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検察の岡っ引き根性が国を滅ぼす    Winny問題 [IT]

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NIKKEi 10/8
ウィニー逆転無罪、開発者の責任限定的 違法コピーの課題残る
 ファイル交換ソフト「ウィニー」の開発者を逆転無罪とした8日の大阪高裁判決は、ソフトを使った著作権侵害行為について、開発者がほう助罪に問われる範囲は限定的とする基準を明確に示し、罪の成立を否定した。開発者の創造性に一定の配慮を示したが、ウィニーを使った違法コピーが横行する実態は深刻化しており、著作権者の被害を食い止める有効な対策が急務だ。

 一審・京都地裁の判決は、ほう助罪の成立要件に関して、「ウィニーの現実の利用状況やそれに対する認識、提供する際の主観的態様がどうかということによる」との基準を提示していた。しかし高裁は「現実の利用状況の把握は困難で、主観的意図がネット上に明らかにされる必要があるかどうかもはっきりしない」として、一審の基準は相当ではないと判断した。(19:15)


これが犯罪なら、パソコンやコピー機(偽札製造マシーン)の開発者も犯罪幇助罪、インターネットやケータイは大犯罪、ウインドウズやファイルシステムなど大罪の原因。ビルゲーツは十回くらい死刑だろう。 銀行の、ATMも罪じゃないのか。オレオレ詐欺の温床である。

これを起訴した検察、一審で有罪にした裁判所の判決は論外。ニッポンの司法屋の岡っ引き根性は呆れるばかりである。ソフト開発をビビらせてしまった。

これが米国なら、検察が告訴などせず(たかだか司法取引により)、業界が率先して、ウイニー開発者と彼の仲間に依頼して、セキュリティ機能を備えたコピー違反防止用の仕組みを考案させ、業界標準への道も開けたかも知れない。新たなグローバル商品が生まれ、ネット利用の喚起材料にもなった可能性もある(ユーザには多少面倒な方式となろうが)。抜け道を造るヤツラも当然でてきて、終わるとも知れぬ闘いが始まるが、これはしょーがない。有罪にしたところでコピー+高速伝送機能は時代の要請であり、セキュリティ機能の劣るアングラ商品が出回り、重要な個人情報が市場に垂れ流される事故は頻発する。

検察の能力の差が、開発力の差になる。技術立国を目指すには検察も岡っ引き根性を捨てなければならない。司法の能力=検察官、裁判官の見識~先見の明の有無が、つまり、国力の差になる。 著作権団体も検察の味方をしているようじゃ救えない。自ら墓穴を掘っている。

Winny開発者は一審の有罪判決後、上告し検察と争ったが、一審判決を受け入れて罰金150マン円を払って、仲間や弟子と共に中国や米国に脱出して開発ベンチャーを起こすこともありえたろう。一審判決を見て、開発を自主規制した個人や会社がたくさんいたはずだ。

開発者はどんな人間なんだろう?と思っていたが昨日、判決後のコメントを述べているのをTVのニュースで見た。記憶によれば「これが(違反)幇助ではプログラムの開発など不可能になる、。。有罪より無罪の方がいいので喜んでいる。。」と言った。開発者は己の無罪を喜んでいるのではない。技術開発を阻害する過剰取り締まりを排除しユーザ利便性向上する道を残した判決を喜んでいることはアキラかである。


検察は上告するつもりだろう。 内部にはだれか、これを諫める醒めた人はいないのか。
これは司法だけの問題ではない。





関連記事
iTmedia ニュース
Winny開発者無罪は「意外であり疑問」とACCS
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0910/08/news080.html
ACCSは、Winny開発者の無罪判決について、「意外であり疑問」とするコメントを発表した。
2009年10月08日 16時35分
 P2Pファイル共有ソフト「Winny」の開発者が、大阪高裁の控訴審で逆転無罪判決を受けたことについて、コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)は10月8日、「意外であり疑問」とするコメントを発表した。

 ACCSは、「判決は意外であり疑問を生じますが、詳細な判決内容の確認・検討をしたいと考えます」とコメント。さらに、「今回の判決にかかわらず、被告には社会的・道義的な責任が生じているものと考えます」としている。

 ACCSは一審・京都地裁の有罪判決について、「非常に説得的であり、妥当な結果」とコメントしていた。

 ACCSは従来から、「P2Pはネットの重要な技術の1つ」という立場だが、P2Pファイル共有ソフトについては、「著作権への配慮がないままだと、著作権侵害行為がまん延する」と主張。今後もWinnyなどを通じた著作権侵害行為の対策を続けていくとしている。

次世代に何を残すか   パラダイム・チェンジのとき [IT]

       

 取材に訪れた江川紹子を、自転車にのって駅頭に出迎えたヒルマン市長@独・ミュンスター市

 

ドイツでは電力消費量総量の40%を自然エネルギに変える、という国家目標を立て、環境保護製品を製造するメーカに積極的に財政支援している。

江川紹子が取材に訪れたある農村(ユーンデ村、人口800人)では牛や豚など家畜の排泄物から発電することによりその農村では使用しきれない電力を生産し、余剰を電力会社に販売し、発電所で発生する温水を農家に配り暖房に使用している。電力会社はこの電力を購入することを法律で義務づけられている。民間で生産する電力エネルギのコストは電力会社の製造コストを当然ながら上回るが、かかった経費は法律により、全額が返還されることになる(買い取り期間は20年間が保証されている)。税金で補助、といってもその税金は国民が最終的に払っているのであるから、この制度は(官僚ではなく)ドイツ国民の意思といってよい。 

   

       「俺たちのウンチで発電しとるんじゃけ、エサ、糞発してくれぃや」

 

 

 

ユーンデ村・村長アウグスト・ブランデンブルクさん: 「村は一つの会社である。わたしたちは企業経営の精神でやっている。今の世代のことではない、子供や孫の世代のことを考えているんだ今後太陽光発電や太陽電池の導入も計画している」 村民の出資を募って興した事業、2年目の去年、早くも黒字になり、近いうちに配当も出す。ユーンデ村の事業を支えたのは、事業を提案した地元の大学、政府の支援、それに創業資金を拠出した村民たち。とりわけ、村長の強い意志、イニシアチブである。

 

            

 

太陽エネルギ製品はニッポンメーカの独壇場であり、市場占有率も他国を圧していた。しかし、ドイツは積極的に企業支援を行い、ドイツの代表的な太陽電池メーカであるQ.Cellは数年で日本のシャープを追い抜いて世界一の企業となる。ドイツでは毎年2000人の太陽エネルギ関連技術者を国家予算で養成してビジネスに送り出している。

政府のイニシアチブが市場をリードしなければ環境保全は成立しない、ということは明らかになっている。もちろん、民主主義国であり、経費は最終的に国民の税金でまかなうのだから、国民の意志がなければなにもできない。

 ジャーナリスト江川紹子はドイツの環境保護最先端を行く都市であるミュンスター市を訪れた。駅前で江川昭子を出迎えたのは自転車にのってやってきたヒルマン市長である。市の人口は28万。ドイツ一の自転車の街。登録自転車の台数は40万。徹底した分別ゴミ対策はもとより、住宅の太陽光エネルギ化に要する工事には市からの補助が出る。市はリフォーム相談に応じている。年金生活者も限られた予算で、後の世代のために毎年少しずつ工事を進めている。

IPCC報告によれば2030年には北極の氷はすべて溶けペンギンも白熊も消えてしまう。これはすでに既定事実である。ポイント・オブ・ノー・リターンを既に越えてしまったのだ。強力な環境政策はペイしないか?いま支払っておかないと、将来、一桁フタ桁も多い金をつぎ込まないと元の自然は戻らないのではないか、という計算がある。このまま放置すれば、台風・ハリケーンの規模も強度も拡大し、砂漠化が進み、大雨洪水により農地緑地国土は失われ、産業と社会や家族の破壊にいたり、難民が発生し、世界のあちこちに紛争が起きる。自然破壊から人間の破壊に至る道である。環境問題は安全問題である。これを危機、と予感できるかどうかは集合体としての人間の、感度の問題であり、国家事業、国際間協調事業として取り組むかどうかは、すなわち人間世界の教育と政治の問題である。経済やビジネスの問題ではなく、地球の歴史~人間文明の行く末、の問題であり、人間の技術と欲望が地球を破壊するまでに至ったことの自覚の問題である。地球や人間を滅亡させるのは戦争・核兵器だけではない。

IPCC: 気候変動に関する政府間パネル (Intergovernmental Panel on Climate Change)

 

ニッポンはすでに環境政策後進国、として世界の誰からも相手にされない国になった。いまCO2排出量のもっとも多い国は、米国、中国、インドである(もっとも、一人当たりでは米国がダントツ、インド中国は人口が一桁多いため一人当たり排出量は米国や日本より一桁少ない)。中国は発展途上国として排出量目標額も定められておらず、先進国から環境技術の無料提供を受け、その技術で製品をつくって先進国に売り込む、というシタタカサである。

国民がセッセと支払った年金さえ管理できず、官僚の過失により薬害被害にあった国民に長年謝罪も賠償もしない国、800兆も国家財政赤字があるのにどこ吹く風と、仕事もないのに数百もある独立行政法人に天下りをヤラセ退職金2億円、毎年、税金三兆円をドブに捨てる官僚国家、このような犯罪的行為をチェックもできない国会議員。そういう議員を選出する国民。150年続いた私利私権追求官僚国家の伝統は十年百年で消えることもあるまい。

一国のマネージメントもできない(能力も志もない)輩に<地球のマネージメント>などできるわけがない。

 

さて、ニッポンは何を子供や孫の世代に遺すのかのぅ。オノオノガタ。百歳まで生きる要介護老人達(アタシもその中の一人、ゴメンして)、財政赤字、それに、官僚制(<= 世界遺産登録済み)だけ、というのもサビシイね。

 

追記:

さきほど、ひょいと、TVを見ていたら、マチムラ・カンボー長官が、。。

「。。数値目標をかかげることがそれほど重要か?」


。。。と宣うていた。誰がバカに注射するんだろう?

