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ハシゲの従軍慰安婦発言 [history]

橋下氏の発言要旨=従軍慰安婦問題

時事通信 5月13日(月)21時0分配信

 日本維新の会の橋下徹共同代表が13日に行った従軍慰安婦問題に関する発言の要旨は次の通り。
 ▽13日午前(大阪市役所で記者団に)
 敗戦の結果として、侵略だということはしっかりと受け止めなければいけない。実際に多大な苦痛と損害を周辺諸国に与えたことも間違いない。反省とおわびはしなければいけない。
 慰安婦制度というのは世界各国の軍は持っていた。なぜ日本の従軍慰安婦制度だけが世界的に取り上げられるかと言うと、日本は軍を使って国家としてレイプをやっていたという、ものすごい批判を受けている。その点については、違うところは違うと言っていかなければいけない。
 あれだけ銃弾が雨・嵐のごとく飛び交う中で、命を懸けて走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度というものが必要なのは誰だって分かる。
 今のところは、軍自体が、日本政府自体が暴行、脅迫をして女性を拉致したという事実は証拠に裏付けられていない。そこはしっかり言っていかなければいけない。ただ、意に反して慰安婦になった方に対しては、配慮はしなければいけない。
 ▽13日夕(同所で記者団に)
 慰安婦制度は必要だった。軍の規律を維持するためには、当時は必要だった。
 歴史をひも解いたら、いろいろな戦争で、勝った側が負けた側の方をレイプするという事実は山ほどある。そういうのを抑えていくためには、一定の慰安婦みたいな制度が必要だったということも厳然たる事実だと思う。
 (沖縄県宜野湾市の)米軍普天間飛行場に行った時、司令官にもっと風俗業を活用してほしいと言った。司令官は凍り付いたように苦笑いになってしまって。性的なエネルギーを合法的に解消できる場所は日本にはあるわけだから。


## 論評

ほとんどの戦争に慰安婦はいた。日本軍は中国に戦争に行ったのではなく、強姦しに行った。之も事実。政治家がどう語るか、の問題だ。慰安婦がいた戦争を各国で明らかにする必要がある、というのは政治家として言ってもいいこと、というよりやらねばならない。ベトナムを含め戦後も米軍は慰安婦を使った。戦後も、日本政府は駐留軍に対し提供する慰安施設を作り、慰安婦を公募した。そうしないと一般人に対する強姦が発生するからであり、事実、このような施設を作ってもl米兵による強姦事件は多数発生し、すべて闇に葬られた。戦争犯罪は敗戦国だけのモノでなく、原爆をふくめ、戦勝国の戦争犯罪も調査すべきである。いまとなっては処罰できないが、戦争抑止にはなる。これ以後、戦争犯罪は、戦争の勝敗に関係なく、国際司法裁判所で裁くべきであり、一般人に対する被害は、勝敗に関係なく加害者と加害国が賠償すべきである。。。このように私は考えている。かりに第九条を廃棄するにしても、上記のように規定すれば戦争をおこなう国は相当の覚悟が必要となろう。 戦争犯罪を厳密に裁くことが戦争抑止になることは明らかである。裁かないから帝国のやりたい放題になっている。戦争に慰安婦は必須である、というのであれば、その帰結として、戦争は起こしてはならない、ということになるのだ。小心で無能な弁護士にはそのような論理にたどりつけない。ハシゲだけではない。日本の、すべての糞政治屋と糞評論家に共通する問題である。
 
>>あれだけ銃弾が雨・嵐のごとく飛び交う中で、命を懸けて走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度というものが必要なのは誰だって分かる。
 
 なんたる無知か(これでは安倍と同レベルである)。いかに当時の兵士が無知で、戦争犯罪に対して無防備、教育もなされていない無規律な集団であったか、を問わず語りに語っている。軍人とは名ばかり、民間人に対して強姦、暴行、略奪をやり放題の集団にしかすぎなかったのである。
 
>>司令官は凍り付いたように苦笑いになってしまって。性的なエネルギーを合法的に解消できる場所は日本にはあるわけだから。
 
司令官もあきれたろう。 こんな馬鹿が市長や党首をやっている野蛮国と、おれらは同盟国になっているのか!。。と。 それに気付かず、得々とこの話を記者にしゃべっている。 もはや、キチガイ、と言うしかない。首相と同病である。
 
##
『岡村寧次大将資料第一 戦場回想編』1970年、302-303頁

 昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
 現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。http://www.awf.or.jp/1/facts-01.html


NHK "核のゴミ"はどこへ ~検証・使用済み核燃料~ [history]

NHK "核のゴミ"はどこへ ~検証・使用済み核燃料~
http://www.dailymotion.com/video/xxeu27_yyyy-yyyy-yy-yyyyyyy_news

日本の原発に廃棄ゴミなどナイ、廃棄ゴミはすべて再処理して使うのだ!このサイクルが狂ったら、原発使用済み燃料は原発自身が処分しなければならなくなる、そんな設備や場所はない。。。。つまり、原発は使用済み燃料などない。。だれもババを引かないでよい、というネズミ講産業なのだ。。ということを番組は指摘した。

