哉記念館@小豆島
http://www2.netwave.or.jp/~hosai/

蝶墜ちて大音響の結氷期    富澤赤黄男 [Art]

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<現代俳句>なるものを私が知ったのはこの一句から。
何度も何度も反芻した句である。あまりに濃すぎるイメージ。いまでは、『蝶墜ちて』だけで十分、あとは余計であるとさえおもっている。



富澤赤黄男 とみざわ かきお(1902~1962)

鶴昏れて煙のごとき翼ひけり
 翡翠よ白き墓標のあるところ
 靴音がコツリコツリとあるランプ
 砲音の輪の中にふる木の実なり
 豹の檻一滴の水天になし
 花粉の日 鳥は乳房をもたざりき
 窓あけて虻を追ひ出す野のうねり
 蝶墜ちて大音響の結氷期
 秋暑し豹の斑の日に粘り
 冬蝶の夢崑崙の雪雫


この代表句は次のHPの撰による。

俳 句 の 歴 史 
10人の俳人とその作品
http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jkakio.shtml
##
富澤赤黄男は象徴主義の詩の影響を受け、俳句に抽象表現、隠喩(メタファー)、 アナロジーなどの西洋的な手法を積極的に導入して、近代人の憂愁を表現しよ うとした。
赤黄男の俳句に対する評価は、現在でも大きく分かれている。特に伝統的な俳 句の方法論を重視する作家たちは、赤黄男をはじめとする新興俳句の価値を強 く否定している。
##




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三橋鷹女と橋本多佳子 [Art]

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三橋鷹女

あぢさゐの闇夜も知らぬ深眠り

老いながら椿となつて踊りけり
風鈴の音が眼帯にひびくのよ
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
きしきしときしきしと秋の玻璃を拭く
蔦枯れて一身がんじがらみなり
てのひらに蜂を歩ませ歓喜仏
千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き
墜ちてゆく燃ゆる冬日を股挟み
暖炉灼く夫よタンゴを踊ろうか
炎天を泣きぬれてゆく蟻のあり
紅葉恋人ならば烏帽子で来
藤垂れてこの世のものの老婆佇つ

つぎのHPから好きな句を選んだ。
http://uraaozora.jpn.org/haimitsu.html



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橋本多佳子

雪はげし抱かれて息のつまりしこと
月光にいのち死にゆくひとと寝る
息あらき雄鹿が立つは切なけれ
雪はげし夫の手のほか知らず死ぬ
泣きしあとわが白息の豊かなる
あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ
祭笛吹くとき男佳かりける
いなびかり北よりすれば北を見る

つぎのHPから選んだ。
http://www.suien.net/takako/

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清張と多佳子
http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/seichou/seichou.html

橋本忍 『複眼の映像 -- 私と黒澤明』 [Art]

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橋本忍と黒澤明@昭和35年 080505_1721~01001.JPG


共同脚本、というのは黒澤の専売特許なのか?そんなことはないはずである。小津安二郎もやっていたはずだ(しかし、<共同>の形態がちがっているのだろう)。

黒澤のやり方は、全く同じ進行場面を2人~3人が描き、仕上がったところで、別の裁定者(七人の侍では、小國英雄。彼は一行もシナリオを書かない)がどれかを採用する。その決定に誰も異議は挟めない。採用した進行を元にまた、複数のライターが続きを書く。書いている間この裁定者は同じ宿で寝ころんだり、ぶらぶらしているのだという。
                                 
なぜ共同なのか?黒澤は、監督の自分だけで書くと、現場で辛くなる書き方をつい省略するから、であると説明する、
  が、
橋本忍はそれは、まっ赤な嘘である、という。黒澤はそんなことができるわけがない。共同でやればいいものができるから。それだけである。しかし、一人で描けば一月で仕上がるところ、複数でやれば数ヶ月、最悪半年かかる。しかも、ニッポンの代表的なライターをこの間、複数、拘束するのだから会社の出費が馬鹿にならないし、ライターにとっても長期間費やして一本では収入が減る。

重要なことは<裁定者>自身も優秀なシナリオライターであるが、このときシナリオを一行も書かないことだ。七人の侍では、小国英雄(一流の脚本家である。NHKの番組では橋本は敬愛を込めて小國ダンナ、と呼んでいた)が裁定者になった。




乱や影武者の失敗は、黒澤が編み出した共同執筆という形式を放棄し、黒澤の独断で書いたため、である。

しかし、力があり自尊心の強いライターを従えてリーダーシップをとれる監督が黒澤以外にいはしない。

黒澤のすぐれたところは人物の造形力である。大学ノート一杯に登場人物の造形をやっていく。絵コンテも描く。 橋本忍は伊丹万作門下。黒澤より10歳年下。いつかは黒澤の上をいくシナリオライターになってやる、と意欲満々であった。黒澤のように絵コンテの描けない橋本が、人物造形力をみにつけるにはどうするか。かれは<山手線方式>を編み出す。一日中山手線にのり、乗車する客から使えそうな人物パターンを蓄積していき(クレッチマーか?)、以後、このストックから選び出して登場人物に当て嵌めていくのである。

張り込み、砂の器、八甲田山、という大当たりも取るが、幻の湖、という大失敗もやらかす。http://www.youtube.com/watch?v=5spuk17nE5w

wiki 幻の湖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BB%E3%81%AE%E6%B9%96

黒澤は既にこの世にいないから、黒澤が生きていれば書けないような批判も遠慮なく書いている。橋本忍がこの本を書いたのは88歳の頃になる(3年前)。 新藤兼人と同様、長持ちの人である(丈夫、ではない)。


080505_1736~01野村.JPG 野村芳太郎



橋本は、黒澤の助監督であった野村芳太郎(『砂の器』監督)に尋ねた:
「黒澤さんにとって、私、橋本忍って、いったいなんだったのでしょう?」
野村「黒澤さんにとって橋本忍は会ってはいけない男だったんです」
  「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから、映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになった」
橋本「しかし、野村さん、それじゃ、黒澤さんのレパートリーから『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』が?」

野村「それらはないほうがよかったのです」
  「それらがなくても、黒澤さんは世界の黒澤に。。現在のような虚名に近いクロサワではなく、もっとリアルで現実的な巨匠の黒澤明になっています」
  「僕は黒澤さんに二本ついたから、どれほどの演出力。。つまり、力があるかを知っています。彼の映像感覚は世界的なレベルを超えており、その上、自己の作品をさらに飛躍させる、際限もない強いエネルギッシュなものに溢れている。だから。。。いいですか、よけいな夾雑物がなく、純粋に。。純粋にですよ、映画のおもしろみのみ追求していけば、彼はビリーワイルダーにウイリアムワイラーを足し、2で割ったような監督になったはずです」
  「ビリーワイルダーより巧く、大作にはワイラーよりも足腰が強靱で絵が鋭く切れる。その監督がどんな映画を作るのか。。橋本さんにもわかるはずです。。。文字どおり掛け値なしの、世界の映画の王様に。。橋本さんはそうは思いませんか?」
  私(橋本忍)は目の前がくらくらした。野村さんの言っていることにも一理あるが、どこか衒学的であり、肝心な点が間違っている。なにか言おうとした。だが言葉が出ないp227


しかし、一方で、若くしてなくなった師である伊丹万作が天国で語る声を橋本忍は聴いている:
「橋本よ。。。いつかはおまえが出会う、いや、会わねばならぬ男、それが黒澤明だ」p42




黒澤と橋本忍の関係を軸に、その周辺のシナリオライター(菊島、小國)の仕事ぶりを橋本忍の視点でみたヒストリーである。このヒストリー自体が橋本の傑作シナリオである『羅生門』的面白さ。


『七人の侍』。。。現代版に書き直すとすれば、野武士は、政府か、官僚か、警察&ウヨクか。 侍は?



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080505_0612~01.JPG 黒澤@昭和23年頃


昨日からNHK BSでは10年前に放映した黒澤キャラクタ特集を再放送している。改めてみて、面白かったのは、橋本忍による黒澤との交流(この本の内容と同じ)、それに、大島渚による黒澤評価である。

黒澤全集を引っ張り出してみたが、当時の映画評論家の黒澤評価はとてつもなく厳しく、トンチンカンなモノが多いが、逆に、淀川長治のような西洋ザルが、小津安二郎を全く理解せず、小津には映画のリズムと文法が欠落している、として黒澤を持ち上げるのも惨めで滑稽、贔屓の引き倒しである。

山田洋次が晩年の黒澤宅に呼ばれて、訪れたとき、黒澤明は一人でビデヲを観ていた。それは小津安二郎『東京物語』であったという。

大島渚の黒澤批判は、技法としてはともかく、内容が古い、というものだ。女性を描かない、とか、シェークスピアなど戦後とりあげる必然性があったのか(黒澤の戦争協力も暗に批判している)?