 

******** 情報源 (画像も)****************************************

正月に放映されたNHKの、地球特派員スペシャル『カーボンチャンス~温暖化が世界経済を変える』

http://www.nhk.or.jp/bs/tokuhain/

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 NASA宇宙研究所HP

http://www.giss.nasa.gov/

研究所の所長ジェームス・ハンセン博士は80年代に地球の温暖化を指摘した。http://www.janjanblog.jp/user/stopglobalwarming/stopglobalwarming/12475.html

 

地球表面の平均温度は14℃である。グラフの横軸は時間(左端が1880年、右端が2000年)、縦が温度。1900年初頭から1900年代半ばにかけて平均地表温度は0.8度上昇し、この状態がしばらく続いたが、1980年から急激に上昇が激しくなった。これは大気中の二酸化炭素濃度が上昇したため、と博士は推測している。このまま気温が上昇を続けると、2100年にはいまより 2.7℃上昇する、という。

 James Hansen

博士は休日を利用して全米で講演し、個人の立場で地球温暖化の危機を訴えている。

                  

 

 

その他関連記事:

http://www.news.janjan.jp/world/0707/0707078546/1.php?action=all&msg_id=29411&msg_article=68548

(以後見つけたら、その都度追加していきます)

 

 

環境戦略を伝えるドイツ連邦共和国HP:

http://www.german-consulate.or.jp/jp/umwelt/politik/index.html

↑内容を読むと、ほれぼれするような記述。ドイツの環境への取り組みが何十年も前から始まっていることがわかる。ドイツが、この十年世界で唯一CO2排出量を減少させている国であるのも頷ける。

『ドイツの基本戦略』のページを引用する:

##

ドイツの戦略
ドイツの環境保護の歴史と3つのファクター
環境保護の目的
1994年ドイツ政府は国民に対し極めて重大な約束をしました。それは国が「次世代のために自然を守る責任がある」ことをドイツ基本法(日本の憲法に相当)第20条aに加え、保証したことです。国民にとって非常に重要なこの条項は、その後のドイツ環境保護政策の方向性を明示したといっても過言ではありません。

ドイツがいわゆる「環境先進国」と言われることにもなった最近の廃棄物処理をはじめとした自然・景観保護、気候変動防止、水質保全、土壌保全、大気汚染防止、危険防止、騒音防止、放射線の分野における環境関連法の制定は、環境保護の真の目的である「自然はもとより、人間や生き物の生活基盤を守り、地球環境を守り次世代につなげる」ための手法なのです。


「持続可能な発展」-ドイツの対応
ドイツは世界的に見てもハイレベルな環境保護政策を実行しています。その契機となったのは、まず1969年から1970年にかけてルール工業地帯で発生したばい煙による大気汚染でした。当時のブラント政権は選挙用スローガンの「ルールに青空を」を推進、これを機に環境保護運動が国内に広がりました。ドイツ連邦政府は1970年に動植物の生態を守ることを決めた「環境保護計画」を発表しました。この「環境保護計画」では、第一に健康で人間らしい生活をするために環境を守る、第二に大気・土壌・水質・動植物の生態系を人間の乱獲から守る、そして第三に人間の乱獲による破壊や損失を排除するということが謳われています。

次に、1972年にストックホルムで開催された国連環境会議でローマクラブ編纂の「成長の限界」が発表されてから環境に対する意識は変わりました。世界の人口は増加の一途をたどり、環境は汚染され天然資源が減少するという状況下では、今後100年以内に地球上の経済成長が限界に達する、と予測したローマクラブの報告は、少なからず欧州の政治家や市民、そして経営者に衝撃を与えました。それに加えて、深刻な大気汚染が国内で報告されはじめたことも国民の意識を環境保護、及びエコロジー的な生活基盤の形成へ向かわせました。しかし、当時はまだエコロジーはエコノミーの対極に位置して、むしろ経済成長にブレーキをかける“やっかいもの”という認識が強く残っていました。

一方的な自然収奪を繰り返す経済活動ばかりでなく、その経済活動の中に環境保護を組み込んでいく、いわゆる「エコロジーとエコノミーの共生」が可能であることに人間が気付くまでに20年ほどの歳月を要しました。私たちには、今、天然資源の利用を最小限にとどめながら、環境汚染を低減していくことが求められています。

20年後の1992年にそうした内容を「持続可能な発展」という言葉で表し、リオデジャネイロで開催された国連環境開発会議の共同宣言として発表しました。これは各国がその促進に共同責任を持つという世界に対する政治的なアピールでした。

これを受けてドイツ連邦政府は1970年初頭以降、主要な環境保護分野の9項目において徐々に進めてきた環境保護の法体系をさらに整備・強化しました。
  1. 大気汚染防止(二酸化硫黄・窒素酸化物排出)
  2. 地球気候変動の防止(CO2効果ガス)、オゾン層の保護
  3. 危険防止(危険物質からの保護、設備の安全確保)
  4. 廃棄物処理と物質循環 (廃棄物の発生回避・リサイクル、環境適正処理、廃棄物の越境処理)
  5. 土壌保全と既存負荷の除去
  6. 河川と海洋保護(水域保全の基本、地上の水域、地下水、河川氾濫防止、海洋保全)
  7. 自然保護、景観保護、森林保護
  8. 騒音対策
  9. 原子力安全・放射線保護、放射性物質の供給と処理 (核の安全性、放射線防護、放射性廃棄物の処理)
この9項目における環境保護を経済、エネルギー供給、農林、漁業、運輸などの分野で実施して、「持続可能な発展」が促進されるのです。


重要な3つのファクター
「持続可能な発展」を実現させるためには、エコロジーに配慮した社会システムの構築と適度な経済成長、そして充実した社会保障システムに基づく社会の安定化という三本柱の調和が重要なファクターとなります。

現代社会は経済的基盤がなければ成り立たないのはもちろんですが、今は経済活動のあり方が問われているのです。産業界は環境保全を企業の経営に取り入れるいわゆる“環境経営”を実践して、経済成長と環境保護をリンクさせ、さらに地球環境を守る技術や手法を提供します。国は法規制でそれを誘導し、消費者は環境行動でサポートします。経済活動は、もう一つの要素である社会の安定化にも大きく寄与しています。社会の安定化には医療・介護保険の整備、年金制度の確立と資金の確保、雇用の確保など社会保障制度の充実に加え、犯罪の防止など多くの要因があります。現代社会が安定し、成熟していかなければエコロジーへの対応どころではなくなり、経済成長最優先型の社会構造から脱却できません。地球温暖化で先進国と途上国の間で論争になるのはまさにこの点です。今まで20%の人口を占める工業国が地球の資源の80%を利用して得られた繁栄を、今度は途上国が同じように追求するのも当然なことかもしれません。解決策を見つけるのは容易ではありませんが、途上国への環境保全のための資金援助とともに、環境技術・機器の提供も問題解決に有効です。

この三つの要素のどれが欠けても、持続可能な発展は実現しないため、それぞれを巧みに誘導しなければなりません。ここで明らかなように、ドイツの環境政策の目的は、厳しい法規制によって企業に環境保全への対応を迫り、ドイツ独特の社会的市場経済の中でエコロジーとエコノミー、それに社会の安定化を一体化させることです。経済活動のすべての段階に、環境保護の考え方が取り入れられていることがその特徴です。このようなプロセスを経て「持続可能な発展」が段階的に実現します。
##

 

借金時計@ニッポン

http://www.takarabe-hrj.co.jp/clock.htm


『ウェブ社会をどう生きるか』 西垣通  現代はウェブ社会か? [IT]

                                   

 

 

本書の内容。

第一章 そもそも情報は伝わらない

第二章 いまウェブで何がおきているか

第三章 英語の情報がグローバルに動く

第四章 生きる意味を検索できるか

第五章 ウェブ社会で格差をなくすには

私は著者と同じ団塊世代である。IT本でまともなものをいまだに読んだことがないのだが、この本にもハッとさせられる記述はなかった。

そもそも、情報という言葉をつきつめて考えていない。情報という日本語(何語であれ)は必要なのだろうか、と問い、他の言葉(データ、信号、知識などで)で十分間に合う、と坂本賢三(科学史家)は30年前に述べていたが、いまだに(あるいは、ますます)この言葉は有効であろう。新聞を開けば何万語、何十万語の語が眼にはいる。TVからはニュースを朗読するアナウンサの嬌声が聞こえ、阿鼻叫喚の画像が眼にとびこむ。パソコンを開けば時々刻々最新ニュースが更新されている。ニューヨークタイムズを開けば世界の話題とNYCのローカルニュースが読め、日本の地方紙を開けば田舎の状況が分かり、Google Mapを開いて地名を打ち込めば立体地図が見え、あたかもクルマで旅行したような気分も味わえる。検索サービスを使えばレポータの書き込んだ記事がゴマンと読める。SNSを検索すれば記事に関する素人の感想もいやと言うほど読める。

 

いったいこれが、なんだろうか?どのように私の生活を豊かにするのだろうか?