しかし、だから、どーするのか?という案はだれにもない。これが無計画ニッポンの実態なのだ。砂上の楼閣で高度成長をやってきたのだ。

銀行と、地元住民と電力会社からの恫喝に原子力委員会は、代案を出さない。出せばおのれたち=村住民、メーカ、や膨大な人数と数のぶら下がり団体、は只の木偶の坊、になる。 税金から数十兆円を引当金として支出して、ゴミになった原発と処理施設の帳簿価値をゼロにするしかないのだ。それでも、再処理問題は残る。欧州でも同じ問題は残っている。どこかの県が引き受けざるを得ない。補償金を積むしかないだろう。40代以下の人間はその区域~六ヶ所のような~には住まない、そういう区域ができる。 

NHKの番組で一番こたえたのは、欧州のどこかの国のある地域で、おれたちが引き受けざるを得ない、と進んで処分地として立候補した町があったことだ。金のためではない。だれかが、どこかが引き受けなくてはならない。 その場所(わたしは六ヶ所か、フクシマ、しかないとおもう)と、予算の議論を開始すべきだ。NHKのキャスターも、「原発に将来はありません。方向転換は早いほうがいいのです。再処理施設は原発とともに廃棄しましょう。その処分地はどこにするか、の国民的議論を起こしましょう。膨大な<手切れ金>と将来いつまで続くか解らない使用済み燃料と、汚染原発施設のガラクタを保存しする場所が必要、これをどこにするか、一カ所か、数カ所か。。検討開始しましょう」、と最後に問題を投げかけるべきであった。

なんの意志決定もできない、無脳なニッポンが眼前にある。フクイチ事故が起こらなかったらこの問題はさらに先延ばしになっているところだ。高価なツケだが、三陸沖大地震はニッポンの原発政策に対する<大警告>であったと受け止め、原発を直ちに廃棄し、その処分地を国民が決めるしかない。今生きている我々のため、ではなく、将来の子孫のためであり、列島に住んだわれらの祖先、のためである。


時代錯誤  安倍の 安全保障ダイヤモンド [history]

安倍の論文
セキュリティダイヤモンド。

産経新聞しかとりあげず、右翼しか騒いでいない。
当然だろう。最も重要な貿易相手国を封じ込めようとしているのである。
これがどれほど中国世論を刺激し(もしこの論文がかの国で取り上げられれば、だが)、我々の子孫にマイナス影響を与え、国益を害するかかんがえたこともないのだろう。これで米国のケツを舐めたつもりでいるのである。

なぜか近衛文麿を思い出してしまった。安倍に近衛ほどの教養があるわけではない。情勢の読めなさが似ているかな、と。近衛文麿が1937年1月16日に声明「蒋介石政府を相手にせず。。」を発表し、日本は孤立への道を歩み始めた。 蒋介石は英米ソの支援を受け日本に徹底抗戦の姿勢を示したのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/hisao3aruga/37849372.html

上記ブログから安倍論文の翻訳(あるブロガーによる)をそのまま引用する:

アジアの民主主義セキュリティダイアモンド

 2007年の夏、日本の首相としてインド国会のセントラルホールで演説した際、私は「二つの海の交わり」 ─1655年にムガル帝国の皇子ダーラー・シコーが著わした本の題名から引用したフレーズ─ について話し、居並ぶ議員の賛同と拍手喝采を得た。あれから5年を経て、私は自分の発言が正しかったことをますます強く確信するようになった。

太平洋における平和、安定、航海の自由は、インド洋における平和、安定、航海の自由と切り離すことは出来ない。発展の影響は両者をかつてなく結びつけた。アジアにおける最も古い海洋民主国家たる日本は、両地域の共通利益を維持する上でより大きな役割を果たすべきである。

にもかかわらず、ますます、南シナ海は「北京の湖」となっていくかのように見える。アナリストたちが、オホーツク海がソ連の内海となったと同じく南シナ海も中国の内海となるだろうと言うように。南シナ海は、核弾頭搭載ミサイルを発射可能な中国海軍の原潜が基地とするに十分な深さがあり、間もなく中国海軍の新型空母がよく見かけられるようになるだろう。中国の隣国を恐れさせるに十分である。  

これこそ中国政府が東シナ海の尖閣諸島周辺で毎日繰り返す演習に、日本が屈してはならない理由である。軽武装の法執行艦ばかりか、中国海軍の艦艇も日本の領海および接続水域に進入してきた。だが、このような“穏やかな”接触に騙されるものはいない。これらの船のプレゼンスを日常的に示すことで、中国は尖閣周辺の海に対する領有権を既成事実化しようとしているのだ。

もし日本が屈すれば、南シナ海はさらに要塞化されるであろう。日本や韓国のような貿易国家にとって

必要不可欠な航行の自由は深刻な妨害を受けるであろう。両シナ海は国際海域であるにもかかわらず日米両国の海軍力がこの地域に入ることは難しくなる。

このような事態が生じることを懸念し、太平洋とインド洋をまたぐ航行の自由の守護者として、日印両政府が共により大きな責任を負う必要を、私はインドで述べたのであった。私は中国の海軍力と領域拡大が2007年と同様のペースで進むであろうと予測したが、それは間違いであったことも告白しなければならない。