映画『乱』の試写会。橋本忍は、焼け落ちる城から、白髪を逆立てた幽鬼のような老人(リア王~仲代達矢)がふらふら出てくるのをみて、口の中で声をあげた。この老人が黒澤明に見えたのだ。


黒澤は独断的な芸術家になってしまった、と橋本は批判している。わたしも、『赤髭』より後の黒澤作品は何度見ても、最後に到着する前に、途中で放り投げてしまっている。NHKのメーキングフィルムをみると、黒澤はスタッフや俳優をどなりまくっている。「きみは下手なんだから、端っこにいろ!真ん中に出てくるんじゃない!」 聴くに堪えない罵詈雑言である。私が俳優だったら監督を殴り倒してオサラバするだろう。それでも黒澤を許せるのは彼の飽くなき努力ゆえ、である。おなじNHKの番組で谷口千吉(監督)が語っている。「ぼくと黒澤は戦時中、あるブリキ屋に下宿していた。深夜になっても黒澤はシナリオを書いている。おい、寝られネエじゃねえか!電灯を消せ!と怒鳴る。背の高い黒澤が立って電灯を消す。ところがしばらくすると畳の上に蝋を垂らして蝋燭を立て、また、書き出す。ぼくと黒澤に差があるのはこの辺ですね」



080505_0046~01伊丹万作.JPG 伊丹万作 1900-46 


字を書く職人であれ。伊丹万作はこのことを橋本忍に何度も述べたそうだ。
橋本忍は、シナリオライターとは職人である、芸術家であろうとおもうな、という戒めであると解釈した。
1946年9月21日肺結核で伊丹万作死す。橋本は伊丹の死を、新聞の死亡欄を読んで知った。

橋本が療養所で最初に書いたシナリオ『山の兵隊』を、伊丹万作に送ったのは療養所を無断退院して姫路でサラリーマンをしていた頃。1942年のこと。伊丹からは丁寧な返書が来た。橋本は京都に伊丹を尋ねて指導を受けた。シナリオは会社までの通勤電車で書いた。

伊丹万作法要の席で、伊丹の奥さんが伊丹万作の助監督を務めた佐伯清を紹介した。佐伯は黒澤明と知人であった。この縁で、橋本の書いたシナリオ『雌雄』に黒澤が目をつけた。が、このシナリオは短すぎる、と黒澤が言う。芥川の『羅生門』を追加することを伊丹が提案した。



『複眼の映像』 2006年6月25日 文藝春秋 306p
プロローグ
第一章 『羅生門』の生誕
第二章 黒澤明という男
第三章 共同脚本の光と影
第四章 橋本プロと黒澤さん
第五章 黒澤さんのその後
エピローグ 




追記 5/12:

村井淳志『脚本家・橋本忍の世界』(集英社新書)は、橋本忍の自宅を訪れた著者のインタビュが載っていて興味深かった。

080512_0942~01脚本家.JPG


橋本忍は、村井にこう語った:p167

「(師匠の)伊丹万作さんが、あるときぼくに『君、オリジナル脚本ばっかり持ってくるけど、原作ものはやらないの』と言うから『僕はやったことがないんですけど、やるんだったらこんなふうにやりたいです』って言ったんだ。

柵の中にね、牛が一頭いるんだよ。何日も何日もその牛を見に行くんだ。じーっと見ていて、ここが急所だ!と思ったら、柵を開けて中へ入って、鈍器で一撃のもとに倒して、鋭利な刃物で喉を切って、頸動脈の血をバケツに入れて持って帰って、それで(脚本を)つくる。原作の姿形なんてまったく要らない。欲しいのは生き血だけ。やるんだったら、そういうふうにやるって言ったんだ。

そしたら伊丹さんは『橋本君の言う通りかもしれんな。一番効率的で手っ取り早いだろう。だけどこの世の中には、やっぱり殺さずにね、いっしょに心中しなきゃいけない原作もあるよ』って言われたんだよ。それはよく覚えている。だけど、僕にはやっぱり、一撃のもとに倒すことが大事なんで、殺し損ねて暴れ出したら手がつけられなくなる。だから原作は二度と読まない。脚本を書くときも読まないし見ない。もう、要らないものになっているんだよ。50年やってきたけど、心中しなくちゃいけない原作なんて、とうとう一遍も会わなかったよ。ない。そんなもの、ないよ。一撃のもとに殺したときが一番効果がある。手間がかからない。小説と脚本はそもそも全然違うんだから、こだわっても意味はない。本を書くときに原作を読み返さなければいけないときは、失敗作だよ」


著者村井も『。。なんともすごい覚悟ではないか』と言っているが、わたしもオドロき、かつ、感動した。 弟子にここまで開き直られたら、師匠も口をつぐむしかあるまい。


橋本忍は、伊丹万作を越えているのではないか、とさえおもった。
『八甲田山』や『砂の器』。。などのシナリオを伊丹が生きていたらどう評するのだろうか? 
わたしは、映画『砂の器』があまりに原作を離れすぎているのが問題だ、と思っていたのだが、原作に忠実、なんてシナリオ作法は橋本の眼中には最初からなかったのだ。 唸ってしもうたぞ。


NHK TVでも山田洋次(橋本忍の助手)が語っていたがこの膨大で複雑なストーリを持つ清張『砂の器』のシナリオ化は不可能、と観念しかけたのだ。。が、橋本はこの原作のなかの キーは、ここにある!と、ハンセン病の親と、その息子が

「。。福井県の田舎を去ってからどうやってこの親子二人が島根県までたどり着いたかは、この親子二人にしかわからない」

。。という原作(新聞小説)のたった2~3行に赤線を引き、山田洋次に示し、「山田君、ここだぞこの映画は」、と。

これで、この映画のラスト30分、主人公(加藤剛)の演奏と、警察の捜査会議、それに、親子の人目を忍ぶ旅、が同時進行する、という 橋本忍の言う(二度と同じ技を使えない)一世一代の 『マクリ一発』ができあがった。

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橋本忍がこの映画の公開直後、仙台のある放送局を訪れたときのこと。廊下を歩いていると、若い女性があとを追いかけてきて、『橋本先生ですか?わたし、砂の器を20回見ました! ありがとうございました』と、だけ言って立ち去った。

20回も同じ映画を立て続けに観る、などは尋常のことではない。名作であっても、精神力の限界を超えている。映画そのものに余程の力がなければありえないことだ。橋本は『ああ、やった。マクリが成功したのだ』と喜んだ。

##

この師匠にしてこの弟子有り、ということか。

わたしは、シナリオ書きじゃないが、この話から、読書というもののありかたを学んだ。本のなかの急所を掴み、自分なりに脚色して理解する、という読み方である。 文字になっていないことまで読む。これは読者に与えられた自由である。


指揮者なし パフォーマンスにおける自己決定 [Art]

昨日の夕刊。演奏会の宣伝にふと目がいった。ヨハネ受難曲である。

 

 

<指揮者なし>とある。検索してみると。。http://www.operacity.jp/concert/2007/080302_about.php

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現代屈指のエヴァンゲリスト歌いのパドモアと英国を代表するピリオド楽器オーケストラのOAEは、これまでさまざまな指揮者の下で受難曲を共演してきたが、どこか納得がいかなかったという。「バッハの時代の演奏習慣を考えると、受難曲には指揮者という存在はそぐわないように思うのです。指揮者を置かないことで、全員がお互いにもっと聴き合ってより自由な発想で音楽を創っていこう、というのが出発点でした」とパドモアは語る。

###

さらに、キャロリン・サンプソン(ソプラノ)はインタビュアに対して、次のように答えている:

http://www.operacity.jp/concert/2007/080302_interview.php

###

◎キャロリンさんは、マーク・パドモア&OAE(エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団)のヨハネ受難曲プロジェクトには初めての参加になりますね?初めて「指揮者なしでヨハネを演奏する」というアイデアを聞かれたとき、どう思われましたか?

マークから直接話を聞きましたが、なんてすばらしいアイデア!と思いました。これまでもフライブルク・バロック管などと指揮者なしの公演で歌ったことがありましたが、ヨハネは初めて。とても楽しみにしています。

もちろん、すばらしい指揮者は私たちに多くを与えてくれますし、これまでの共演で学んだことはたくさんあります。けれども指揮者とソリストがいるということは、かならず「二つの意見」を調整する必要があるわけで、今回のやり方はその部分のコントロールがもっとうまくできるのではないかと思います。またオーケストラの各メンバーも、指揮者がいないことで、より積極的、より自発的に自分の音楽を表現しようとするようです。今回は編成も小さいですし、より密なコミュニケーションがとれるのではないでしょうか。われわれソリスト6人は合唱パートも歌い、そのほかに合唱メンバーが6人入るはずです。

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キャロリン・サンプソンの語っていることは、インプロヴィセーションとはなにか、に対する一つのヒントを与えてくれまいか(もちろん、ヨハネ、ではバッハが残した楽譜があるが。即興演奏もおのれが何ものかを産み出すのではなく、過去に聴いて返答せずにいる他者の声に対する応答ではないか) 指揮者のいる演奏とは、それでは何なのか?と問うてみなくてはならなくなる。読経をおこなう複数の僧侶に対して『経は口で称えるな、耳で称えろ』と老師は教える。お経であろうと楽器であろうと歌唱であろうと、耳がなくては称えられないし、演奏できず、唄えない。すなわち、耳、聴覚は楽器の一部である。他者の発する音を聞き、おのれの楽器から出る音を聞き、おのれの耳にきこえる音と、おのれの内部から発する、かくあるべし、という命令に従っておのれの出す音をコンマ何秒以内に調整する。これが演奏なのであろうか。演奏家おのおのの内部に、独立した指揮者がいる、ともいえよう。しかしその演奏家の内部にいる指揮者は、外部からは演奏家当人と区別はできない。外部の演奏家との音のコミュニケーションにより自己の発する音を制御する(演奏家が耳で聴く音は、指揮者が聴く音とも、演奏会場で観客が聴く音とも、異なる)。