 

著者西垣通は、本書を通じてウェブ2.0 (一般利用者参加・発信型の情報サービス)を疑問視しているようである。結論部分は第五章168~169ページの記述で要約できよう。少し長いが引用する。

「米国から到来したウェブ2.0によって、IT革命は明らかに新たな局面をむかえつつあります。

調書をいえば、ウェブ2.0は確かに一般ユーザがウェブ上での活動に参加する道をひらきました。生産消費活動への一般人の参加がIT革命の眼目とすれば、大きな一歩といえるかもしれません。しかし、これが直ちに皆でつくりあげる集合知を可能にし、民主的で平等な社会のベースとなる、というウェブ礼賛論には首をかしげる点が多々みうけられます。むしろウェブ情報検索が人々の思考能力を衰退させ、一過性的な主張に人々を同調させてしまう恐れもあることはすでに述べたとおりです。

。。。声高に語られるウェブ礼賛論のなかには、善意や平等主義というキャッチフレーズとはうらはらに、実は多様な次元で社会的格差をひろげる危険がひそんでいると考えられるのです。

まず言えるのは、中高年を押しのけようという排除意識・年齢差別意識です。「もはやゲイツ時代の世代は終わった、これからはペイジ/ブリン(Google創設者)世代の時代なんだ」とか「40代くらいになると経験をつむ分、保守的になり、新しいものを否定しがちになる。大事なのは若さと勢いなんだ」といった声が威勢よくひびいてきます(たとえば、梅田望夫『ウェブ進化論』)。

これは元気のない日本の若者へのエールととることもできるかもしれません。今や、フリータトニーととか言われる若者たちが街にあふれています。自信をうしなった彼らがもっているのは「若さ」ですから、ウェブ礼賛論が訴えかけるのは当然でしょう。「一緒にエスタブリッシュメントを倒せ」というわけです。

しかし、率直に言って、この呼びかけは欺瞞です。

なぜなら、ウェブ礼賛論を説く人々のほとんどは、一流大学を出ていたり、英語が堪能だったりする「エリート」だからです。受験競争を勝ち抜いてきた彼らは、カジュアルな服装をしていても心の底ではエリート意識が強く、「おちこぼれてきた普通の若者」など相手にするつもりもありません。そこにあるのは能力差別意識です。

Google社の創業者であるラリー・ペイジやセルゲイ・ブリンはともに名門スタンフォード大学大学院計算機科学科の出身ですし、GoogleはBest and Brightest を尊重する会社です。つまり優秀な精鋭で固めようというわけです。こういうエリート志向はGoogleのみならず、ウェブ2.0関連の米国企業に共通しています。そして日本のウェブ礼賛論者たちの本音は、距離を得ている彼らのお仲間に入れてもらうこと、できればお裾分けにあずかることではないのでしょうか。

つまり、ウェブ礼賛論者たちは、中高年を排除するだけでなく、普通の若者たちを煽り立てながらも、裏では秘かに、新たなアメリカ流の格差を日本社会に持ち込もうとしているわけです。その議論からは純粋な幼さも感じられますが、隠された意図は、中高年のかわりに自分たちが権力を握ることだという気がしてなりません。

端的にいうと、ウェブ礼賛論の中身は(一部の技術的議論をのぞけば)まったく、古臭いものです。

情報や知識のとらえ方も時代遅れの印象を受けますが、とりわけ目につくのは、あまりに米国追従の価値観なのです。成熟や洗練よりも若さと変化を重んじ、アグレッシブに挑戦し、私有財産の拡大につながる実戦活動にいそしむ、というのは、昔ながらの米国フロンティア精神の一側面そのものと言ってよいでしょう。フロンティア精神にもとづく自由競争にもいいところはあるにせよ、それは「手つかずの財貨」を分け合う「分配問題」の場合であって、ゼロサムの「再割り当て問題」においては残酷な悲劇をうむ、というのはすでに第三章でのべたとおりです」 (以下略)

著者はさらにつづいて、このような志向の基盤をなすのは「古典的な進歩主義」であり、この進歩主義はいまやおそろしい自然破壊をもたらしている、とし、

「。。だからこそ、現在われわれは、人間が生態系のなかで共依存的に生きている存在であることを踏まえ、「情報」という概念を根本からとらえ直さなければならないのです。」

本書の末尾で、

「。。。と、述べながら、私の胸のなかには、ズキンとうずくものがあります。」と、本音を吐き出したあと、

「なぜなら、日本に古典的進歩主義を導入することに熱心だったのは、まさに私たち団塊世代だからです。

第二次世界大戦直後に生まれた団塊世代は、焦土と化した日本を立て直していく時期に成長しました。敗戦の反省もあって、私たちは古い日本を否定してきました。地縁血縁の共同体のくびきを裁ち切り、自立した近代的個人として、旧来の伝統を打破し、科学技術を振興して、新しい日本を築こうとしたわけです。私自身、コンピュータ研究者の道を選びました。そのとき、目標として燦然と輝いていたのは戦勝国アメリカだったのです。

したがって楽天的なウェブ礼賛論の主張を理解できないわけではありません。いや、わかりすぎて困るほどなのです。

だからこそ、ここでウェブ礼賛論に迎合してはならない、せっかくの情報検索技術を濫用してはならない、日本が迷い道へ入り込まないように声をあげなくてはならない、という気持ちが私のなかにあります。

いったい夢をもてる活路はどこにあるのでしょうか」

。。と問いかけて本書を締めている。

同世代の読者としてはいささかホロ苦い末尾であると同時に、拍子抜け、でもある。だいたいこの著者の嘆きはヨッポドの楽観論者でないかぎり、共有しているのではないか?「。。だからこそ、現在われわれは、人間が生態系のなかで共依存的に生きている存在であることを踏まえ、「情報」という概念を根本からとらえ直さなければならないのです。」「いったい夢をもてる活路はどこにあるのでしょうか」 この嘆きを結論ではなく、前提にしたうえで、さて、ウェブ社会とどう付き合うか、を述べる決意がないと、『ウェブ社会をどう生きるか』を書く意味がないのではないか?そこでは、著者は情報技術研究者ではなく、特定の価値観を選択した社会学者、政治学者として発言せざるを得なくなる。あるいは、社会活動家、政治家たらざるを得なくなる。

本書の第四章で述べているように二〇世紀半ばにベル研の若い技術者クロード・シャノンはベル研の技術誌 The Bell System Technical Journal (1948) に、A Mathematical Theory of Communication を発表した。西垣は情報理論というものを提案した、といっているが、これは正確には通信理論である。(この論文は和訳出版されておりそのタイトルは『通信の数学的理論』だ)。シャノンは、いま話題にしている、情報、には一切触れていない。 当時、シャノンが直面したのは電話網(当時通信網といえば電話網しかなかった、といってよい)を通して信号を流し、送信した信号を受信側でそのまま再生するにはどういう条件が必要か、を示したのである。帯域幅と信号対雑音比(S/N)が所与であり、源信号の帯域幅がFであれば、源信号を2Fの速度でサンプリングすれば、受信側で正確に再生できる、というのである。当時、データ伝送や検索サービスが日本でも盛んになりはじめたころであり、雑音の多い、電話網を通してどの程度の速度までデータを伝送できるか、その上限を理論的に示したともいえる。これは我々通信技術者にとってはひとつのおおきな宝である。。で、いいたいのは、シャノンは西垣等が話題にしたい、情報、には一切かかわっていないことだ。研究対象を物理的な電気信号の伝達、再生理論にしぼっているのだ。伝送の対象である意味内容(ケネディが狙撃されて死んだ、とか、ウォール街で大暴落が発生した、金鉱でストライキが発生したとか)と、かかわりない地点にシャノンは立っていた。これはひとつの希望ではないか。

著者は、情報は本当に伝わるのか、と問うているが、まず、

あなたにとって、情報とは何か?なにを必要としているのか?を尋ねるべきだろう。いや、それがわからないから、パソコンを開いているのだ、という人もいよう。そういうひとには、パソコンを開くのではなく、閉じなさい、というべきである。著者は第一章で「そもそも情報は伝わらない」、と述べている。事実は情報は伝わらない、のではなく、情報といわれているものの大部分は誰にも必要ないのである。ある個人にとって必要な情報は存在しないかほんのわずか、である。ある個人にとって必要な情報は他人にとっては情報ではなくナッシング、である。無、なのだ。だいいち、情報産業に属している人間たちが日々どれだけの情報を必要としているだろうか?運輸業者が必要な情報は単純化して言えば、貨物の宛先、道路標識、交通信号、地図情報だけでよい。政治学者が論文を書くのに必要なのは細分化された専門分野の他人が書いた諸論文であり、その諸論文をある学者は蚕が桑の葉を食べるように喰う。喰って思考し、その結果を論文として吐き出す。われわれは必要あればその成果物だけを味わえばよい。情報産業界でいわゆる<情報>と称されるものなぞ、なくてもやっていける、ということを西垣など情報学の専門家は教えなければならない。  ウェブ社会をどう生きるか、というのが書名であるが、ウェブ社会といえるものは存在しているのだろうか?存在していたとしても、それは社会全体のなかの狭い領域を締めている存在にしか過ぎず、新聞やTVなしでも生活に困らないと同様にあるいはそれ以上に無くてすむものである。

 

J.Lipnack & J.Stamps "Networking" が出版されたのは1982年(和訳は1984年『ネットワーキング』プレジデント社)のことである。これは米国内の草の根ネットワーキングの活動について書いた本である。ネットワーキングといえばまだ電話と郵便の時代であった。インターネットが草の根レベルで普及するのは1990年代のことだ。その時代、および、それ以前、新聞・雑誌などの刊行物をのぞけば、人間と人間が交換するのが情報のすべてであり、交換されるはメッセージであった。この時代のネットワーキングは規模が自動的に押さえられていたはずである。インターネットの時代になり、地域性(地理的な)とその規模に制約はなくなった。しかし無制限に拡大すれば地域SNSは機能しなくなることも自明、これをどのようにコントロールするかが次の問題となる。著者が最終章に紹介している、暗黙知、とか地域ネットワーク、地域プラットフォームなどの規模の限度と運用の原則を知りたい。

  

 リップスナック+スタンプス著 『ネットワーキング』

 

情報を速く、大量に得られることはそれほどよいことか?