 東シナ海および南シナ海で継続中の紛争は、国家の戦略的地平を拡大することを以て日本外交の戦略的優先課題としなければならないことを意味する。日本は成熟した海洋民主国家であり、その親密なパートナーもこの事実を反映すべきである。私が描く戦略は、オーストラリア、インド、日本、米国ハワイによって、インド洋地域から西太平洋に広がる海洋権益を保護するダイアモンドを形成することにある。

 対抗勢力の民主党は、私が2007年に敷いた方針を継続した点で評価に値する。つまり、彼らはオーストラリアやインドとの絆を強化する種を蒔いたのであった。

 (世界貿易量の40%が通過する)マラッカ海峡の西端にアンダマン・ニコバル諸島を擁し、東アジアでも多くの人口を抱えるインドはより重点を置くに値する。日本はインドとの定期的な二国間軍事対話に従事しており、アメリカを含めた公式な三者協議にも着手した。製造業に必要不可欠なレアアースの供給を中国が外交的な武器として使うことを選んで以後、インド政府は日本との間にレアアース供給の合意を結ぶ上で精通した手腕を示した。

 

私はアジアのセキュリティを強化するため、イギリスやフランスにもまた舞台にカムバックするよう招待したい。海洋民主国家たる日本の世界における役割は、英仏の新たなプレゼンスとともにあることが賢明である。英国は今でもマレーシア、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランドとの五カ国防衛取極めに価値を見いだしている。私は日本をこのグループに参加させ、毎年そのメンバーと会談し、小規模な軍事演習にも加わらせたい。タヒチのフランス太平洋海軍は極めて少ない予算で動いているが、いずれ重要性を大いに増してくるであろう。

とはいえ、日本にとって米国との同盟再構築以上に重要なことはない。米国のアジア太平洋地域における戦略的再編期にあっても、日本が米国を必要とするのと同じぐらいに、米国もまた日本を必要としているのである。2011年に発生した日本の地震、津波、原子力災害後、ただちに行なわれた米軍の類例を見ないほど巨大な平時の人道支援作戦は、60年かけて成長した日米同盟が本物であることの力強い証拠である。  

私は、個人的には、日本と最大の隣国たる中国の関係が多くの日本国民の幸福にとって必要不可欠だと認めている。しかし、日中関係を向上させるなら、日本はまず太平洋の反対側に停泊しなければならない。というのは、要するに、日本外交は民主主義、法の支配、人権尊重に根ざしていなければならないからである。これらの普遍的な価値は戦後の日本外交を導いてきた。2013年も、その後も、アジア太平洋地域における将来の繁栄もまた、それらの価値の上にあるべきだと私は確信している。 

"Asia's Democratic Security Diamond" by Shinzo Abe  http://www.youtube.com/watch?v=HSKyuYhoIJ4

産経以外の日本メディアが沈黙を保っているのはなぜか? アホなことをするな~、と思っているからか、外務省が報道しないようにと規制したのか。

第一次近衛声明「国民政府相手にせず」

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1938_dai1_konoeseimei.html

いつか来た道。孤立への道。


遺伝子を笑え [history]

東京新聞記事。

新聞記事「縄文の遺伝子をアイヌが色濃く受け継ぐ」http://tadekuu-mushi.jugem.jp/?eid=174

DNAが近い、というのは生物的事実、であるにしても、国家をつくるのは血ではない。 共通の文化と、なにより言語をもっていることが条件となる(にすぎないほど、クンダラないもの、という意味)。つまり、国家とは妄想・幻想の産物、ということ。

あいつとわたしはDNAが近い、からといって、ナンボのもんじゃ。


5/5 シカゴ大学のシンポジウムで、小出裕章がキーノートスピーチ [history]

5/5 シカゴ大学のシンポジウムで、小出裕章がキーノートスピーチを行う。シカゴ大学は世界で初めて原爆が開発されたところである。大学のテニスコートに原子炉が作られた。原爆製造のため、つまり、ウラン濃縮を行うため。英語でしゃべるのか?とおもったら、ノーマフィールドが通訳を行うらしい。最強の通訳者である。

http://lucian.uchicago.edu/blogs/atomicage/japanese/

第一セッション
司会: Michael Fisch (シカゴ大学人類学部)
■9:00-10:50 – 小出裕章氏による基調講演 (Norma Field・浅田健による通訳)
■10:50-11:00 – 休憩
■11:00-11:30 – Robert Rosner氏
■11:30-12:00 – Q&A


シンポジウムに先立ち、小出の経歴が紹介されるはずだ(あるいは、小出自身がなぜ、原発反対の立場をとるに至ったかを説明するはずである)。会場の何人が、小出に重ねてオッペンハイマーを思い出すだろうか。