 

小規模の演奏家で演奏する音楽(デュオ、や、弦楽四重奏など)では指揮者はいない(いてもおかしくはない。ソロ演奏であっても、だ)。数十名の演奏でも指揮者のいないことは珍しくもない。十人前後のコーラスに指揮者は付く(高校の合唱コンクールで、生徒達だけで勝手に演奏しなさい、というスタイルをみたことがない。ふつう担当教師が指揮をとる)。

 

<指揮者>の有無、要不要。問題は音楽演奏の世界だけの話ではないようだ。

 

パドモア 「バッハの時代の演奏習慣を考えると、受難曲には指揮者という存在はそぐわないように思うのです。指揮者を置かないことで、全員がお互いにもっと聴き合ってより自由な発想で音楽を創っていこう、というのが出発点でした」

指揮者はコントロールタワーとなって演奏を制御するのがその役割である。<指揮者という存在>だけでなく、演奏を制御するのは、残された作曲者の(つまりバッハの残した)記譜である。<全員がお互いにもっと聴き合ってより自由な発想で。。>というのであれば、バッハの残した記譜も演奏にとっては桎梏になるのか?しかし記譜を離れてはヨハネ受難曲、もありえない。言葉では言い表せない、記譜~演奏の間の機構がありそうである。同じ記譜から自動ピアノのように毎回、あらゆる場所で、同一な音を出す必要もない。さらに、ある創造を記録に残すには、記譜という文法は不十分すぎる、ともいえる。ある天才的思考や発想をたかだか数千の文字と文法=過去の人間思考のゴミ捨て場、に押し込めることが不可能であるのと同じ。指揮者の存在だけでない。演奏会場(東京オペラシティコンサートホール)はバッハが想像もしなかった音を観客に届ける電子設備の塊である。われわれの聴覚も精妙なる電子装置であることにはかわりなく、おまけに、脳内の視聴覚趣味嗜好ソフトウェアはいつでもダウンロード、入れ替え可能ときている。

 

 

追記(2/1):

本日、書店にでかけ、武満徹対談集がちくま学芸文庫になっているのを知った。武満の、過去の膨大な対談からセレクトしたもの。

キースジャレットとの対談を読むと武満が即興についてキースに語りかけている。キースはこう言っている:

僕は即興演奏を、リスニングと呼んでいる。複数で演奏しているときは彼らの出す音を聴くし、一人の時も自分の音を聴く。。。これがなきゃ即興演奏はできない。

若干記憶違いがあるかも知れないが、こういうことをしゃべった。これにたいして、武満は、

作曲もリスニングだ。つまり、前に書いた音を<聴いて>、次の音を出していく。なにもなければ、創作だ(武満はここで、創作と、 即興~作曲を区別している)

と応じていた。 この対談の初出は『すべての因襲から逃れるために―武満徹対談集』(音楽之友社、1987/3)。

 

リスニングの重要性。音楽だけ、のハナシではあるまい。人間の思考と行動、スベカラク、イムプロヴィゼーションである。

 

                     

 

関連記事:  芥川比寸志と武満徹

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-23-1

Dream Vision 音の根拠 http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-09-27

Mind Without Fear  心に恐れのないとき  タゴールの詩 [Art]






タゴールRabindranath Tagoreの詩。検索した詩につたない訳をつけた。

原詩はベンガル語。タゴール自身による英訳:
http://www.schoolofwisdom.com/gitanjali.html


<Mind Without Fear>  心に恐れのないとき

Where the mind is without fear and the head is held high;     
心に恐れなく、こうべを高くあぐるとき

Where knowledge is free;  
知識がたれにも解放され、

Where the world has not been broken up
into fragments by narrow domestic walls;  
偏狭な壁により、世界がいまだ分断されざるとき

Where words come out from the depth of truth;
コトバ、真実の深みより湧きいずるとき
    
Where tireless striving stretches its arms towards perfection;  
疲れを知らぬ営為が目的に向かい真っ直ぐ腕を伸ばすとき

Where the clear stream of reason
has not lost its way into the dreary desert sand of dead habit;  
清澄なる理性が、死の習慣の砂漠にその道を沈めることなく、

Where the mind is led forward by thee into ever-widening thought and action---
汝が導きにより、心が高邁な思想と行為に向かい進みしとき

Into that heaven of freedom, my Father, let my country awake.
自由の天国に祖国を導き、我らを目覚めさせ給え。
父よ。


米原万里  『他諺の空似』 書評 [Art]

                                        
                             2006年5月25日鎌倉の自宅で死去、享年56歳

光文社、2006年8月刊

子供の出来ない夫婦が医者に相談した。
「どんな方法でもいいから、奥さんが一番予想していない瞬間を狙ってセックスを仕掛けてごらんなさい。その方が受胎が起こる可能性が高いはず」

4ヶ月後。「感謝感激です。先生のアドバイス通りにいたしましたら、ちゃんと妊娠できました!」

診療室に夫ダケ残して医師は尋ねた:
医師「で、どうやって奥さんを犯したの?」

「それほど奇想天外な方法ではありませんよ。女房が冷蔵庫の扉を開けて何かを一生懸命探してたんです。それで、僕は気付かれぬように背後から忍び寄ってスカートをめくったんです。。」
「うーむ。なるほど。そりゃあ奥さんもいきなりでビックリされたことでしょうなあ」
「いやあ、後で聞いたら、女房は、それほどでもなかったみたいです。それよりも文字通り泡くってたのは、スーパーマーケットの店員やお客さんたちで、あやうく警察に通報されそうになりましたし。。。」

##
米原万里(ヨネハラマリィ)の遺著『他諺(たげん)の空似 --ことわざ人類学』(光文社)は雑誌宝石」のエッセイをまとめたもの(2004-2006)。↑はこの本の最後に収録された「終わりよければ全てよし」の一部。エッセイの枕に当たる部分だ。これをマリィさんが書いたのは2006年初期、癌で七転八倒していたころではあるまいか?

夕べ仕事を終え、閉店間際の書店にかけつけ、みつけたマリィさんの遺著。今朝、最初と最後のエッセイだけ読んだ。週刊文春に月一度寄せていた書評を立ち読みしていた私は、この書評が遺著となっていることを期待していた。光文社の雑誌宝石への連載をまとめたもの、ということでややショックを受けたのであったが。しかし、高等哲学でなく、世事にたけ、批判精神旺盛、エリチン、ゴルバチェフを手玉に取ったマリィさんの魅力満載。

この本は、各国の諺を餌にしたマリィ時事評論、人間批判の書。熟読しよう。

##
週刊文春の万里書評、まとめて出版されないのだろうか?寸鉄著者を刺す、快文、まとめて読みたいね。

●追記1:< 週刊文春6月8日の記事から>
5/25死亡、死因卵巣癌、享年56。
癌が告知されたのは2003年。
週刊文春に連載された闘病日記から。

x月x日 自らの意志で徹夜したことは数限りなくあるが、不眠症に苦しんだことは皆無な私が昨晩は一睡もできなかった。なのに今晩は眠れそうもない。次々にがんで死んでいった友人達の顔が浮かぶ(03/11/27号)

彼女は意志が示した選択肢から「何もせず様子見」を選ぶ。しかし、1年4ヶ月後に別の箇所への転移が判明し、今年1月ついに抗ガン剤治療に踏み切る。

<抗ガン剤治療を受けた直後の一週間は凄まじい嘔吐と吐き気に襲われ、死にたいと思うほどに辛かった> 06/2/23号

五月以降、妹、井上ユリさんに『いつ帰れるの?』と聞くようになった。(病院から)それで、5/21に退院。

告別式遺影写真が小さく、文春には載っている。少女のようなふっくらした笑顔である。

●追記2: 朝日新聞6月5日夕刊から
朝日夕刊、第四面、徳永晴美上智大学教授が、教え子である米原を追悼している。

徳永さんの語ったこと:
##
20歳代後半の妖艶な彼女に圧倒された僕は、すぐに外の喫茶店へと連れ出した。そこで「仕事が見つからないの」と話す彼女に、「通訳をやろう」と誘った。
(略)
僕の研究室で訃報に接した米原ファンの学生たちは、涙を流しながら「ロシア語がんばります」
と誓ってくれた

徳永晴美さんは、彼女から師匠、とよばれていたらしいが、歳は万里より3歳若かった、と。
##

共産党幹部のムスメだったのだそうだ、米原は。初めて知った。だから、修士課程(東大)を卒業しても仕事がなかった。

関連記事:
『打ちのめされるようなすごい本』 書評
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-01-04


冷い夏、熱い夏 吉村昭の死 [Art]

                                 