明治の民権家・河野広中が東京を発って、土佐の立志社に向けて旅立った。立志社への加入を要請しに。結局、受け入れられず無念の帰途についたのだが。大阪経由で東京に戻るまで要する旅、片道に要した日数は約4ヶ月である。河野は四国に渡る船旅を除いて、すべて歩いたわけだ。いまなら無理をすれば日帰りも可能だろう。もちろん、江戸以前、それから明治のある時期まですべての旅行者は馬、か歩きだった。情報を得るだけ、交換するだけならネット経由でクリック数発で得られる現在の方が、効率はウン億倍になるはずだ。しかし歩きながら世間をこの眼で観察し、何千人のニッポンジンに触れ、東西裏表の生活を知ることは無駄ではなかったろう。情報への関心、高い効率は、人間への無関心により保証されている。ネットから得られる情報とは特定の偏見により整理・加工されたものである。整理加工しなければネットにはのらないし、検索にも掛からない。

ウェブ社会の中は狭い、外は広い。クロード・シャノンが今生きていればウェブ社会などに全く関心を示さないだろう。その昔(70年頃?)、反=人工知能学者でハイデガー研究者のヒュバート・ドレイファス教授が『コンピュータに何ができないか』を著し人工知能の権威ミンスキーなどに毒づいたが、西垣氏も『ウェブに何ができないか』という書名でウェブの限界を示せばよかった。そうでなければ、Webのハウツー本を書いてもらったほうが読者にはありがたい。

著者は「情報学的転回 informatic turn??」をしきりに口にするが、情報とはいまだに確たる概念をもっていない(in=form~おのれを形作るモノ、はすべて情報。。)、と私には見える。つまり、言語ほど社会に認知されていない、ウェブ社会は言語社会から一歩も抜け出ていない。すなわち<ウェブ社会>なんてものは、ない。


脱マイクロソフト、脱ウインドウズ。  Vista from Microsoft [IT]

                                

Vistaが間もなく発売。
発売後、2年経過すると、ふるいOSはサポートしないだと。

ならば、さっさと、サポートを別会社に委ねよ。
1年前にPCを買った客にどうしろというのか?

NHKで実験したところ、現在のパソコンでVistaに入れ替えは不可能。ハードウェア性能不足で動作しない、ディスクの追加が必要。ディスクを追加しても、グラフィカルを多用する新OSは動きが悪く、使用に耐えまい。
Vistaに換える、ということは、今使っているPCハードウェアを捨てろ、ということだ。

ふざけている。

そこで、NHKがこの問題をMSに突きつけると、MSは慌ててサポート期間2年を5年に延期したという。まさに朝令暮改。エエ加減な会社やで。。

独占の横暴、弊害、キハマレリ。

脱Microsoftを世界中のユーザは考えよう。バグだらけの半製品を販売して、バグ修正版をネットワーク経由で定期的にダウンロードする作業をユーザに委ね、やっと安定したとおもったら新製品をしかも、PCハードウェア込みで買わせるなどというのはトンデモない発想である(XPを動作させているハードウェアはビスタには使えない。動作すれば奇跡である)。MS頼みで一攫千金をねらっている企業群、開発者、ギョーカイ人がニッポンにも多いこと、嘆かわしい限りである。

家電(洗濯機など)もメーカは6年以上部品を供給できる体制におくことは常識である。
パソコンのハードウェアはかなり丈夫。ディスクを追加するだけデカなりの処理はできる顧客は多い。
マイクロソフトだけでなく、買い替え、バージョンアップで金儲けを図るソフトウェア企業の多いこと。

##

Linuxへの切換を考えた方がいいのじゃないか?
ハードウェアが軽くて済む。経費も安い。
賢いGoogleはすべて、Linuxで動いているという。

消費者を馬鹿にするでない。
チャンと動くPCハードウェアを捨てさせるのか?

誰のための、アイティー、IT、なのか? 
クルマならば、新モデルを出したから旧モデルの部品はあと二年しかサポートしません、なんて馬鹿は通用しない。10年以上前の中古車だって、メーカからリコールの案内が来る。
あるいは、ユーザが商売用に、自転車やオートバイで十分間に合うのに、メーカがワゴン車や大型高級車を新発売したからといって、もうオートバイや自転車の部品は製造しない、と言いだし、無理矢理、必要もないのに新車を買わせようとする愚をやろうとしているのである。

パソだけこういう商売を許している、ということは、ヤクザ会社としてしか認知されていない、ということを知るがよい。各国政府はこういう未熟で横暴な製造会社に商道徳を一から教育し、しっかりと取り締まってもらいたいものである。こういう商売を10年も20年も50年も。。永久に続けるつもりか?

脱マイクロソフト。脱ウインドウズ。今年の合い言葉である。
2007年はその元年である。


見かけこそ本質  情報論 [IT]

1969年秋、梅棹忠夫は神戸で講演を行った。情報産業と神戸の未来について。
『ミナト神戸と運命 - 都市と情報』

著作集14巻、に収録。p331-338。 そのなかに、
   見かけこそ本質
という小さな節がある。 (実は、著作集をバラバラめくっていて、この 一句に惹かれて、この講演を読み始めた)

『現代では、すべての産業における情報価値がたいへんおおきくなりつつあります。すべての工業製品のなかで、情報が価値をうんでいる部分がおおきくなっている。まもなく もの そのもの、物質の価値よりも情報価値のほうが経済の主力をしめるようになるでしょう。

。。。

。。自動車産業をかんがえても、もはや現代ではデザインをぬきにして自動車はかんがえられない。。。自動車は、移動のための道具として買うというところから、いまでは感覚情報を買うまでになっている。

。。

ファッションのさかんなイタリアでは「見かけこそ本質」ということばがあります。これこそ物質とエネルギーの時代の技術主義から、情報主義への転換をいいあらわしていることばです』

今ではあたりまえのことでどうと言うこともない発言だ。
このころ、わたしは、といえば、学校はストの最中、セッセとマルクス資本論などを分からぬママ読んでいた。梅棹はマルクスの労働価値説は古い、と採用しない。わたしも労働価値説は古いとは思うが、多少修正すればまだ使えると考えている。それはともかく、
       見かけこそは本質
という一句は考えさせる。マルクスも資本論の冒頭、有名な商品の記述から始めている。現代世界を記述するにあたり何をもって、記述を始めるか?いま自分の周囲を見渡してみよう。パソコン、エンペツ、定規、CD、机、Tシャツ、ズボン、ビキニパンツ、ケータイ、封筒、筆立て、鉄アレイ、鋏、ブックエンド、ボンド、風邪薬、バッファリン、オロナイン軟膏、fax、時計、本箱、鞄、象印ポット、ポストイット、電池、万年筆、筆入れ、皿、コップ、カーペット、焼酎、日本酒、ビデヨ、爪切り、耳垢取り、ラジヲ、ホチキス、沖縄土産のシーサー、本本本。。。すべて眼があれば犬や猫でも見ることができる形あるもの、物体である。しかし、これらを穴の開くほど、みつめて「商品」という特性=属性を、資本の運動のとっかかりとして発見したのはマルクスの眼力である。 見かけ、こそ、本質、とはいうが、若干の反省がなければ 商品、という認識はできない。これは 発見、といってよい。 見かけ、も 反省がなければ、売れる 見かけにはならない。 そして 反省こそが ほかならぬ人間のアルバイト=人間労働である。(人間の歴史とは、みえなかったものが見えてくること、かつて見えていたものが見えなくなることの繰り返しだ)

商品から始まり、商品に帰る。

見かけが重要というのは、別にマルクスや梅棹や現象学派の専売特許ではない。古代ギリシャやインドの哲人も述べていたことだ。

色即是空
空即是色
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm

形ある物は形無し。
 しかして
形なきもの、形をナス

重要なのは空即是色のほうである。これが情報論の本質だ。

in=form とは、形、をナス
in=formation とは 形をなすもの、そのはたらきのことだ。

形をなすとは、人間の外部になにかを作るのではない、人間のココロに形象を誘起するのである。情報とはものではなく、<誘起>するはたらきあるいは過程である。

追記:
坂本賢三は、1980年頃の科学技術にカンする著書のなかで
「情報」
というコトバは概念としてあいまいすぎる、必要のないボキャだ、と言っていた。たとえば、信号、通報、記事、ニュース、画像など他のことばで代用が効くというのである。たしかに使いすぎる言葉ではある。意味内容、となると使う人の数ほどある、といってよい。

追記2:
この講演を梅棹はこう締めている:
『。。。コウベ・モードが世界を制覇することも夢ではありますまい。しかし、そのためには、むしろ日本をすてて、ほんとうの国際都市になるくらいの気概が必要でしょう。それが国際港都としての神戸の面目だとおもいます』


集合知  正しさや賢明さは存在するのか? The Wisdom of Crowds [IT]

今朝の朝日新聞書評。柄谷行人書評委員は
The Wisdom of Crowds by James Surowlecki 
Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business,Economies, Societies and Nations
ジェームズ・スロウィッキー著「「みんなの意見」は案外正しい」(角川書店)
を取り上げている。

わたしは、未読であるがこの書評だけから「妄想」を繰り広げてみたい。

柄谷によれば本書の主題は、群衆の知恵は専門家の知恵よりマシだ、ということらしい。
あるいは、ましな場合もある、ということらしい。「個々の専門家よりも群衆のほうが知力・判断力において優越する場合がある、ということは衝撃的な発見である」と、柄谷は驚いている。
(日本人なら誰も驚かないが、柄谷は、NY大学客員教授。日本の事情をよく知らないのでせう<-古井戸)

「集団が賢明な判断をくだすためには、いくつかの条件がいる。それは、集団の成員が、多様性、独立性、分散性をもつことである。さらに、多様な意見を集約するリーダーシップが不可欠である。そして、実はこれらの要件を満たすことは容易ではない」

なぜ、容易でないか?これは論理的に容易でない、のではなく、職業として、正義と公正が求められるリーダーシップが現実に存在し(うる条件が)ない、ということではないか。すなわち、論理ではないく実践的な条件が整っていない、ということ。しかし、現実に容易でない、のなら、なぜ、その条件がそろったばあいに 集合知(collective wisdom/intelligence) が単独の賢人の判断より、ましになる、と言えるのだろうか?いいかえれば、「その条件をいかに揃えるか?」という問題に、「正しい判断をいかに得るという問題」は還元されるのではないか?ということじゃないか?