オッペンハイマーは原爆開発後、広島長崎に投下され、その被害を知るに及んで、そののち、水爆に反対し、国家反逆罪に問われすべての公職を絶たれた。しかし、オッペンハイマーを擁護する知人も多くいたし、プリンストン大学は彼に職を与えた。

ロバートオッペンハイマー
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2012-02-11

rewriting textbook @texas 原理主義者に乗っ取られている教育委員会 [history]

Rewriting History in Texas
http://www.nytimes.com/2010/03/16/opinion/16tue3.html

Texas Conservatives Win Curriculum Change
http://www.nytimes.com/2010/03/13/education/13texas.html

Is Texas Rewriting History?
http://www.momlogic.com/2010/03/texas_textbooks_decides_to_rewrite_history.php

They say history is written by the victors. In this case, the victors are a panel of 15 elected officials in the state of Texas who will decide the textbook and curriculum content for schools across the country.


Julio Noboa, a history professor at the University of Texas at El Paso and a social-studies expert who made recommendations for the board, told the San Antonio Express, "This goes to the fundamental issue. The board is not made up of educators, let alone historians. It really makes them look stupid."



An Open Letter to the Texas Board of Education: Stop Rewriting History
http://www.huffingtonpost.com/jeff-schneider/an-open-letter-to-the-tex_b_497695.html


Thomas Jefferson No Longer Worthy of Study
http://www.youngmoney.com/credit_debt/texas-rewriting-history-changing-textbooks/
宗教的原理主義者が教育委員会を独占する、ことを放置しているということは、テキサス州の議会や住民に原理的思考に同調する人々が多い、ということだ。宗教原理主義者は米国の南部だけに特有な現象ではない。米国だけではなく、日本を含む世界に共通の現象である。<正義>を宗教に求める思考がそもそも転倒である。宗教を手放さないリベラル派の原理主義批判にも限界があるということである。

G7から、G4へ、G3へ    小国主義への構造チェンジ [history]

毎日新聞
G7:米が将来像、G4構想提唱 日・EUに中国加え http://mainichi.jp/life/today/news/20091004ddm001020053000c.html
 【イスタンブール平地修】3日夜(日本時間4日未明)閉幕した先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)で、米国がG7を再編し、新たに中国を加え欧州連合(EU)、日本、米国からなるG4への衣替えを非公式に打診したことが分かった。G7から外れることになる欧州各国の反対で今回は具体化しなかったが、将来的にはG4化へ進む可能性が高まった。新興国を加えた主要20カ国・地域(G20)首脳会議(サミット)定例化に続き、中国を加えたG7の再編で、日本の地盤沈下が一段と加速しそうだ。

提案は、米国が「G7の将来像を議論したい」として、G7開幕前に各国に非公式に伝えた。現在のG7は日、米、カナダと英、独、仏、伊の欧州4カ国からなるが、欧州4カ国をEUに一本化。カナダを外して中国を加え、G4とする内容。

 米国の提案の背景には、来年にも日本を抜いて世界第2位の経済大国になることが確実な中国を、国際社会に巻き込みたいオバマ政権の強い意向が反映されている。中国は日本を抜いて世界最大の米国債の保有国になっており、米国経済の生命線も握っている。

 金融危機後の世界経済の回復も、中国の内需拡大頼みの様相が強まっている。米国は中国にG4の一角という「アメ」を与えることで、人民元の変動相場制移行や、内需の一段の拡大など、世界経済への貢献を求めたい考えがあると見られる。

 一方、米国の提案は日本には打撃だ。財務省は「サミットがG20になっても、市場経済という共通項を持ったG7の意義は変わらない」としてきた。しかし、中国が参加するG4になれば、米中2国で世界経済の方向を決定し、日本は追随を迫られるだけになりかねない。
### 以上、記事引用


日本はこれまで運がよすぎ(悪すぎ)、分不相応に経済発展してしまった。身の丈、頭脳のレベルにふさわしい地位にもどるべきである。

敗戦国から出発し、アジアの戦争を利用して経済大国に舞い上がり、政治的・軍事的には米国の属国になり果てて現在に至っている、という事実に目を据えるべきである。

この戦後体制を自主的にチェンジできるのは、今しかない(これを逃せば不名誉ななし崩し的=他律的な変化になる)。

1 防衛は国連主義。自衛隊は大幅削減。残した軍隊も大部分、国連軍として生き残る。経済的にグローバルになった現在、軍事力など不要であるし、大借金国、小国ニッポンにとって軍事力に金をつぎこむ余裕はない。

2 日米安保見直し、とくに、地位協定は即時廃棄=大改訂。
  日本の基地は5年で完全廃棄。当然、持ち込んでいる核兵器は即時撤去。

3 国連負担金も大幅削減

4 日本はG7からは離脱する。G4ではなくEU、米国、AUという三局体制とする。AU= Asian Union


以上、11月に来日するオバマとの会談で鳩山は意思表明すべきである。ニッポンは戦後、米国が主導した政策からギアをチェンジし、いまだに維持している冷戦思考制度を捨てて、<持続可能な福祉国家>、<人権と生活を重視する国家>を目指す、と世界に向けて宣言すべきなのである。まだ<経済大国ニッポン>の虚名と幻想がソコハカとなく地球上を漂っている今が、戦後65年継続した日米軍事同盟(ニッポンが軍事的利便を供与するだけの片務協定)を<自主的>に見直し、宣言できるほとんど最後のチャンスだ。