吉村昭の遺作「死顔」が「新潮」10月号に発表されるそうだ(昨日の朝日夕刊による)。「死顔」は吉村の兄の衰弱死(87歳)を扱う。兄は病院で延命措置を断って死んだ。

吉村昭(膵臓と舌の癌手術をうけた後自宅療養)は自分で点滴の管を外し、家族がそれをつなぎ直した後に、今度は首に埋め込んであるカテーテルの挿入部をむしり取った。

遺作「死顔」には、夫人津村節子の「遺作について」が付される。その内容の一部(夕刊による):
「私にはよく聞き取れなかったが、死ぬよ、と(娘に)言ったという。介護士が来た時、もうこのままにして下さい、と私は胸を詰まらせ、娘は泣きながらお父さんもういいのよ、と言った・・・・遺言に延命治療は望まない、と記したかれは、佐藤泰然の如く自らの死を決したのである」

佐藤泰然とはどのような人物か。吉村「死顔」によると:
「幕末の蘭方医佐藤泰然は、自ら死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。・・・泰然の死は、医学者故に許される一種の自殺と言えるが、賢明な自然死であることに変わりはない」

自然死、というがいまやこの言葉は死語であろう。最新医薬をはじめ人間の健康は最新医療知識や設備に支えられ、死もエイズや事故、怪しげな食料に支配されている。死が生の一帰結である以上、生が「非自然」に支配されている現在どこに「自然」な死があろうか。(長野でもエイズは広まっており、田中康夫知事は先日TBSでいまや強制的にエイズ検査を全住民に義務づけるべき、と語っていた)。

夕べは吉村の小説「冷い夏、熱い夏」を引っ張り出して拾い読みした。この小説は吉村の2歳違いの弟の癌の検出から50歳で死ぬまでの1年を描いている。弟が死んだのは、30年前のことである。小説が単行本となったのは84年、20年前である。小説によると、吉村は弟に癌を告知することに反対している。その考え方は今から考えるとおどろくほど古くさい。告知は当時でも欧米では一般的であったが、告知に吉村が反対するのは、告知が「欧米人と日本人の死生観に基本的な相違がある」ことを無視しているからだという。しかし、吉村には和田心臓移植を描いたドキュメント作品もあり、この作品の準備として、欧米、アフリカまで足を伸ばして取材し心臓のドナーや遺族、患者にあって資料を蒐集し取材をしている。末期の患者の苦しさも十分理解しているのである。

『冷い夏、熱い夏』でつぎのように書いている:
「患者は、自殺という行為によって苦しみからのがれたいと願い、それを実行に移すこともある。しかし、生を享けた人間の義務として、肉体の許す限りあくまでも生きる努力を放棄すべきではない、と思う。自殺は他の動物にみられぬ人類に与えられた特権だというが、思考の遊びに類したそのような説には反発をおぼえる」
「私にも、自ら命を絶とうと真剣に考えていた一時期があった。二十歳の初秋に胸部の手術をうける前のことで、。。そのような思いつめた気持ちになったのは、若さのもつ稚い心情によるものだが、少なくとも2つの要因がからみ合っていたように思う」として、2つの要因をあげている。
1 消化器官の機能が全く失われ、死を予期したこと。食べた野菜が、まったくそのままの色と形で排泄されることがあった。
2 肺結核患者の死の状態。周囲の者の眼をそむけさせるほどの激しい呼吸困難による悶死。

弟の癌を吉村は最後まで弟に知らせなかった。漏れることを恐れて、縁者はもとより弟の妻、自分の妻にもそのことを知らせなかった。

近親者の死から、市井の人々、歴史上の人物にいたるまで様々な死を描いてきた吉村は、自ら延命措置を取り外した翌日7月31日に死んだ。 享年79歳。

添付した吉村の写真は朝日夕刊から(1993年、書斎にて)。


草枕と魔の山  グレングールドのこと [Art]

  
                                                                             

横田庄一郎 『「草枕」変奏曲』 (朔北社、1998)を読む。

著者は、ゴールドベルク録音の新旧の演奏を比較し、その演奏の相違(極端なスピード演奏だった旧録音とふつうにもどった新録音)の間には彼の 漱石『草枕』への沈潜という事実があった、といいたいようだ。 これは直ちに納得しかねるが。

グールドカナダCBSで 草枕(英訳本から、彼が編集し、第一章の一部を朗読した)を朗読した。朗読に先立って、カナダのラジオ聴取者のために 草枕とは何か、を次のように解説した。p67

「『草枕』が書かれたのは日露戦争のころですが、そのことは最後の場面で少し出てくるだけです。むしろ、戦争否定の気分が第一次大戦をモチーフとしたトーマスマンの『魔の山』を思い出させ、両者は相通じるものがあります。『草枕』は様々な要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観の対立、モダニズムのはらむ危険を扱っています。これは20世紀の小説の最高傑作のひとつだと、私は思います」

この箇所を読んで、ビックリ仰天。

グールドはしっかりと教養をみに着けた男=宿題をしっかりやってきた男、であったのだ(日本の音楽家でこの程度のことが言える人間が何人いるだろうか?と考えた)。 まさに、草枕(や、三四郎)は、トーマスマンの魔の山、であるかもしれない。魔の山は、1912から書き始め、第一次大戦をまたいで、書き継がれ、23年頃に出版。草枕も、日露戦争直後に書かれた。 魔の山では、サナトリウム生活を送った主人公が戦争(トーマスマンがこれを書いた時点では既に終わっていた第一次大戦)に出征するところで終わるし、草枕も 現実には既に終わっていた日露戦争に主人公が出征(満州)するところで終わる。 魔の山は鬱々とした巨大な教養小説だが、草枕は短編に近い中編というところが違うだけ。漂うのは、魔の山では、欧州を舞台にし大量の死者と破壊を生み出した第一次大戦後のアンニュイ、草枕では日清日露をへて近代に疑いを持つに至った漱石の時代への不安あるいは虚無感である(三四郎に連なる)。 草枕は日露戦争の直後、1906年に出版だから、完成年からすれば、双方の時間差はわずか15年、同時代の小説と言って良い。漱石は倫敦留学を通じ、文学の背景となる英国の歴史や、音楽美術、そのほか自然科学や最先端の心理学など多大なる知識を収集していたし(文学は英文学、独文学からロシア文学まで。漱石の倫敦時代の勉強の成果が『文学論』であり、その完成に至るまでのノート類は、『文学論ノート』として出版されている)、漱石の絵や俳句は相当の腕前だった(英文学についてはゆうまでもない。漱石『文学評論』など)。ロンドンの美術館にも頻繁に訪れたはずである。


これで、グールドにおける草枕、はほとんど解決、である。わたしにとっては、『文学論』などで示した漱石の和漢洋の知識から(当時世界第1の知識人といってもよいだろう)すれば、『草枕』など『吾輩は猫である』の続編、軽く流した一編くらいの位置しか与えられない、と思っていた(といっても『猫』、も相当なモンだが)。現代の芸術そのものに問題意識をもっていたグールドは、翻訳を通して、漱石の芸術論、あるいは文明論を20世紀後半を生きる、ひとりの人間の問題としてハッシ、と受け止めたということだ。

グールドがピアノ弾きであるか、サラリーマンであるか、教師、小説家。。であるか。。そんなことはどうでもいいことなのである。



米国に亡命したトーマスマンはそこでも続々と作品を発表した。 とくに、シェーンベルクをモデルにして、ファウトゥトス博士、という現代音楽家を主人公とした長編を戦後発表している。グールドはこれを、どう読んだのだろうか?が気になる。

注: 写真は Glenn Gould: A state of wonder (Sony Classical)から。

追記:
数ヶ月前ゴールドベルクを聞こうとCDを注文。旧録音、新録音+インタビュー集で2000円弱くらいのお買い得版。CD3枚。そのあと調べたらすでに新旧録音とも持っていた。わたしは新録音1981年が好きだが。しかし、速度感、と、物理的な演奏時間はそれほど関係はないことも事実。やけにおそいなー。。と思っているピアノ演奏でもCD上の演奏時間で、比較すると他と変わらないということは多い。

追記2:
坊っちゃん、や、草枕、を書いた当時、吾輩は猫である、も並行して執筆されていた。坊っちゃんや草枕は、猫、の内容の一部を拡大したものであるといえる、と 吉本隆明は『漱石を読む』で述べている。

追記3:
魔の山ではサナトリウム内で、鬱勃とした芸術論、音楽論、哲学論、人生論が滔々と繰り広げられる。さながら、サナトリウム内の「吾輩は猫である」という趣である。

ps4 (6/7) グールドの新しい伝記
グールドの伝記が出版されたようだ。at 2005
アマゾン米の評では★が4.5。

書名= WONDROUS STRANGE
副題= The Life and Art of Glenn Gould
著者  Kevin Bazzana. Oxford Univ. 528 pp. $35

その書評= Washington Post
The canny madness of a remarkable man and his musical talent.
By Michael Dirda
Sunday, March 28, 2004; Page BW15
全文↓
http://listproc.ucdavis.edu/archives/mlist/log0403/0013.html

書評から、漱石に関する言及を抜粋:

And so began the legend of Glenn Gould, the geeky, twitching oddball, the holy madman, the saintly ascetic. But Bazzana's study reveals another side to this dazzling musician: a highly principled moralist and thinker, formed by his Canadian upbringing, widely read in world literature (his favorite books included Thomas Mann's The Magic Mountain, Natsume Soseki's The Three-Cornered World and George Santayana's The Last Puritan), a media visionary (Gould believed that artists should prefer the recording studio to the concert hall) and a tireless, meticulous craftsman on projects for radio and television. At least in part, Gould's tics and phobias may have even served a pragmatic function: They encouraged people to leave him alone so that he could get on with his work. "Isolation," he wrote, "is the one sure way to human happiness."