しかし、そんな問題ではあるまい。
米アマゾンから引用。出版社の案内文だ。

まず、現状:
While our culture generally trusts experts and distrusts the wisdom of the masses, New Yorker business columnist Surowiecki argues that "under the right circumstances, groups are remarkably intelligent, and are often smarter than the smartest people in them."

世間では専門家を信用し、大衆の知恵を馬鹿にする。だけども、ニューヨーカー誌のコラムニストである著者は、言う「条件さえ整えば、グループは素晴らしく賢くなり、そのグループのなかの飛びきり切れるヤツらより、切れる、ことが多いのだ」
わたしのようにケチをつけることを喜びとする人間は、ここで ほら見ろ!と叫ぶ。
 ある条件さえ整えば!だとお!!!
 often だとお!!
これじゃ、ディベートやるだけ損だな。
だから言ったでしょ? 条件さえ整えば、って。
 だからあ、すべての場合そうだ、って言ってないでしょ? オッフン、というたでしょ!

To support this almost counterintuitive proposition, Surowiecki explores problems involving cognition (we're all trying to identify a correct answer), coordination (we need to synchronize our individual activities with others) and cooperation (we have to act together despite our self-interest).
1 判定問題: どうやって「正しい」と判定するのか?
2 合意: 複数の人間がどうやって、一致に達するか。合意問題。
3 協力: 価値多様化のなかでどうやって他人と協力行動がとれるか。

難問、オンパレードである。

His rubric, then, covers a range of problems, including driving in traffic, competing on TV game shows, maximizing stock market performance, voting for political candidates, navigating busy sidewalks, tracking SARS and designing Internet search engines like Google. If four basic conditions are met, a crowd's "collective intelligence" will produce better outcomes than a small group of experts, Surowiecki says, even if members of the crowd don't know all the facts or choose, individually, to act irrationally.

"Wise crowds" need (1) diversity of opinion; (2) independence of members from one another; (3) decentralization; and (4) a good method for aggregating opinions.
賢い大衆とは次の条件を要す:
1 意見の多様性
2 メンバの独立(支配、被支配の関係にない)
3 メンバが分散している(2とどうちがう?地理的分散じゃないだろう?価値感の分散か?)
4 意見結集にいたる良い方法

なんだかね。。ムズイことばかり言うとる。(問題そのものより、この条件のほうがはるかに、ムズかったり。つまり、著者はまじめに突き詰めていないね)。

柄谷:
「集団の中で討議すると、個々人は賢くなるだろうが、討議を重ねるほどに、皆が同じ意見をもつようになる。そして、多様性、分散性、独立性が失われ、いわゆる「群集心理」に陥ってしまう。ゆえに、群衆がいつも賢いというわけではない。一定の状態にある群衆が賢いのである」

大変な割り切りようである。数学の問題や物理の問題なら(数学者にも容易に溶けない超難問は別にして)回答は決まっている。この書評でも例示しているが、目の前にいる牛の重さ、を素人800人に予測させ、その平均が 専門家の重量予測より真の値に近かった!など、実にくだらない。こんな問題は、「秤に牛を載せれば」一発で回答が得られるのである。では、なにが、「問題」か?それは、現実に解決すべき問題の性質をあまりに単純に扱っているからである。

そもそも、多様性、分散性、独立性などは統計用語であり、市民のいかなる属性をもって多様性、分散性、独立性を認定、制御できるというのだろうか?市民、とは時々刻々変わっていくものなのだ(まさか、身長体重、のことを行っているのではあるまい?)。討論や学習によりコロリ、と態度も変わるだろう。もともと、民主主義とは、「複雑で多様な個人同士を、ひとつの、正しい決定に、統合」することを、目的とするのではなく、「意見や存在」の統合は不可能、と放棄した上での、意志決定方法、なのである。個人問題ならともかく、公共問題において「正しさ」「賢明さ」とは程度問題である。

・イラクに攻め入るのは正しいか
・建築審査を民営化するのは正しいか
・株式分割を許容するのは正しいか
・天下りを認めるのは正しいか
・郵便制度を民営化すべきか
・米軍の沖縄基地をグアムに移転するに当たって、グアムの米軍施設住宅建設費用の8割を日本が支払うべきか。

こういう問題に対して、回答を与えようとするとき、専門家(テクノクラート、官僚、学者)らの意見は「正しいか」あるいは「賢明か」ということだ。つまり、知識(いかなる?)と、実践は容易に結びつくのか、ということだ。(むろん、そうではない、という事例の宝庫である、我がニッポンは)。

正しさ、とか、賢明さ、とかは情報が十分公開され、その上で目的と価値を定めれば、ある程度、の範囲に回答は絞られるのではないか。正しさ(賢明さ)の条件が未定なのでは、ある回答に対して、採点できない、ということである。しかも、現実に抱える問題は、正しさ(めざすべきもの)が異なるのであり、しかも、正しさを求める過程(思考、討論)で正しさの定義自体も刻々変わる可能性もある、という不確定性が存在する。すなわち、意志決定は多少不正確あるいは判断材料やデータが不足した状況でも、事前になされなければならない、のだ。あとから、あの戦争は誤っていた、ではすまないのである。つまり、我々が日常的に遭遇する「正しさ」や「賢明さ」などは歴史の彼岸にあるのである、あるいは、時間とともに変化するものとしてしか存在しない(物理や数学など正しさが、ヒジョーに長期に渉って不変の問題とは異なる)。しかし、これは悲観することではなく、そういう不確かさを、受け入れるための心構え、とメカニズムを個人やクニが、用意しておけばよいダケの話である。(意志決定におけるセーフチネット、といってもよかろう。デモクラシ、とは人類が生み出したセーフチネットのひとつ、である。つまり、過程、による失敗の補償)。

群衆なり専門家なりが、賢くあるための一定の状態とは何か、という問いと共に
「賢さ」や「正義」などは、定義できない、あるいは、不確かである、という諦めも必要であり、しかし、これは怠惰なのではなく、これが人間の集団における意志決定のありようだ、と悟ることが重要とおもう。民主主義、とは、かりに不確かな情報と知識によって行った集団の決定が誤っていても、その結果は集団で責任をとる、泣き言を言わぬ、ということであり、なぜ誤ったかを、記録し、次の決定に過ちを減ずるという過程である。この過程を誰もが正当化しうる条件は何か、を詰めた方が実践問題(政治問題)としては遙かに有益であろう。

「だから、本書の言い分は、見かけほど奇抜ではない。ただ、実行するのが難かしいだけである」と柄谷はしめているが、「難しくしているのは誰か」、「難しさを排除するための条件は何か」を考えれれば答えは見えてくる。歴史的には、階級間の対立や大小の戦争や革命、維新がなければ「問題解決」の大きな前進をなしえなかった、というのは事実である。

柄谷が「原理」運動を主導し、ローカル通貨を起こし、かつ運動に失敗(成功?)した経験を公表してくれれば、いささかでもこの問題の解明に寄与するのではないか?失敗を脳髄に、学習によって反復して刻み込まなければ人間は何度でも同じ過ちを繰り返すのだ。すなわち、人間のソフトウエアは自動的に進化するメカニズムを内蔵していないのだ。

民主主義的手法あるいは代議的手法(専門家、官僚、テクノクラートに決定をゆだねる、という方法もその一つ)は、退屈であるが、いまだにベストな方法であるとおもう。

近代が始まって、200年。
基地移設反対、の住民投票をおこなったら90%弱が反対であるのに、コッカの決定であるとして、無理矢理基地をもってこられ、他国のインフラ整備に1兆円弱を出せ!と恫喝され、一蹴できずに、せめて半額に負けてね~と大股開いて寝技に持ち込むようでは、ニッポンの民主化は遠いね。そういうクニ、で、Wisdom of Crowdsもなにもあったもんじゃない、。。と投げてはならんのだが。

なお、米国アマゾンでは、100人の読者評がついている。この読者評を点検したほうが、柄谷書評やあたくしの愚見などを読むよりは10倍増し、か。

すでに論じた、グーグルによる集合知(Web進化論)と関連づけるというサイトもちらほら。私見では「賢明さ」「正しさ」をグーグルから求めるのは簡単ではない、と。

今後のために、問題を整理しておこう。
1 価値を共有しない多数の人間が 専門家(この、定義も曖昧だ)より優れた意見を出すにはどうすればいいか、という条件を提出した。 その条件で、すべてか?あるいはその条件は「正しいか」はどうやって検証するのか? それは、問題が正しく解決されたことによって!では堂々巡りである。
2 現実問題として、国家、地方政府、企業、その他の団体では (代表制)民主主義、というものが(当面)根付いている。この意志決定制度をむししていいことにはなるまい。著者の提案はこの制度とどう、交わるのか?
3 集合知、なるものは抽象概念じゃなく、現実的にどのようなものか?株主の集合が、株価を決めるようなもの!?
4 解こうとしている問題は相当な難問であることが第一。しかも、その解答が正しいか、そうでないかは、相当後(たとえが、3,4年)にならなければ、判然としない(あるいは永遠に判然としない)、という条件で、当面の回答を出すと言うことをお忘れ無く。(大学の入試問題などとわけがちがうのだ)。たとえば、安保をどうするか、郵政民営化をどうするか、と言うような問題を、どう解くか。あるいは、日本でも迫っている裁判の陪審員制度がうまく機能するか、と言うような問題(宮台真司、は陪審反対というている)。
5 集合知、を得るために、グーグルなど、ほとんど、何の役にも立たないことがこれでわかるだろう。我々の問題、というのは、過去に例のない問題だから問題たり得るのである。
 
##
Dear Mr. James Surowlecki

Are you a member of crowds, or something else?