米国が中国に大きくギヤチェンジしているのにニッポンが宗主国との軍事・政治同盟だけにドップりと浸かっていることの滑稽さにいつになったら気づくのか(すでに世界の嗤い者)。米国にとってニッポンは戦後65年一貫してアジア軍事支配の前線基地であった(朝鮮、ベトナム、アフガン、イラク。。)。米国がタダより安いこの軍事基地を維持したいのは当然である。ニッポン政府はニッポン国民の基本的権利を蹂躙して、いつまで、この大股開きを継続するのか、これが問われているのである。

AU=アジア連合。アジア連合。あるいは中国のG3への単独参加でよい。
経済力、政治力なにをとっても中国には劣る。


注: 二部リーグを結成するのもよいね。ロシア、カナダ、インドなどと。


Small Is Beautiful.
ニッポンは小国主義でいくべきである。


PS:
昨日、NHK TVで昔の番組、1992年に放映した番組「キューバ危機・十月の悪夢」を再放送した。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/index.html                      
2万発以上の核弾頭が存在するといわれる世界。核の脅威を語る上で、多くの教訓を残したのが47年前のキューバ危機。その全貌に迫った番組から、未来への手がかりを探る。          

いま、このキューバ危機の全貌はあきらかになっている。姜尚中が解説していたように、危機が回避できたのは両大国政府の努力によってではなく、むしろ誤解の連続であったのにかかわらず偶然にも回避に至った、というのが真相だ。ニッポン政府はこの危機をわが国に当て嵌めて理解してきたのかどうか。

ソ連からキューバに大量に輸送、建設されつつあったソ連の核弾頭発射施設が米国の重要拠点を狙いを定めていることを探知したときケネディはオシッコ漏らしそうになるほど驚愕した。軍事物資をキューバに運ぶ輸送船をカリブ海で臨検しろ、とケネディは命じ、これに対しフルシチョフは米艦船に停戦を命じられたら、ソ連はこれを宣戦布告とみなす、と宣言した。

当時の米国を中国に、米国をソ連になぞらえると、キューバはニッポンである。

ロバートケネディによるキューバ危機回顧録の解説に次の文章があった:
<ケネディ大統領は、この翌年に行った演説で「わが死活的権利を守る一方で、核保有国は、相手側に屈辱的な敗北か核戦争のどちらか一方を選ばせるような対決を、避けなければならない」と語ったという。そして問題解決後、ケネディ大統領は自らとそのスタッフに対し、ソ連に屈辱を忍ばせるような言動をいっさい許さず、彼自身あるいは政権の手柄であることを示すような声明はいっさい行わなかった。もしこれが一つの勝利であったとするならば、それは次の世代にとっての勝利であり、特定の政府や、特定の国民にとっての勝利ではない、としたのである。>

キューバ以後、米国、ソ連は戦争(ベトナム、アフガン、イラク)をするたびに国力と、道義性を失墜していった。

三木清の死     9月26日はニッポンジンの無責任を記念する日 [history]

三木清の死については、ともにハイデルベルクに留学し、三木を兄と慕った羽仁五郎がつとに悔み怒っていたところです(羽仁自身も終戦時獄中にあった)。昨日、日高六郎『戦後思想を考える』(岩波新書)を読んでいたら冒頭で三木の死にふれていました。日高によれば、三木獄死の直接の原因は疥癬、栄養失調と不眠のようだが、疥癬になったのは疥癬をもつ病気を持つ囚人の毛布を三木清にあてがったうたがいがある。。ということのようです。それは巧妙に仕組んだ殺人である、と。

引用します。p3~4

「9月26日の朝、看守が三木の独房の扉をひらいたとき、三木は木のかたい寝台から下に落ちて、床の上で死んでいた。干物のように。

 日本政府は、敗戦後にも、三木清を釈放しなかった。そして日本人民は、三木清を救い出すことができなかった。。。日本は、戦後、おそらくもっとも重要な思想的な仕事をしたであろうひとりの思想家を失った。

(中略)

 三木清の死が東久邇宮内閣を崩壊に導いたと話したとき、そして、ひとりの人間の人権が蹂躙されたことにたいする一人の人間の怒りが、ひとつの政府を倒した。。

三木清の獄死のニュースを聞いて、ロイター通信の記者がすぐに事情を調べた。そして政治犯のすべてがまだ獄中にいるということを知った。おどろいた外国人記者は、山崎巌内相に面会を求める。すると山崎内相は答えて「思想取り締まりの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する・・・さらに共産党員であるものは拘禁を続ける・・・政府形体の変革、とくに、天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」と語る。そのインタビュー記事は『スターアンドストライプ』紙(日本占領軍将校向けの新聞)の10月4日に発表された。これが問題となりマッカーサー元帥は、4日夕刻に「政治、信教ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治犯の釈放」を指令した。なすすべを知らない東久邇宮内閣は、辞職。9日に幣原内閣誕生。10月10日に獄中18年組をはじめとする政治犯が釈放される。