注) Natsume Soseki's The Three-Cornered World
 three cornered world が草枕、の英訳題名。この日本通の訳者は、四角い世界。。から角をひとつ取り去って三角のうちに住むのを芸術家云々という「草枕」の文章からとっている。 四角、は四角四面の四角だから(形式的な、固いことを言う。。)、じつに漱石的でないけったいな訳である。

モラリスト、思想家の一面。
魔の山、草枕、にサンタヤナのLast Puritanが愛読書。
コンサートホールより、スタジオ録音を重視。
Isolation こそ way to human happiness.

米国の19世紀のナチュラリスト、HD Thoreauも、Isolation と静寂を偏愛した。グールドと話が合ったのではあるまいか。

追記4: 
漱石『文学論』序、から抜粋。
『余は下宿に立て籠もりたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血をもって血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は如何なる必要あって此の世に生まれ、発達し、頽廃するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、興隆し、衰滅するかを究めんと誓へり。
余は余の提起する問題が頗る大にして且つ新しきが故に、何人も一二年の間に解釈し得べき性質のものにあらざるを信じたるを以て、余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するにつとめ、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ヶ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。而も報告書の不充分なる為文部省より譴責を受けたるの時期なり。
余は余の有する限りの精力を挙げて、購える書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施し、必要に逢ふ毎にノートを取れり。。』

『英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。賢明なる人々の言ふ所には偽りなかるべし。ただ不敏にして、是等の人々に対して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。。
云々』


荒川洋治『文芸時評という感想』 書評 [Art]

  荒川洋治『文芸時評という感想』 四月社刊 2005                                  

詩人荒川洋治が1992年から2004年までの12年間産経新聞朝刊に掲載した文芸時評を収めている。「はじめに」で荒川は「ぼくには批評を書く力はないので、作品の感想を書いた」と言っている。

以下ことわらないかぎり「 」は荒川の文章を表す。

1992/3
山田詠美「快楽の動詞」は男女の絶頂時における言葉「行く」にこだわる。英語ではあのときgo!ではなくcome!、お互いのところに「来る」が、日本語では<おたがいが「行く」>、つまり<英語のセックスは二人が向かい合い、日本語の性は同じ方向を向きながらする、すなわち永遠の後背位である>と結論する。。。。聞いたようなことを言っているがこれは荒川の言うように 「文法的にはそうといえるが実際の現場の様子は英語の人も同じだろう」。 あたりまえのことだ。アメリカでも日本でも、犬でも猫でも鯨でも人間でも イク、はイク! なのだ。Goはイク、comeはクル、という馬鹿の一つ覚えのような「訳語」に甘んじているのが可笑しい。山田詠美セックスコンサルタント(小説も書くらしい)は「文法的にも正しくない」のだ。英米人が Come!といい、ニッポンジンがイク、というのであれば、なぜ、
               Come = イク
のである、としないのか?これ、文法以前の問題である。
荒川の結論「こちらの意志とはかかわらず物や時間が移動することをすべて「去る」の一語につつみこむ古代日本語の世界では「行く」も「来る」も同じこと。日本人がその瞬間において「行く」の語を選ぶのは「古代」の形跡なのだ、とぼく(荒川)は思う」。Comeはもちろん、自動詞だが move, becomeに近い意味では無かろうか。ある状態に入るつまり移動する(昇天、つまり天国へ)、のだ。イク、ももちろん、状態の移動を表す。トランジット=トランス、だ。天国生きのバス。

Comeは古代英語では、やって来る、運命などが身の上にふりかかる、さらに(ある状態に)なる、という意味がある。岩波古語辞典によれば、行き(往き)の意味は、「実際的に、心理的にその人の現在地を離れて、あるいは現在地を経過点として移動するのが原義」とある: 「奈良時代から例があるにはあるが、ユキの形のほうがはるかに多く使われ、平安時代に入ってからも、漢文訓読体ではほとんどすべてユキを使い、女流文学でもユキを使うほうが多かった。」

1992/6
「人のことばや行為、いとなみ、さらには小説という人間の作品が投げかける「感動」に対しても、いつかぼくらはその場所から離れることを運命づけられている。感動をもたらしたものをその場から離れた場所で受け取る、それこそが人間の現実の事態であるとするなら、「歩く」ことはとてもたいせつな問題となってくるだろう。ここの描写や背景を超える、作品の最終的な眺望は「歩く」といういとなみを抜きにしては語れない。「読む」は読書の通過点にすぎない。そこまでを含めて考える批評がこの先求められるだろう。」

人間や動物がものを観るとき、2つの目(目の間の距離、が重要)で見るから物体の位置が定位でき、言葉や概念を備えた「知能」というフィルターを当てて観るから対象を文節、判定できるのだ。フィルターを当てる、ときの当て方は個人個人で異なるし、何秒の一かの時間を要する。この時間のずれ、をわたしは「歩くこと」として、受け止めた。

1992/11
「(文化人類学者)青木(保)氏はさきの論稿で「異文化」を「理解」しないのに「感動」するという現代の高度情報社会の人間の需要のありかたを不思議なものとしてみているが不思議でもなんでもない。どんな情報も意識的な文章の抱擁をうけるとき「理解」を通らない「感動」も可能になる。。。。」

感動は、理解に先立つ、ということ。しかし、そうばかりとは人間のばあい、いちがいにいえないのではないか?理解しなければ、感動は得られない、ということは大いにあり得る。むしろ、逆転する、のが現代では日常的、ではないか?詩人の断言には警戒が必要だ。

1993/5 (中野孝次批判)
「。。バブルのときにこそ人間も文学も、そのほんとのところが出た、という視点はないのか。そのへんに回り込むのが「清貧」をいう作家の文章のつとめだろう」

1994/11 (大江健三郎批判)
「大江が、自分の家族の問題が解決した、小説をやめるという話は(ノーベル賞)受賞以上に実は衝撃的だった。結局、家族のことだったのかと思う。でも個人的なことがらが人類の問題、魂の救済だということになると異論をはさめない。。。。。。人類的美談が、文学的幻想を超えてしまったのだから。その点、大江氏はタブーをひとつつくったことになる」

1995/1
「作家は人前で話すとき、原稿などというものをあらかじめ用意すべきでない、とぼく(荒川)は思う。。。。真の国際性というのは、誰と、どんな状況で出会っても、そのときの自分をありのままに表現できる人なのではあるまいか」

なにも、作家だけにかぎるまい。

1995/4 (オウム問題に言及)
「ことばではもはやなんの伝達もできず、単純にいえば、空気に毒物をいれることでしか主張できなくなったことを暗に物語るこの20日の地下鉄の惨事を思い出したい。いまひとは果たしてどこまでそこに、そのできごとに、自分の姿を見ているのだろうか」

1995/5
「。。。だがそもそも小説は(創作物すべては)誤読されるのがあたりまえなのではないのか。誤読、よし。読む人を揺さぶれそれでいい、それだけのものだという考えのほうが、文学の景観を守り、もしかしたら、彼らの登場を支えたのではないか。現代の作家には「自分」の書いたものが「正しく読まれる」ことへの関心しかないようである」

ちいと、違うだろう。「高く値踏み」してもらうことしか関心がないんよ。

1995/8 (「つるにちにち草」から始まった)
「母のない(ジャン・ジャック)ルソーが「お母さん」と呼んで慕った、ヴァラン夫人。まだ青年の彼は、夫人と二人で山歩きをした。そのとき夫人が、「この花はね、つるにちにち草、というのよ」と教える。青い花だった。そのあと、そのことをルソーは忘れた。
それから30年後、ルソーは山に登って、ふと同じ花をみつける。
「おや、つるにちにち草だ」(原語=アー・ヴァオラ・ドゥ・ラ・ベルヴァーンシュ)
そこで一気に夫人との青春の思い出がよみがえり、ルソーはよろこびの声をあげる。けげんそうな友人。でも、そういうささいな、他人にはわからない小さな記憶に人生の真実がある。はかないものこそ、かけがえのないもの。そのような記憶や経験を書き留めて生きようと、ルソーは心に誓う。「告白録」の有名な場面である。自分のいつわりのない人生をつづる。今日の小説の精神はここに誕生。以後世界中の作家たちに「告白録」は、はかりれぬ影響を与えた。
小説とは何か。「つるにちにち草」である」
http://home.q03.itscom.net/momo/harunosanpo1.jpg