Yours sincerely,
Furuido

追記:3/28
集合知、なんて、有効な「知」になりうるのか?多数決、などの意志決定メカニズムと、知、は別レベル、のはなしだとおもうが。。
 


公共放送はNHKだけの独占物ではない [IT]

一昨日であったか、NHKがTVとラジオの同時中継で、公共放送とは何かを、テーマにディスカッションを放送していた。ズバリ、とNHKを批判していたのは金子勝だけ、という印象を受けた。仕事の合間に聴いていたのだが、金子の言っていたことは

・政府や与党に番組を事前説明するような放送局を誰も信頼しない
・予算を国会で承認しなければならない、という現制度を改正すべきである。
 つまり、予算承認と引き替えに、放送内容に意見をはさむというようなバカな制度を止めろ、ということ。
・倫理委員会を作って社内で調査しているというが、メンバがすべて社員では役に立つわけがない

これに対してNHKは反論できないでいる。NHKに対する政党の恫喝、というのは何もNHK幹部が、番組の事前説明をするため、へこへこと政府や与党幹部の呼び出しに応じて出向く、ということに限らない。NHK役員の電話番号やメルアドは既に政党与党に知られているのだから、電話一発で(あるいは、偽メールならぬ、オーセンチックな、恫喝メールで)恫喝になるのだ。政府与党あるいは(すなわち?)ヤクザ、から、NHK役員に掛かった電話と送信したメールをすべて監視し、オンブズマンと国民に、公開できるかい?

NHKは、口を開けば公共放送、というが、公共放送はなにもNHKの独占物ではない。不偏不党ということと、政府や政党批判を勘違いしないでもらいたい(中学生に対する説教のようだが)。
BBCをモデルにしているとNHKはよくいうが、NHKとBBCを比べるつもりか?ばかばかしい。
BBCも聴取料から成り立っており、不払い者は収監するなどの強硬措置をとっている。それに対し国民が強烈に非難しないのは、政府と一線を画し、批判番組をじゃかすか放映しているというその信頼感があるからである。番組の内容とその多彩さにおいてもNHKとは一桁も二桁も違う。ホームページを見れば直ちにわかる。

米国のPBS(Public BroadCast Station)もNHKに対比させられようが、PBSは企業からの寄付と、民間(市民)からの寄付のふたつからなりたっている。20年前(少し古いが)ではこの財源、ほぼ半々であった。毎年決まった時期に、キャンペーンを張り、視聴者からの寄付を募る。PBSの放映する番組はNHK BSで多数放映されているからその質の高さはご存じだろう。政府への遠慮会釈はない。ジャンジャン批判をする。ニュース番組の質も日本とはダンチである。これはキャスタの質の高さ、とそれを支える出演者の議論の上手さ、が寄与しているのであり、まったくうらやましい限りである。NHKの場合は、ニュースを含め、ほとんどすべての番組が事前の脚本通りに進んでいる。キャスタが原稿を棒読みなのはもちろん、ゲストとして呼ぶNHK記者とキャスタの間のQ&Aも原稿を読んでいるってのだからまるで、お笑いである。唯一脚本無しにしゃべっているのはクローズアップ現代の、国谷裕子くらいのもんだろう(事前の打ち合わせはあるのだろうが)。なぜ、原稿棒読みなのか? アナウンサや社員が、アドリブで勝手なことをしゃべらないように、発言内容を事前に上司がチェックしているのである。(社内検閲、ね)。だから、こういうことがよくおこる:

## クローズアップ現代♪
国谷: 今夜は経済部の 古井戸さん(仮名)に来て頂きました。
     古井戸さーん(と、顔をのぞき込む。照れちゃいます)、どぉ~~して、堀江氏は株式を何度も何度もな~んども、分割したんですかー?
古井戸(経済部):ハイッ!それは、ですねー(と、用意した、上司のチェック済み原稿の棒読み開始)。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

国谷: でもー、分割なんて東証は、認めてたんでしょ?東証や金融庁は今回の逮捕をどうみているんですかぁー?
古井戸: ハイッ!(と、用意した、上司のチェック済み原稿の棒読み開始) yyyyyyyyyyyyyyyyy

国谷: じゃ、経済学者や法律家の意見はどうなんでしょ?
古井戸: ハイッ! (と、用意した、上司のチェック済み原稿の棒読み開始) zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

国谷: じゃーねッ、あなたッ、つまり、古井戸さん自身は、どーゆー展開になる、とおもってらっしゃん、すか?ライブドアの行く末。。株主の行動。
古井戸: エッ?(息、一瞬停まる。そんな質問、想定外、という表情。。。目を白黒)、エネチケでは、。。滅私奉公。。則天去私。。。sidoro modoro sidoro modoro

国谷: しょーないわねぇ。。あなた、ライブドア株もってんでしょ!?(大きな、美しい眼、でキッとにらむ)
古井戸: エエッ?! (ゼック。泡を吹いて倒れる)

国谷: (カメラを向いて)え~。。視聴者の方々に、みっともない場面をお見せしました。(気を取り直し、キッと、カメラをにらむ)。。今やニッポンのマーケット、それに。。。わがNHKも、バッポン的な変革が要請される時期に来ていることが明らかになったようです。。では、今夜はこのへんで失礼しま~す!
##

高木徹「戦争広告代理店ーー情報操作とボスニア紛争」(講談社)をご存じだろうか。高木はNHKの職員である。NHKが2000年頃放映したNHKスペシャル「民族浄化 ユーゴ情報戦の内幕」はかなり評判になった。NATOによる空爆を引き出したのは民間情報会社ルーダーフィン社による大宣伝があったからだ、という。戦争の裏面を描いた本である。
木村元彦「終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ」(集英社新書)は、高木のこの本を(つまりNHKの番組も、だ)批判している。

「戦争の起こる前にこの宣伝活動は行われていたのだから、なぜ、紛争時にルーダーフィン社を批判しなかったのか?すべて終わってしまったあと種明かしのように見せられると、紛争をネタとしか考えていないのか、とおもってしまう」

この批判、なにもコソボ紛争だけに該当するのではないことは視聴者が感じているだろう。
すなわち、問題(政治問題、社会問題)が発生する兆しも情報もおのれ等が握っているにもかかわらず、放置する。問題が発生する、世間が騒ぎ出す、と小出しにする。すべてが明らかになったあと、報道してもとばっちりは受けない、ということが明らかになって報道をし出す。風見鶏報道、である。だれが、こんな放送局(あるいは新聞社)に金を出せ、というのかい?新聞社ならば新聞を購読しなければいい、という選択の自由がある。購読数がへれば、背に腹は代えられぬから俺等の報道姿勢のどこがまずいのか?と考えるだろう。チンタラ報道をしていても実入りが変わらなければ現在のNHKのように質の低い番組を垂れ流すことになる。戦い終わって日が暮れたあと、の情報などはくず、である。戦いの渦中である程度の危険(しかも、ペイする危険だ)を侵さなければ有用な報道はなしえない、ということをBBCや米国のプレスは、過去、権力との身を切る戦いの歴史で示した。NHKはどのような戦いをやってきたというのか?

NHKの誤解は、能力もないのに自分たちで番組を作ろう、としていることである。なぜNHK職員が経済や時事や外交、政治その他のニュースや解説、番組作りにしゃしゃり出てくるのか?番組作りは外部のプロフェッショナルにまかせなさい、ということだ。米国PBSの番組はほとんど国内外からの独立プロダクションが製作している。新聞の番組評では、保守リベラル、双方から、けちょんけちょんに貶されている番組もある。すべて放送しろ、ということだ。評価は視聴者がするのである。

PBSの番組には企業の宣伝も入るが、「この番組はabc社の寄付により成り立っています」というアナウンスと静止画による企業名が画面に写るだけのシンプルなものである。目の肥えた企業や視聴者なら、番組内容にけちを付けてスポンサーからおりたりすれば、社の沽券にかかわる、とおもうだろう。こういう番組に寄付をすることで企業のプレスティージもあがるのである。

NHKも無駄なバカ番組(軽薄歌合戦など)に金を掛けたり、オリンピックや相撲、高校野球に入れ込まず(そんなものは独立系プロダクションが必要あればやる、必要なければつぶせばよいのだ。NHKが支援する必要などさらさら無い)、余計な「責任」などを背負い込まないようにしてもらいたい。

コンテンツ、は市場に自由に作らせる、ユーザ自身の選択に任せて自由にプログラムさせる。NHKは設備提供だけをおこなう(だから、税金からまかなってもかまわないが、税金を使う理由もない)。デジタルになったらNHKはどのみちサービスプロバイダのひとつになる、のである。つまり、コンテンツをユーザが自由に組み合わせ可能にする。(もちろん、プロバイダ(たとえばNHKなど)が何通りも組み合わせを用意して、お任せコースをつくる=従来の放送型サービス、のも、自由)。
これを称して、「双方向サービス」、という。NHKにとっては新規だろうが、ネットでは当たり前のことである。学校の授業にある時間割表(小学生から大学まで)。これを個々の生徒(学生)が都合にあわせてこしらえるようなもの、である。すでにMITなどでは大学の授業をネットで公開している。ネット授業が世界的になれば、月曜の第一時間はMIT、第2時間はパリ、第三時間はメルボルン。。の講義を自由に世界中どこの学生でも聴講できるわけだ。もちろん、昼間働いている学生は夜間授業も簡単に組み込める。授業を例に取ったが、ニュースであろうと、ドキュメンタリであろうと、ドラマ、映画、であろうと、同じことだ。

電話は固定電話から、携帯電話へと、大変貌を遂げている。これは個人の好みに合わせた情報収集と送受信を可能にする、という文化生活スタイルに変わったことを意味する。NHKの頭は未だに固定電話から抜けきっていないのだ。インフラとしても光が全家庭に届けば、家族構成員ごとに好みの映画や番組のアーカイブを瞬時にダウンロード可能となるのだ。NHKが旧態依然たる「放送」制度にしがみついていると、いつしか外堀、次に内堀が埋まり、崩壊する日も、近いだろう。

なんだかNHKへの暖かい、激励メッセージで書き込みを締めたようでホッと、している。


Web進化論、その2 [IT]