敗戦後二ヶ月半たって、山崎内相は平気で、しかもおそらくマッカーサー司令部によってさえ支持されるだろうと信じて、こうした信念を吐露したというのはひとつの喜劇である。その喜劇のおかげで、三木清の獄死という悲劇がある。

8月15日、敗戦と同時に、あるいは数日後に、あるいは1ヶ月後に、だれひとりとして、政治犯釈放の要求を掲げて、三木やその他政治犯の収容されている拘置所・刑務所におしかけなかったということは、いうまでもなく日本敗戦の性格を物語っている」引用終わり



三木や戸坂潤の獄死はニッポンジン無責任の象徴です。三木清の死を記念するなら、9月26日を『日本人無責任の日』と命名すべきでしょう。象徴天皇制が日本国民無責任の象徴であるように。


戦後、憲法は変わったが、刑法、刑務所、警察の捜査・取り調べシステム、司法行政(裁判所人事支配による間接的な判決支配)はどれほど変わったか?
内務官僚、警察、軍(防衛)官僚はそのまま戦後も生きのびた。

GHQにより与えられた象徴天皇制、
GHQにより与えられた人権、と、民主制。

ごちそうさまです。


戸坂潤 Wikiより:
また、彼は1932年に設立された唯物論研究会の創始者の一人であり、同事務長等を務めたが、治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、栄養失調から全身疥癬に苦しめられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。

崋山と長英   鶴見俊輔と加藤周一の方法 [history]

          090328_1106~01崋山馬鈴薯.JPG「馬鈴薯略図」崋山


先日から、佐久間象山、高野長英、渡辺崋山を読んでいる。
岩波の日本思想大系第55巻(崋山、長英、象山、横井小楠、左内が一巻にギュウズメにされている)は押入の奥の段ボールに入っており引っ張り出すのが大変。もう一冊、アマゾンで買おうか。。と思案中。

長年(30年来)読みたかった杉浦明平『小説渡辺崋山』上下、を古書店に注文。朝日ジャーナルに連載されていたヤツである。

杉浦明平さん
http://www4.ocn.ne.jp/~toguchi/06zatu.sugiura.html

長英では、岩波新書『高野長英』佐藤昌介著、や吉村昭の小説『長英逃亡』新潮文庫、を読んだが、このたび、鶴見俊輔『高野長英』(朝日評伝選)を古書店で買ってただいま読書中。評伝の見本ともいうべき圧倒的なできばえである。図版多し。長英の出身地、奥州・水沢の歴史から解き始める。奥州は切支丹が多い。ペドロ・カスイ岐部の出身地がローマから帰国してからの活動拠点が水沢であった。思想家がいかにして仕上がるか、の鶴見的見解。 長英と関わりの深かった崋山にも多くの記述を当てている。

鶴見俊輔『高野長英』p196から。

「崋山には、のちに明治に入って小学校の国定教科書にとじこめられてしまったような、封建社会の道徳にエゴの要求をしたがわせる一面があり、長英には封建社会の道徳におしつぶされない弾力的なエゴがある。崋山と長英とを二人並べてみると、崋山は封建時代の精神をになう最後の人びとの一人、長英は時代をぬけでて近代の精神をになう最初の人びとの一人であると感じる。私は近代の精神が封建時代の精神にあらゆる面ですぐれていると思うものではないが、両者にたいする倫理的評価と別に、彼らの生き方にそういうちがいがあると思う。そのちがいは崋山の自殺、長英の脱獄という行動の対象によって、表現されている。」


加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫、下巻)から抜粋する。
p172
「。。。崋山は当代一流の画家であった。。。。文人画系統の山水や静物も描いたが、殊に写実的な風俗写生画と肖像に優れる。(略)先行する「北斎漫画」の影響があるが、文人画風の強い描線は北斎のそれとはちがう。肖像画には陰影を施し、オランダ銅版画の影響があきらかである。しかし根本的な特徴は、西洋画の技術的な影響よりも、微妙に写実的な一流の接近法そのものにあるだろう。」

(略)

<崋山の画論について>p173

。。単なる写生ではなく、単なる画家の気分の表現でもない。写生を通して自己を表現しなければならない、というのである。けだし同時代の画論で、かくも簡潔に、明瞭に、問題の核心をつくものは少ない。そういう芸術の話として、その結果が金もうけになるかならぬかは、ほとんど問題になりえないだろう。しかも彼の画論の行文は、またただちに彼の学問論を思わせる。 (略) 崋山の画業の写実主義は、日本の画壇への激しい批判なしにはあり得なかったろうし、彼の蘭学への傾斜は、儒林の痛烈無慈悲な評価無しにはあり得なかったろう。

(略)