わたしが、告白録を読んだのは高校生のときだ。桑原武夫訳、岩波文庫。
ルソーはしかし、彼の五人の子どもをすべて孤児院に送った人間でもある(当時、ジュネーブでは子どもの半数は孤児院でそだった)。ルソーは音楽家でもあった。いま、幼稚園で誰でもうたう「むすんで、ひらいて」を作曲したのはルソーだ。現在、わたしにとって、ルソーとは、「人間不平等の起源」、あるいは「社会契約論」、の著者として、農民市民を鼓舞し、フランス革命をやがて引き起こし、世界に近代の幕開けを告げた政治理論家として、ある。愛人のできたヴァラン夫人とも別れ、数々の友人もすべて失ったルソーはその後、精神を煩ってしまう。晩年はひとり、昔からの趣味であった植物採集にいそみながら往年を回顧する狷介な老人、あるいは、「孤独な散歩者」となった。ルソーは精力的に歩き回った。ものを考えるにも、散歩するか、身体のどこかを動かしていることが、私には必要だった、と『告白録』で述べている。

荒川洋治のこの本で久しぶりにめぐりあった『告白録』、これもわたしにとっての、つるにちにち草、である。岩波文庫に書店がかぶせてくれたカバーの色模様まで思い出すことができる。

1996/1 (村上龍)
「「すばる」のインタビューのなかで長谷川四郎の「シベリヤ物語」を読んだが「圧倒的に情報量が不足しているから」読めなかった、という。村上氏らしいドライな見方だがぼくはおどろいてしまった。文章が「物」になりきることを含めた言葉のもうひとつ深い働きが理解されていない。それが若さというものかもしれないが、散文と情報の見分けが付かない「文学」がこのさきふえていくとしたら、生きた文章を書く人たちは高齢化する。言葉をかえれば情報不足の人だけが人間をとらえていくことになる。何度も何度も橋の上で送り、送られるように」

村上龍は文学者ではない。IT作家である。

1997/5 (村上春樹、「アンダーグラウンド」について)
「。。。たしかに文学の言葉は、事実をありのままに伝える力量においては見劣りがする。だが、それらはしばしばであるが、普通人の言葉より洗われ磨かれ濾過もされ、そのことで多くの人のこころにゆくゆくはいきわたる。つまり迂遠なところに価値がある。村上氏はそうした文学言語の場を、文学のよって立つ場をすてたのだろう」

わたし(古井戸)は先日あるところにアンダーグラウンドについて、つぎのように書き込んだばかりである:

「村上アンダーグラウンドはまったく退屈であった。途中で投げ出した。なんのために被害者にインタビューしたのだろうか?オウム事件固有の問題は、電車内でサリン袋を傘の先で突き刺した瞬間に、ジエンドなのであり、その後の被害者のフォローは第2幕。オウムとは無関係の無差別殺人一般のはなしである。 村上はこれをどう理解しているのか?おそらく考えたこともないのだろう。この疑問は、アンダーグラウンドの次作(「約束された場所で、アンダーグラウンド2」)で、こんどは教団内部で修業している一般信者に対するインタビューで明らかになる。被害者へのインタビューとはうってかわって、「なぜ信者をやめないの?」と高飛車に信者に迫っているのだ。この作家精神というより人間としての浅さ、が村上だろう」5/2/06

1999/1 (辺見庸について『眼の探索』)
「人は作家に、思索ではなく文章を求めた。その文章によって、読者が思索へと導かれる。そういう関係だった。いまは読者が思索を作家にゆだねる。多くの読者は思索においても「自分」を使いたくないのである。それを作家が代行する。ここに今日、文章を書く人の晴れやかさと、痛ましさがある」

深く、共感。
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/archive/c306161

2001/2 (詩学序説 by 吉本隆明、について)
吉本隆明「わたしたちの意識の奥底には、どんなふうに言葉で述べても言い尽くせないものがかならず残っている。また意識がどんなに言葉で表現しようとしても、その意図に従わない無意識の欲求もありうる。この言い尽くせないものを言い尽くそうとすると願う精神がある限り、言語を<意味>でなくて<価値>で表現しようとする詩の本質にまつわる欲求が存在しうるというほかない」

この箇所をわたし(古井戸)は、単行本になった吉本隆明『詩学序説』で読んで、「価値」が何を指すのか判然としなかった。文脈として、社会的に流通している「ことばの意味(辞書にのっているやつ)」を<意味>といい、<価値>はその辞書的意味から漏れるもの、個人個人の抱いている心情のこと、あるいは個人的コノテーション、あるいは喩、と理解した。マルクス経済用語を比喩的に使えば、交換価値が <意味>、であり(市場で流通する用語たち)、使用価値が<価値>(個人独特の色彩を帯びた、他人に簡単に理解できぬ、言葉の個人的意味)。しかし、詩であれ散文であれ、およそコトバを使って何事かを表現しようとすれば、市場に出回った用語、つまり、交換価値の用語をいくらひねくりまわさなければならない、それを寄せ集めたところで、使用価値、を表現できる保証はないハズだ(そして、それを承知で登山を挑むのが、文学だろう)。文学者でない普通の人間は、自己の要求をあらかじめ社会的に配備されたサービスのレベルにまで下げる、という調整を行って納得してしまう。自己納得を行わせる制度が教育であり、この過程を<社会化>という。

荒川洋治はつぎのように納得している。
「<意味>ではなく<価値>に重点を置いて描写されるものが詩であり、<意味>伝達に重点を置くのが(小説などの)散文であると、吉本氏は述べる。明快である。ぼくは30年ほど詩のようなものを書いてきたが、<価値>という視点には正直おどろく。新鮮だ。詩についてまったく興味のない人もひょっとしたら同じような感想を寄せるかも知れないとも思った」

わたしは納得していない。現在存在する言葉とその意味(辞書にある)は過去の社会のゴミため、としてある。ゴミためから言葉を寄せ集めて、組み合わせ<なにか>を言う、それを<価値>といい、詩、と呼んでいる?なら、話は単純だが(詩、は可能なのか?という話は残る)。

若林真理子のエッセイ「ふる」はこの言葉の問題に関連する 2002/8:
<言葉の定義というものは、少なくとも、会話を交わして理解できる人と人の間で、共通したものがあるのだろう。私はあまりにもその共通の問題になじんでいるので、自分の言葉を定義するということは、常にひとつずつの「発見」である>

若林はこれを書いたとき、18歳、である。荒川はつぎのようにコメントする:
「正しさ、美しさ、「声に出して」の読み方(テキストも)と、日本語の本は「共通」になじむことを教える。規格を求める、弱い人間がふえたのだろう。ことばと、その人だけのかかわりを忘れない。それはことばを知ること以上にたいせつなことである」

規格を求める、弱い人たち。ことばだけの世界に限るまい。

<ことばと、その人だけのかかわり>。これをちいさいころから、たとえば小学校、中学校、で教えているか?教えていない。<辞書的定義>から離れてはいけない、いい点がもらえませんよ!と教えるのである。言葉で言い表せるものは、宇宙の、ほんの、限られた範囲のもの、とこと、でしかない、ことを教えること。 もの、と、ことは言葉ではくくり得ない、こと。 人生もそうである、と荒川は言いたいのであろう。

2002/9 (文学は実学である)
荒川洋治にとって、文学とはなにか、を簡潔に示す。この時評集の結論だろう。
「この世をふかく、ゆたかにいきたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚にめぐまれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである」
「文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものなのである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと「実」の面を強調しなければならない」

異論というより、はるかに共感することの多い発言集、あるいは、啖呵集、としてこの時評集をおもしろく読んだ。じつは、最初図書館で借りて読んでいたのだが、ノートパドがあっというまに50個以上くっついてしまい、数年間は手元においておきたき書評集というわけで、新本を注文し、再度、蛍光ペンを引きながら読むことになった次第。文章は明快そのもの(ものたりぬ、ということでもある。明快であればよい、というわけにもいかない)。二度同じ箇所を読み直さなきゃならない、というようなことはない。全体を一日で読める。ただし、荒川(といわず、書物の著者であれば誰でも、望むらくは、だが)のコトバは、読者個々の体験を織り込んで読まねば、新聞のクンダラ記事の読み流しと変わるところはなくなる。

あわせて最近出版された全詩集(1971-2000)も購入。ガッツある詩、のオンパレードである。『荒川洋治全詩集 1971-2000』 思潮社 2001年。手持ちの谷川俊太郎の第3全集『詩集』2002年、とともに、当分、精神の栄養剤となるだろう。

本書に注文をつければ、文藝時評なのだから、作家別、作品別の索引くらいは欲しいところだ。 わたしは自分用に作家別索引をノートに書き込みながら読んだ。4ページくらいになった。Excelで整理して、ここに掲載しようとしたが、労の割りに役立ちそうにもないので止めた。

追記:
本作品は、第五回小林秀雄賞を受賞した。2006/8/28


眼の変容あるいは行く川の 藤原新也 [Art]

                                     

藤原新也。朝日新聞4/3の夕刊、「時流自論」

藤原は、コミカミノルタやコニカフィルムが市場から撤退し、カメラと言えばデジタルが当たり前の時代になったことから自論を展開する。藤原は懸念されたデジタルの品質も最近アナログ同等あるいはそれ以上に向上した、とこの変化を受け入れている。これ意外であったぞよ。

つけくわえて、言うに。。
「。。誤解を恐れずに言えば 人間の眼、そのものもここ30年の間に徐々にデジタル化してきていると考えており、むしろハードの方が後追いで人間の感覚に追いついてきたと言えないこともない。