朝日論壇2/28。注目!今月の論考、で梅田著「ウェブ進化論」をとりあげて、児玉龍彦東大教授がつぎのように評している。


グーグルという検索会社がウェッブの「知の世界の秩序」の再編成をもくろんでいる様子を描き出す。ウェッブの「こちら側」で検索する我々と、グーグルなど「あちら側」で情報を供給する側が、実ははっきり分かれている。中国のグーグル検索では天安門事件の写真は抹消されている。逆に「こちら側」が何を検索したのかは「あちら側」には残る。

知、とはそもそも、整理された秩序の体系である。グーグルがどう再整理しようとそれにいまさらビビるようなもんでもなかろう。著者(梅田)も言っているように言語情報なら再整理できるが、画像情報はGoogleでも、整理できずお手上げ、なのだ。眼を開けて目の前の光景を視てみよう。目の前にある光景を、完全に言語化できるか?誰にも出来はしない。無限の潜在的情報が部屋の内部、あるいは一歩戸外に出れば広がっている。言語化する、ということは、ある光景を眺めたとき、そのなかから、おのれの眼に見える物のみを、何百億分の一、に圧縮して言語化する、ということだ。言語、というものは過去の社会が残したゴミため、である。そのゴミを通してしか誰も外の世界を眺められないのである。言語の網に掛からないもの、など物ではないのだ。携帯電話会社の社員なら街路を歩きながら、自社のアンテナと競合会社のアンテナがいやでも眼に入るだろう。ファッション業界人なら通りを歩く女性の衣装が気になるだろう。「あちら側」などどこにもありはしない。「こちら側=私」以外はすべて「あちら側」である。こちら側、がドンドン変化するにつれ、「あちら側」の風景も変わる。あちら側は、おのれの内部に同居している、といったほうが正確である。リアルな世界、バーチャルな世界という分け方も注意が必要だ。身体にエネルギを供給するのは食物=リアルな物品だが世の大部分をうごかしているのはバーチャルな情報である。バーチャルとは虚、と言う意味ではない。光学で言う、virtual imageとは実像、と訳される。
 He is virtually a mayor.
彼は事実上の市長だね(名目上の市長は無視してよい。。)。

グーグルは情報を発信しはしない。編集するだけである。しかし、情報とはもともと、編集済みのものなのだ(言語の組み合わせ、なのだから)。原子事実、など存在しない。言語化された事実とは、作成者の手垢にまみれた団子なのである。

んっと、何を言いたいのか? ようわからんようになった。
進化、じゃなく、退化、したかな?グーグルの責任だな。

##
意味のわからない終わり方になった。
ランダムに情報を示す、ということはそもそもできない相談である。Googleであれ、なんであれ、なんらかの「秩序」を設定して表示せざるを得ない。書店ではジャンル別にフロアをわけ、さらにそのなかで、人気の高い物、新刊、というふうにサブジャンルをこさえて来店者への便宜を図っている。図書館も分類コードに従って配列し、さらに、ベストセラーは多くの部数を購入して便宜を図っている。むろん、Googleなどの検索サービスでは図書館や書店以上のことができるように、あらかじめキーワードを付与している。重要なことは、利用者が おのれの座標をもち、Googleの配列をおのれの配列に座標変換し(つまり、ひとつのおのれの図書館をもつ、ということだ)なければならない、ということ。
 子供たちも勝手に検索をしまくっているが、学校で要領の良い検索方法など、教えるべきであろう。すると、検索をやるためにはある程度の知識がいる、ということがわかり、勉強にも身が入るのじゃ無かろうか。 


ライブドアの行方、あるいは官僚たちの春 [IT]

月刊誌「文学界」4月号を、立ち読んだ。
徹底討議 ネット時代と溶解する資本主義: 東浩紀 + 鹿島茂 + 佐藤優 + 松原隆一郎
という、座談会で、発言者は誰か忘れたが、ホリエモンの逮捕は、堀江が
「。。企業というものは、法の穴を見つけて商売するんですよ。。」と言ったのを受け、検察が
「このやろ、やってやろうじゃねえか!」と、報復したというハナシだ。

今日、TBSラジオでジャーナリストの田勢が出演、堀江がまもなく告発されるが、結局最高裁までいくだろう。。。十年以上裁判はかかるのじゃないか?と言っていた。それで、無罪!になったらどうなるんだ?ライブドア?なんだったっけ?ああ、昔、そんな会社あったなあ。。。ということに、なるのだろうか。

ちょっと時期がずれるが、2月28日付朝日論壇時評(執筆:金子勝)で、松原隆一郎の中央公論3月号記事が紹介されている。松原隆一郎「純粋な資本主義にとって偽計と偽装は想定内と思え」。金子曰く

「悪いことかどうか法的に確定していないグレーゾーンへ起業家を挑ませるのが資本主義という制度」なのであり、その意味でライブドア事件は「小泉改革が破綻したからではなく、むしろ定着しつつあることの証」だという。ところがメディアはその暴走に警鐘を鳴らすどころか逆に増幅装置となって、人々の判断基準を麻痺させていく。

マスゴミに麻痺させられるのではなく、麻痺しているのはマスゴミだけではないか。あるいは金子や松原の学者様だけ、か。

「悪いことかどうか法的に確定していないグレーゾーンへ起業家を挑ませるのが資本主義という制度」なのである、などという平成ニッポンの経済学者の論評を知ったら、Max Weberはなんと言うだろうか?あるいは山本七平さんは?

論壇時評、金子によれば、週刊東洋経済はホリエモンの株式分割を一貫して追及してきたらしい。雑誌「世界」3月号によると、経済法学者上村達男も従来から、ライブドアの手法に疑いあり、と発言してきたらしい。世界は「昨年本誌で、「ライブドアは刑事罰を追及される可能性がある」と喝破した著者(上村)が今回の逮捕劇を読む」と紹介し、上村が記事を書いている。

上村はこの記事のしめくくりで次のように言う。
「日本人は、日本人自身の将来のあり方に危険をもたらしかねない大規模な不正行為を諸手を挙げて賛美してきたのである。付け焼き刃の法律論議がいかに危険かであるかを今回の事件は知らしめたはずである。株式会社制度や証券市場が日本の社会にとって有する意味を、真剣に学ぶことから始める必要がある」

上村さん、「日本人は。。。諸手を挙げて賛美してきたのである」とは、舞い上がりすぎじゃないか?ならば、耐震強度偽造のもととなった審査の民間委託もニッポンジンが諸手を挙げて迎えた、とでもいうのか?「日本の財務官僚や、東証あるいは、経済団体は、。。賛美してきたのである」と、なぜ言わないか?真っ当な経済法学者であれば、金融庁や東証に対して、政策変更させえなかったのは、おのれの力不足であった、と反省するだろう。

第一、堀江は罪を認めていないのだし、マスゴミ報道(検察リーク情報だろう)によれば、罪状はどうやら、粉飾決算であり、上村のいう株式分割ではない。株式分割が、違法、というのであれば、検察のレッドカードの行く先は、東証であり、官僚じゃなかったのか?(勝谷が昨日TBSで論評したところによると、堀江と検察はなんらかの取引をした、結果、これ以上の事件のひろがりはない、つまり、政治家などへの金の流れは追及されない、と述べていた)

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雑誌世界では「ラスプーチン」佐藤優が連載を続けている。4月号が最終回。タイトルは「民族の罠」
(注:歴史学者岡田英弘によれば「民族」などというコトバがつかわれているのは世界広しといえど日本だけ。しかも、20世紀jになってからの造語、だという。佐藤専門のロシアを含め外国に、「民族」に相当するコトバ、は無い、というのが岡田の見解だ)。連載最終回はライブドア事件、をとりあげている。 この記事で佐藤は、最近の柄谷行人の発言を引用している、要約すれば、

「。。マルクス資本論で、見落としたものがある、それは税金や官僚である、税を徴収し、再配分する階級、つまり官僚機構。これは膨大な人口を占めている、これを削減するのは困難、それが国家の実態、このような実態を無視して、国家を抽象的に語る議論は無効だと思います云々」

佐藤は「筆者も柄谷氏に同意する」、と。その上で、佐藤は、ライブドア事件を検察の国策捜査であるとみなし、かつ、特捜検事をして(国を憂える)現代の旧軍青年将校、とみなしている。

いわく「国家の自己保存の本能から、現下日本の状況では国策捜査が必然的に生み出されることを確認すれば十分である。本来、議会制民主主義の下では、時代のけじめをつける機能は、国民によって選挙された政治家の課題だ。政治家がその機能を十分果たすことができない現状で、憂国の想いに溢れた特捜検事がその役割を自発的に引き受けているのである」

なぜ、佐藤は国策捜査(と、佐藤は自分で決めつけている)により逮捕された身であるにかかわらず、かくも検察に理解を示すのか?