「彼の権威に対する批判的態度の一貫性はあきらかであり、そのことはまた、そういう態度と極端な貧苦の経験との関係をも示唆する。たしかに貧苦は絵画の修業をはじめた動機であったろうし、海防掛の任務は西洋事情を調査した直接の理由であったろう。しかし彼が独特の写実的絵画を描いたのは、伝統的絵画への批判が鋭かったからであり、蘭学にあれほど熱情を注いだのは、伝統的儒学への批判がきびしかったからであろう。伝統的芸術や学問の批判は、おそらく一般には権威の尊重よりも事実の直視を重んじる態度を前提として、はじめて可能であった。その態度は、沿岸の外国船ばかりでなく、彼みずからが経験した貧苦の事実と、分かち難くむすびついていなかったはずはあるまい。崋山は蘭学者になったから幕政を批判したのではなく、幕政を批判していたから蘭学者になったのである」


ドナルドキーン『渡辺崋山』(新潮社)
刊行記念インタビュー
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/331707.html
引用する:
オランダから輸入された書物の複製写真版などで崋山が目にした可能性のある西洋絵画の中にも、一斎像に直接影響を与えたと思える肖像画を見つけることは出来ない。崋山は独力で彼自身の写実を創出したのだと考えるべきでしょう。渡辺家の苦しい家計を支えるため、時には小藩田原の財政のためにも、崋山は注文主の趣味に応じた売り絵を描かなければなりませんでした。しかし、一斎を描くことで大きな自信を得た肖像画だけは、たとえそれが注文による売り絵である場合にも、崋山自身のため、己れの写実への情熱を存分に発揮するために描いたのではなかったか。
(略)
 蟄居中の身でありながら自作の絵の頒布会を開いた不謹慎の迷惑が藩主に及ぶことを恐れて、と書き遺し、崋山が自裁したのは維新の二十七年前でした。息子が武士の作法に則って死んだことを自ら確認した母は、哀しげな顔に笑みを泛べて、それでこそ我が子、と言ったと伝えられています。蟄居中の崋山が描いた、老母の肖像画があります。武士の妻として武士の母として、幾多の苦難を耐え忍んで来た一人の老婦人が、毅然と端坐しています。

ドナルドキーンは本書の末尾で述べる:
 「。。崋山が将来の世代を惹きつけるとしたら、それは何よりも一個の人間 - 貧窮と迫害に屈することなく画業に邁進し、忘れ難い肖像画の傑作群を残した人物としてではないだろうか。」

090401_0856~01.JPG 鷹見泉石像 崋山  090401_0855~02.JPG 竹中元真像 崋山

090401_0855~01.JPG 渡邊崋山像 椿椿山
いずれも、ドナルドキーン『渡辺崋山』口絵から。





蘭学ができた長英、年代差のゆえ蘭学を学ぶことができず長英の翻訳に頼った崋山。奥州水沢の出身ながら故郷を棄てたも同然、牢破りをヤッテ以後も全国を逃亡し続けた長英。崋山の貧困は筆舌に尽くしがたいほどであった。生活物資はほとんど質に出し、家で布団など見たことがない、という。

昔読んだ石川淳『渡辺崋山』。すっかり忘れたが文章の力でスイスイ気持ちよく読むことができた記憶、海外への旅の機中で。


高野長英
wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%8B%B1

長英記念館
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/
長英の人生
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/jinsei/index.html
1804年、仙台藩水沢留守家の家臣後藤実慶の三男として生まれる。
9才で父を亡くし母親美也の実家にもどり、叔父高野玄斎の養子となる。
養父も祖父も医者である高野家での生活が、少年長英に蘭方医学への興味をいだかせた。


(幕末・維新の町を行く「岩手県水沢市」-高野長英と角筆漢詩-)http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/mizusawa.htm

高野長英旧宅
http://www.iwatabi.net/morioka/ousyuu/takanokyuu.html


長英の蘭学は徹底していた。学習仲間同士では、日常会話もオランダ語で、という決まり。喧嘩して階段から突き落とされたとき、痛てぇ!というのをオランダ語で言った、という。

宇和島に潜伏していた期間が比較的長かったが、一晩として酒とオナゴを欠かしたことがない、という。
逃亡するにも翻訳した書物を運ぶため下人を雇わねばならぬから大変であった。

小説・長英逃亡by吉村昭 
http://yottyann.at.webry.info/200608/article_15.html

吉村昭はこれを執筆中のあるとき、通りを歩いていて、お巡りを見掛けると、おもわず、物陰に身を隠した、とエッセイに書いていた。脱獄後、逃亡中の長英になりきっていたのである。

江戸の隠れ家を幕吏に急襲され、捕縛される直前、自刃して果てた。一八五〇年十月三十日。




渡辺崋山 田原藩。渥美半島。作家杉浦明平も渥美出身である。

wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1


崋山博物館
http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/index.html

肖像画家 渡辺崋山
http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2007/09/post_f857.html

崋山『馬鈴薯略図』
http://www.kirinholdings.co.jp/company/history/soseiki/images/takano02.jpg