「ユーザの眼自体がこの30年のうちにデジタル化し、見た目に派手な映像を求め始めた。。

「たとえば、木の葉一つを撮っても、その絵の色は実際の色とは似ても似つかない、あたかも、造花の花のように派手な色としてフィルムに定着される、このことは、ユーザ(プロを含め)の視覚も自然ではない派手な色を記憶色として脳内に定着させ、それを「きれい」と感じるデジタル的感性になっていることを示す
 そのように現代人の視覚が階調の間引きと彩度の飽和点を求めるようになったのは、環境の変化に負うところが大きいのではないかと、私(藤原)は考えている

パソコンモニターは互いの競争原理から近年ますます彩度とコントラスト比を高める傾向にあり、モニター上で画像を作り込まねばならないプロの写真家は標準色(記憶色)が再現できないという困った問題にも直面する

「この彩度やコントラストの刺激による人間の眼の感性の変化は10年の歳月を必要としない。おそるべきことに、わずか10秒間で人間の眼の感性は瞬間的に変化するのだ

(彩度の異なる風景を交互に見せると 彩度を欠いた方を物足りないと見てしまうことを述べた後)
「。。仮にそのような色価の刺激が10年間続いたとするなら、その錯覚が生物学的な脳気質の変化をも生んでしまうであろうことは容易に想像がつく。

「縦縞の飼育小屋のなかで育った猫は横縞が見えなくなるという衝撃的な実験があるが、どうやら2000年代の人類は、その猫の生態に似てきているようだ」

##

写真家藤原は、写真(技術)と、写真を見る脳の相互変容、最終的に人間というものが、いかに移ろいやすきものか、を述べている。石器時代の人間にカラー写真を見せたとしよう。一瞬、彼らは驚くだろうが、その驚愕は1時間も持続せず、あたかも想定内、としてたちまち石器人の脳に織り込まれることは確実だ。人間の歴史とは、新しき物を、あったり前のこと、に転換する器用さ、(と、同時に、それに伴って必ず、従来システムを無自覚に廃棄する、という悲惨さ)の歴史であり、人間はそういう馴化の仕組みを内蔵している。だから、言語も、倫理も、思想も、容易に生まれ、そして、容易に死ぬ。

音、や映像や、言語が同じ枠組みで語ることができることは、もちろん、ファシズムに瞬時に順応し「天皇ヘーカ万歳~」と叫んでいた、父ちゃんカアチャンが、一晩明ければ、「民主主義万歳~」と叫んで何のワダカマリも持たない、というずるずるべったり、あるいは、こらえ性のなさが、実証してきたし、いまも眼前に繰り広げられている融通無碍、無責任のアンポンタン風景がこれを示している。

眼も、耳も、脳も、感覚も、道徳も、時々刻々変わる、つまり、人間は日々再定義される。
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく 止 とゞ まる事なし。

人間の何が、変わり、なにが、変わらないのか?変わらぬのは二足歩行、新陳代謝、繁殖の構造だけ、ということか?

http://www.kahitsukan.or.jp/img/fuj_01.jpg
http://mbs.jp/portraits/portraits/2004/2004_10/s_fujiwara.html

追記:4/6
。。。とはいうものの、。。歳を食らうと、体力、精神力おちるわ、白髪は出てくるは、思考はワンパターンになるわ、記憶力めっきし衰えて暗証番号もど忘れするわ。。逆走、するわ。。で、。。。上部構造はすっかり化石化しつつある。 

新陳代謝+二足歩行。。。も。。 アルマジロさんのコメントにいうサイボーグなど待つまでもなく、すでに、着々と衰えて 石化への道をたどっている。

繁殖力?
ヤバイッスね。


音がする? [Art]

                                       

池辺晋一郎が「音楽は記憶の芸術である」と、発言していた。
音楽に限らず、芸術にとって記憶の寄与するところははなはだ大きい、とおもうが、音楽はとくに、そうであろう。絵や彫刻や映画、のように眼に見えない。絵や彫刻ならじっくり、時間を掛けて全体を見回せる。映画なら早送り、飛ばし見してながめつすがめつ、できる。

音楽に、そういう覗き的行為は許されない。
時間の芸術だからである。

音、とは空気の振動である、と習う。振動を伝える媒体である空気がなければ音楽はない、したがって、月世界でロックバンドやオーケストラの演奏会はできない。しかし、映画の上映はできる。光信号を眼は受信する。しかし、音は聞こえないから字幕にしなければならない。(イヤホンをつけても、ダメ、である。イヤホンも空気をふるわせて鼓膜に届く。脳みその、しかるべき場所に振動針を突き刺し、信号を送り込めばいいかもね)。

最近DNA学者から意識学者に転進したフランシスクリックによると、脳内のニューロンの発火にすべての意識現象を還元できるそうである。茂木健一郎によると、あらたにクオリアなる質を仮定すれば意識現象はうまく説明できる、という。

大森荘蔵の見解はまことに単純。
「元来、自然科学の世界描写というものは、音なし、味なし、匂いなし、要するに眼耳鼻舌身意の六根清浄ではなく、六根抜根の描写なのである。人ひとりおらず、犬一匹いなくても通用する描写なのである。今から30億年前、感覚器官を備えた生物が皆無の地球の風景を描写できる方式の描写なのである。そこには音を聞き色を感じる生物は一つとして存在しなかったのだから音や色を云々することは意味がない。夕焼けを赤く感じる生きものもなく、雨音を聞く生物もいない、だから夕焼けはただの電磁波、雨音はただの空気振動、そのようなのが自然科学の世界描写なのである」

では、人間にとっての、音は、どうやったら、出てくるのか?

「このような世界の描写から音や色がでてくる道理はない。そこに音や色を語ろうとするならば他でもない、音や色を付け加えればいいのである。その付け加えには何の釈明も不用なのである」

「。。そしてその色や音を具体的にはどのように描き加えるべきかはただ経験のみが教えてくれる。われわれはこのわれわれの経験世界を描こうとしているのだからそれは当然のことである。空気がふるえ、鼓膜がふるえ、脳細胞が(電気的に)ふるえる。ここに音はない。だが、そして(それに加えて)ステージの上で音がしているのである。」

一見、開き直りのように見えるが(だから、大森嫌い、が多いのだが)、ニューロンだのクオリアだのに根拠を求めたところでその当否など確かめようもない。安住の地を天国に求めているようなものである。かりに、その説明が当たっていたとしても、習慣と文化に生きる人間の説明にはならない。二足歩行をなぜ人間だけがするようになったか、なぜ、人間だけが高度の言語を操るのか?それを完璧に説明する、ことと、二足歩行の意味、言語を持つことの意味は「ほとんど」関係ない。脳の物理的構造、と、人間の意識や観念の内容はまったく別のレベルの話だ。さらに、音、といっても、人間の聞いている音は、自然の音ではない。音全体、のほんの一部である。微弱な音は人間には聞こえないし、大きな音であっても、たとえば、音楽会にいけば楽器の発する音しか音、として拾わない。数十ヘルツから20キロヘルツまでの周波数しか聞き取れないし、20歳を境に高音部の聴覚はドンドン落ちていく、というハードウェア的な制約に加え、電車パーティーで外人同士の話す外国語はたんなるノイズとしてしか聴こえない(あるいは微弱であっても日本語のひそひそ話ははっきり聞こえる)、という構造に、脳はすでに後天的あるいは文化的に「変形」されている。これは、学習でこしらえたソフト的なブロック機構である(米国民はコオロギ、キリギリス、。。などの虫の鳴き声を区別できない、ということを思い出そう。WASPの赤ん坊を生まれ落ちてすぐ、日本で育てればどうなるか?)。せめて、後天的な「変形」やバイヤスを取り除き(赤ん坊の耳、となって)、周囲の音に耳を傾けてみたまえ、というメッセージをジョンケージの作品「4分33秒」は投げかけている。
http://ww2.ctt.ne.jp/~a-k/disc/cage_433.html

デュークエリントンに It Don't Mean a Thing, If It Ain't Got That Swingという名句(歌詞)があるそうだ。日本語で「スイングがなければ意味はない」と訳されている。村上春樹は最近「意味がなければスイングはない」(文藝春秋社)という本を出した。「ただのコトバ遊びでこのタイトルをつけたわけではない。スイングがなければ意味はない」というフレーズはジャズの神髄を表す名文句として巷間に流布しているわけだが、それとは逆の方向から、つまりいったいどうしてそこに「スイング」というものが生まれてくるのだろう、そこにはなんらかの成立事情なり成立条件なりがあるのだろうか、という観点から、ぼくはこれらの文章を書いてみようと試みた」(あとがき)。

村上の本のタイトルはコトバ遊びではないらしいが、デュークエリントンの歌詞はコトバ遊びである(Thing - Swing)。エリントンはNo Swing, No Jazz(ジャズは、スイングがすべてだぜ)といっているだけで、「意味」など、と野暮なことを言うわけがない。それを「意味がなければスイングはない」とひねった(つもり)のでは、たしかに、コトバ遊びにもなっていない。

Shall we think a swing?