「議会制民主主義の下で。。。選挙された政治家の課題だ」(課題じゃなく、仕事だろう?)というのなら、聞きたい。では、佐藤を含め官僚(検察も、官僚だ)の本来の仕事は何なのか?官僚を養っているのは誰なのか?官僚こそ真っ先に国民のために働くべきであろうが?なぜ、佐藤は、国会議員が選挙により簡単に職を奪われるのに、佐藤や検察を含めた官僚のクビを、国民が簡単に切れないのは制度的欠陥である、と言わないのか。

お笑いなのは佐藤が
「。。サッカーにたとえていうなら、検察は社会の最後衛=ゴールキーパーである。それだから強制捜査権という「手を使う」ことが認められているのだ。しかしFW=政治家があまりにだらしないのでゴールキーパー=検察官が前衛になって、しかも「手を使う」のが過去数年間日本でおきている状況なのだ」
と言っていることだ。

ばかばかしい。サッカーで言うなら検察は、川渕チェアマンなのだ。ライブドアに関して言うなら、検察=チェアマンは東証や金融庁の証券監視委員会(=審判)にレッドカードを突きつけ、解職(退場)すべきなのだ。むろん、罪状は、東証や金融庁がおのれが上場を認めたライブドアに対してイエローカードを発出しなかったこと(プレーヤに対してイエローカードや口頭注意)、だ。サッカーの試合途中で、川渕チェアマンがしゃしゃり出て、この試合中止!おまえらに試合をする資格はない!などというのは、チェアマン自身の日頃の管理がずさんであった、というようなもんだ。観客は入場料返せ、というだろう。

佐藤はなぜ、検察や官僚に同情的なのか。佐藤は佐藤や検察を含めた官僚を絶対にあしざまに言わない。独房内で、美味いものを食べすぎ、本を読みすぎたか?マルクスが「官僚や税を見落とした」のは、官僚や、官僚が決定する税体系(あるいは最近の建築審査民営化政策)が、資本(家)の運動に、なんの障害にならぬ、むしろ、棹さす役割しか果たしていない、ということを見越していたからであり、カピタルの運動にとっては空気にしか過ぎない存在である(あるいはカーリングでいえば、資本の行く道を、せっせとお清め、お払いをしているのだ)、ということだ。佐藤を含む官僚らはみごとにこれを実践している。

2・26事件の青年将校あるいは革命家北一輝と、佐藤を含めた平成官僚どもを一緒くたにするな。


Web進化論 [IT]

Web進化論 梅田望夫著 筑摩新書

いわゆるネット本にまともな本がない、というのは私のせまい経験。(除く、純技術本。たとてば、O'reillyから出ているプロトコル解説などだ)この本も買ってみたが、インパクト無し。
誰の視点で書いているのか、が明確でない。Googleビジネスについて書いているようだが、Web技術本ではない。Google検索方法の解説本でもない。では、何について書いてあるのか、よくわからない。。わたしは、自営業を営む一般庶民(私)や学生、の視点からネット(とくにWebサービス)とはなにか、を論じてみたい。

1 チープ革命、と著者は言うが。。
何がチープか?情報取得がチープ?冗談だろう。パソコンがなければネットは使えない、
サービスプロバイダに加入しなければネットは使えない。今のパソコンは数年で買い換えないと
ちゃんと動作しない(ブラウザのバージョン、アンチウイルスソフト、それにOS)。しかも、マニュアルなどは付いていないから、電話ヘルプデスクにお世話にならないと機能をすべて有効に使えない。ほとんど、一般人にとってはパソコンは半製品、高い買い物、とわたしは考えている。
石田教授は数年前の岩波新書で、3年くらいでPCを買い換えろ、と言っていた。もちろん、ハードとソフト込み、であろう。これが、チープ、か? チープ、といえるのは、ITで飯を食っている業界人、やコンサルタント(梅田、など)だけ、だろう。

2 検索システム(Google)
わたしは翻訳業を営んでいるが、Googleにはお世話になっている。辞書などはほとんど引かないが、googleを辞書代わりに使っている。ムスメにもPcを与えたが深夜遅くまで怪しげなサイトを楽しんでいるようだ。著者は、googleのようなプロ集団の提供するシステムを 「あちら」、パソの(ブラウザ)ユーザを 「こちら」と呼んでいるようだが、いまやパソというのはネットなしでは用をなさない。TV端末だけでは番組が見れない、のと同じこと。番組提供業者(テレビ局)とTV端末は一体なのである。あっち、とか、こっち、とかいう意識は無い。普通のユーザはネットのプロトコルなどまったく意識しないであたかもパソなかに、世界中の情報が詰まっている、という感覚で使っているのだ(これが、ネットの意味=目的、である。トランスペアレント。いわば、あちら側を、「こちら化」するのがネット)。
Googleのような情報検索会社はコマーシャル収入で成り立っているようだが、これは普遍的というより現在タマタマそうなっている、ということにしかすぎまい。Googleのようにゴミのような情報も力任せに検索してくれるのがいいのか、あるいは、特定著者、とくていのコンテンツ発信会社と契約してかなり高額の情報料を支払う、という形を選択するかは、ユーザの目的次第だろう。たとえば、日本の歴史を通覧したい、近代とは何か、資本主義とは何か、を知りたい。。こういうとき、ネットを検索するのは一手段にしかすぎず、普通は信用の置ける著書を読む。オブジェクトとしての多量の情報、を求めているのではなく、情報を視る見方、を手に入れたいのだ。視るのは人間である。最終的には人間を知りたいのである。情報は機械からは出てこない。すべての情報は、特定の人間が、特定の価値観をもち、特定の視点から作り出しているのである。

3 Googleは「知の発電所」か?
Googleの発言「検索エンジンに引っかかってこない情報はこの世に存在しないのと同じですよ」。
たしかにGoogleしか情報源を持たないパソコンユーザにとってはそれは正しい。逆に言えば、Googleは情報の発電所、ではない、ということだ。情報はGoogle外の「人間」(機械ではない)が生み出すものであり、Googleはある秩序に基づいてそれを並べて見せるだけである。この秩序、はGoogle側が準備するモノであり、意地の悪い見方をすれば、ユーザに隠すことも簡単にできる、ということだ。(この本と前後して発売された筑摩新書原田武夫著「騙すアメリカ騙される日本」を読むといい。ネットの標準は米国の制御にかかる。暗号化も、米国で解読できるようなものでないかぎり標準化はされないだろう)ヒット数が高ければ、価値ある情報、とはいまや、誰も思うまい。この点について、著者の指摘している2つのことは興味深い。
A ロングテール現象 第二章
B 高速道路の先の大渋滞 (将棋の羽生善治の発言)
である。
ロングテールとはたとえば、年間の本の売り上げ数(あるいは、hpのヒット数、ヒット曲。。)を横軸にとって並べると次の図のようになる、ということだ。
1================================================
2=====================
3=============
4======
5====
6===
7==
8=
9=
1=
2=
3=
4=
5=
たとえば、数百万部売れたという馬鹿の壁、が1である。売り上げ順位数百位以下には、売り上げ点数数千数百の書籍(CD、hp)が死屍累々と控える、ということだ。この、死屍累々リスト、をロングテール、というらしい。私は翻訳が商売だが、たとえば、floor layoutをこさえる、というとき、動詞は、makeなのか、
createなのか、と悩むときgoogleで、 will * floor layoutなどと句検索をかける。すると、よく使われる(使用頻度の高い組み合わせ)動詞がだいたい見えてくる。注意すべきは、いわゆるコロケーションとしてよく案内されるのは頻度の高い動詞、であるが、なるほど!と、唸るような動詞ではないこと、である。われわれのようにビジネス文書の翻訳ならGoogleでチンタラ検索をやっていれば十分だが、作家や文芸翻訳をやる人々はとてもGoogle検索では間に合わぬだろう。同じことを、羽生善治は言っているとおもう。将棋の差し手は今やすべてデータベース化され誰でもたやすくアクセスできる。プロでもネットを使って研究しているらしい。しかし、プロは定石を求めているのではなく、相手に勝たなければならない。相手に勝つ、ひとを唸らせる奇手、表現を生み出す、つまり、月並み句、ではなく名句、超絶句!を生み出す力はネットからは得られない、ということである。(もちろん、羽生さんにヒマと金があれば、自分で知能程度の高いシステムを作るだろう。。それはGoogleとは似ても似つかぬモノになることは確実だ)工学分野で情報理論では、情報の価値が高いのは出現頻度の低い情報、であるとまず習う(シャノン流の価値定義)。

この本を読みながら私の頭の中は、20年前に出版された米国人(夫妻)J.Lipnack&J.StampsのNetworkingという本(その翻訳=ネットワーキング、はプレジデント社から)がチラチラと頭をかすめていた。Lipnackのいうネットワーキングは今では驚かれるかも知れないが、電話と郵便による通信で結ばれたコミュニティのことを言うのだ。生活の価値の共有を目指して、
治療のネットワーク
共有のネットワーク
資源利用のネットワーク
価値のネットワーク
学習のネットワーク
成長のネットワーク
進化のネットワーク
に関して、様々な地域活動を繰り広げており、多数のネットワーク名鑑を添付している。もちろん、郵便アドレスと電話番号を付けて。今なら当然URLアドレスを付けているところだし、そも、この本の内容をすべてネットで公開しているだろう。わたしは、この本の和訳が出た年、ニューヨーク駐在が決まり、この本を携帯して旅だった。この本の付録として、ネットワークづくりの手法というメモを著者は付けている。
(1)役に立つ人間になりなさい
(2)退屈させてはいけない
(3)よく注意しなさい
(4)質問をしなさい
(5)憶測をしてはいけない
さらに、若干の助言として次を掲げている。
1 必要なときにはいつでも取り出せるような情報の保存方法を考えなさい
2 リラックスしてやりなさい。リラックスしてやることはよいネットワーク作りの秘訣だ。。。(以下略)
3 一般的にいって、地域でのネットワーク作りにはもっぱら電話を使った方が良い。そうでなければ手紙がよい。そのほうが安上がりだし、見知らぬ人に対して無礼にならない。
4 葉書を使いなさい。葉書を書いてみると、本当に書かなければならないことはずいぶん少ないものだとわかる
5 封筒は何度でも使いなさい。受け取った封筒の多くはすでに一度は使ったことがあるものだ。封筒は十分気を付けて開封しなさい。さもないともう一度使うことができなくなる。
(以下省略)

この、5のアドバイスには私はココロから感激した(モッタイナイ、は日本の文化などと、ほざいているのはどこのだれだ?)。NY勤務後もペーパーナイフを買い、封筒は丁寧に開けた。実際、使い古しの封筒でレターを受け取った場合、差出人の人柄がしのばれる、ということではないだろうか。

Googleは有用なツールだ。だが、市民生活の幸福を約束するものではもちろんない。われわれは、その活用法を試行錯誤し、獲得しなければならない。

書評からだいぶずれてしまったようだ。なお、Lipnack夫妻はその後も元気で活躍されている。Teamwareなどの分野に関する本を出しておられたようだ。