「この場合のスイングとはどんな音楽にも通じるグルーヴ、あるいはうねりのようなものだと考えて頂いていい。それはクラシック音楽にもあるし、ジャズにもあるし、ロック音楽にもあるし、ブルーズにもある。優れた本物の音楽を、優れた本物の音楽として成り立たせているそのような「何か」=something elseのことである。僕としてはその「何か」を、僕なりのコトバを使って、能力の限り追いつめてみたかったのだ」。心意気はよいが、この本、なにも解明しているわけではない。音楽家のエピソードや自分のCD体験、を連ねているだけである。「ぼくの好きなCDたち」、ね。

スイングやグルーヴをクラシック等々にも適用する(この発想はおもしろい。ただし、本文でフォローされていない)のは勝手だが、それなら、あっさり、「音楽とは何か」と問うたほうが早い。詩にも小説にも、絵にもスイングやグルーヴがある、と言った方がよいだろう。楽譜に意味があるのかないのか、というのは、ある一片の詩や小説に意味があるか、と尋ねるに等しい。それを、どのように再生するか、というのは演奏者のイマジネーションとスキル、読者のイメージプロダクションに依存する。スイングやグルーヴとは何か、という問いに気の利いた一般解がないのは、良い詩や小説、良い絵とは何かという問いに一般解がないのと同じことだ。作者や演奏者は、ある特定の作品ごとに答え=特殊解を示すのであり、われわれもその「特殊解」でもって満足せざるを得ない。これは悲劇ではなく、そういう表現分野が人間の歴史にあった、あるいは、それを称して芸術と呼ぶ、というのが人間のナラワシであるという事実問題である(くどかった?)。エリントンは、良い演奏(ジャズ)と、楽譜の間の、差分こそが、すべてだ、と言っているのであり、これはジャズをはじめとする音楽だけの話ではない。

大森荘蔵のことばは、すべて「流れとよどみ」(産業図書)の、「7:音がする」からの引用。

追記: 再読してみた。問題なのは、ジャズのサムシン’エルスを 「意味」と言っていることに私が過剰反応している、ともいえる。作家(村上はジャズにくわしい)がつけるタイトルとして、「意味がなければスイングはない」というのは気軽すぎる、とおもうんだが。

島田雅彦が、昨日の文壇時評(朝日)で、最近の新人賞はどれもこれも似たり寄ったりになってきている、有名作家のあれをとりこれをとり、して、平均的な作品が多い、と述べている。演奏も個性、があってほしい。TVのピアノレッスン(レッスンプロが、プロに対して行う)などは、個性発揮の前の、前段階を磨いているのだろうか?ジャズなどはどうなんだろう?もっと、スイングさせろ!と鍛えるんだろうか?


芥川也寸志と武満徹 [Art]

  
                                         

                                 

武満徹、が死んではや十年過ぎた。

10年前。都内。昼過ぎだったか、階段から地下鉄ホームに降りて何気なく売店に近寄る。夕刊フジの見出しを見てびっくり。武満徹が死んだ!1996年2月10日。
その夜、夕刊に記事が載るわけでもなく、どの局でも追悼番組もやらなかった。
大きな記事にしたのは海外の大手メディアである。

しばらくしてNHKで追悼番組をやった。ホスト、立花隆。立花はこのころ「文学界」(文春発行の月刊誌)に武満徹伝を連載していた(この連載、まだ単行本になっていない)。

武満は音楽を人間が創作する物、とは考えていないようだ。
自然界に満ちている人間だけに見えない音どもを、ある人々がすくいだす、それが音であり音楽である、と。漱石の夢十夜、に運慶の彫刻の話がある。彫刻家の仕事とは、原木のなかにあらかじめ埋もれている彫像を顕在化させる、のだ、という。

ジョンケージも同じ考えをもっていたはずだ。武満とジョンケージの対話はだから、シンクロする。

武満のケージ追悼文から。
「。。「音楽」という囲いの中で、記号化された音の人工栽培にうつつを抜かしているような作曲が、「前衛」をすっかり形骸化してしまった。方法は慣習に変わり退廃が生じた」

立花隆ホストの追悼番組では世界の様々な音楽家が参加した。ラトルいわく、
ラベルやドビッシーの世紀が終わり、タケミツの時代がやってきた、と。
武満の友人オレルニコレ(フルート)は、
武満の曲にはつねに、死があった、といっていた。

芥川也寸志は著書「音楽の基礎」(岩波新書)で言う。p176
「ドビッシーのつくりあげた長二度の和声体系は、ここにきて大きな意味を持ってくる。
天才とはいつもそのようなものであろう。彼はいとも静かに、そしてさりげなく、巨大な礎の上に築かれた重い歴史と伝統を背負った、ヨーロッパの音楽を動かしたのである。」

武満は長く、芥川のアシスタントをやり、映画音楽の手法を習ったようだ。武満の独創と世間でおもわれている手法も芥川のサジェスチョンによるところがあった、と芥川追悼文で武満は言っている。
たとえば、映画「太平洋ひとりぼっち」で裕次郎がヨットの中、妄想に悩まされるシーンで使われた具体音楽(ミュージック・コンクレートの手法=鋏やチェーンなどを使って曲を作る)、など。

二人の交流はどのようなものであったのか?武満「芥川也寸志と私」という短文からの引用。
「。。あるとき、それでも、あまりの私の小生意気さに我慢がならなかったのか
『武満さん、口で言うのは易しいが、それなら、ひとつでも聴けるような作品を書いてみたらどう?』
と珍しく、やや気色ばんだ調子で言われたことがあった」

芥川也寸志 「音楽の基礎」から引用:
「。。しかし、私はあえてもう一度繰り返したい。
リズムは生命に対応するものであり、リズムは音楽を生み、リズムを喪失した音楽は死ぬ。リズムは音楽の基礎であるばかりでなく、音楽の生命であり、音楽を超えた存在である。
  生命力と活力にあふれた自由で奔放なリズムが、現代音楽の主流として復活する日は、必ずや来るであろう」

「音楽が存在するためには、まずある程度の静かな環境が必要である。。。しかし、度を越えた静けさ-- 真の静寂は、連続音の轟音を聞くのに似て、人間にとっては異常な精神的苦痛をともなうものである」

「。。音楽の鑑賞にとって決定的に重要な時間は、演奏が終わった瞬間、つまり最初の静寂が訪れたときである。したがって、音楽作品の価値もまた、静寂の手のなかにゆだねられることになる。現代の演奏会が多分にショー化されたからとはいえ、鑑賞者にとって決定的に重要なこの瞬間が、演奏の終了をまたない拍手や歓声などでさえぎられることが多いのは、まことに不幸な習慣といわざるをえない。
  静寂は、これらの意味において音楽の基礎である」

(武満には著書「音、沈黙と測りあえるほどに」がある)

芥川「音楽の基礎」は小著だが、簡潔でしかも著者の意志と、作曲家としての実践、それに父から受け継いだ端正な文章、教養が渾然一体となっており素晴らしい。

わたしはブルックナーやマーラーの演奏会をむかしよくFMで聴いた。日本の演奏会、曲が終わるか、終わらないか、というときに、聴衆が「ブラボー」「ウォー(おれらは野蛮人だ~)」とほたえまくる。いつぞや、BSでやったブルックナーの演奏会。残響の多い欧州のある教会でのライブ演奏だったが、終曲後、拍手が起こったのは、何十秒もたってからだった。それも、微弱音で。そも、ブルックナーやマーラーの演奏を全身全霊で聴いた後で、拍手などする気になれるもんだろうか? ニッポンで音楽を味わうには演奏会など行くべきではない、CDを聞くしかないようである。

nycでたまたま武満さんをみかけたことがある。
同僚と昼食をとりに中華料理屋にはいったら、武満さんが2,3人とテーブルを囲んでボソボソ話しておられた。
昼飯時を外した時刻なのでレストランはガラガラ、しかも薄暗かった。
カーネギーホールのそばだったから、演奏会の打ち合わせでもやっていたのだろうか?
特異な風貌である。武満と長いつきあいのあった岩城宏之が、武満を回顧して、
武満さんは、。。そう、宇宙人のような人でしたね、
と言っていた。風貌も、そうだし、発想も、ということだろう。

タケミツがデビューしたとき、ある評論家が「音楽以前」と形容したのは(その批評家はこき下ろしたつもり)有名な話だ。武満としては了解!、だろう。彼の追及したのは音楽以前の音楽だからである。
音楽、とは、人間の耳を前提とする。耳は自然が与えた道具である。しかし、物理的な器官である耳、だけでは音も音楽も聞こえない。人間自身が音楽を聴く耳をこしらえなければ、あらゆる音はノイズにしか過ぎない。それぞれの生物は、それぞれの音、を聴く。音楽を聴く、とは人間の定義でもある。音を聴き、音を創るという営みは、すなわち、日々、人間を再定義しているということである。

死んだいまでも、タケミツは、宇宙から青い地球を眺めているのだろうか。
それとも、バッハやドビッシーと会話を愉しんでいるのだろうか?

                                     

2006/7/29 追記
武満の敬愛した黛敏郎が亡くなり、最近、武満を演奏するために指揮者になったという岩城宏之も亡くなってしまった。
10年前頃、武満徹伝を 月刊誌文学界に連載していた立花隆によれば(NHKの番組=池辺晋一郎のN響アワー)、今年中(没後10年)に連載記事を再編集して、単行本を出版するそうである。わたしは、この連載を図書館で毎月読むのを楽しみにしていた。


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