崋山の『馬鈴薯略図』は、長英の『二物考』(1836)への挿絵として描かれた。『二物考』とは、鶴見俊輔『高野長英』によれば。。

p184
気候不順でもよく実る早そば、じゃがいもの二種をつくって、米麦にたよらずに代用食をとってきりぬける道をすすめたもので、その植物の性質、栽培法、調理法についてはオランダの書物をひいて、こまかく説明している。 (略) さしえは、渡辺崋山であり、日本の美術史に残るこの画家(渡辺崋山)が、実用パンフレットに図解をかくなどということは、今日の日本の常識としてはあり得ないが、この点で日本の文化に進歩向上があったといえるだろうか。

高野長英の文章はどのようなものであったか?p187

 高野長英の散文は、少年のころの手紙においてさえ、事実のぎっしりつまったもので、それを今日の会話体にもどせば、誰がこう言って自分はこう言ったという脚本のように読めるような性格をそなえていた。序文などは、漠然とした情緒を表現することがむしろ自然であるのに、事実と論理でひたおしにしており、今彼をとりまく日本の必要にこたえるために彼のもっている全知識を駆使するというふうである。 本文に入ると、情緒漠然たる漢字成句はすっかり影をひそめ、やさしい言葉で、必要な事実のみをつたえる。


090328_1636~01長英文章.JPG 『二物考』

 このように、漢字のとなりに日常語をかなでふって、誰が手にとっても、肝心のことはわかるようになっている。形の美しさにこだわらず、達意を目的とする実務家の文章である。とにかく、急場の用にたてばよいとした、その故にかえって古典としての味わいを保っている。 
(略)
 こういう文章は、普通には日本文学史にとりあげられることはないが、虚心に人間の文章史として日本人の書いてきたものをふりかえるとすれば、『二物考』は日本人の書いた大文章の一つと言えるのではないか。


天保の飢饉にさいして長英は上州の村医との協力によってふたつの小冊子を書いた。このうち『避疫要法』は、あとがきに飢饉にさいして疫死者が餓死者に十倍するのを長英が憂えて書いたとある。内容は、疫病の発生時、医者でなくても誰でもがすぐに応用できる措置をしたためたものである。病人の腹中の汚物の吐かせかた、疫病の人を訪問するにはどうするか、死後、すぐ埋葬して部屋を掃除し、窓から空気を入れるように、などの指示。医者を呼ばなくても対処できる、と教えているのだ。なお、第一章で、鶴見は、江戸時代が日本の歴史をつうじて、とくに寒冷の時期であったことを、とりわけ奥州地方を何度も襲った寒波による冷害データをもとに明らかにしている。


p189
これらの小冊子を書くことは、長英にとって、幼年期以来心にかかっていた心配に答えることであり、自分が努力してたくわえてきた知識をいかすことであって、自分本来の仕事として考えられたであろう。もう一つの系列に属する小冊子『夢物語』が原因となって獄につながれた時、自分の本来の道からはずれたことをくやむ気持ちが長英になかったとは言えない。獄中手記『わすれがたみ』に「然れども、わが夢物語に死する、遺憾なきに非ず」と書いたのは、もとより蘭学社中への弾圧を不当としたのであろうけれども、同時に、自分がもっとも効果的に社会につかえることのできた道すじをはなれて、直接に政治を論ずる文章を草したことへの後悔もくわわっていたであろう。長英の政治的著作を全体として見る時、『夢物語』は、当時もその後ももっとも長英の名をたかくした作ではあるけれども、『二物考』『避疫要法』の二つの小冊子のほうが、重要なものではないだろうか。


加藤『文学史序説』では、長英の『わすれがたみ』と『蛮社遭厄小記』にしか触れない。p177

前者は著者の個人的経験にふれるところが多く、鋭い観察を含んでいて、文学的散文の傑作である。そこには「蛮社の獄」が「蘭学を滅却せん為に」官によって「デッチ上げ」られた事件を口実として行われたことの、指摘がある。裏切りまたは「スパイ」の事もあり、一般に政府の態度として、「総じて蘭学に関係する事は、其罪軽くして其の罰重し」という事も書かれている。もしその文中の「蘭学」を「社会主義」に置きかえれば、『わすれがたみ』は明治天皇制官僚国家の話としても、ほとんどそのまま通用する。


鶴見『高野長英』は75年の刊行、加藤周一の『序説』のこの部分が朝日ジャーナルに連載されたのは78年、ほぼ同時期である。長英の文章に対する二人の評価の差は歴然としており、ふたりが世界を観察するときの視角の差、座標の差を表す。


鶴見と加藤の評論を特徴づけるのは比較文学的、比較社会学的方法である。その座標の一端にはつねに彼らの生きる現代の日本があった。座標軸はいかようにも設定できる、それをやっているのはオノレであるという自覚(自己のポジショニング=批評の前提)があり、方法の吟味と基礎付け(Kritik)があった。崋山、長英、象山(と、その弟子松蔭)がそうであったように、このふたりこそは真のナショナリストなのであり、跋扈する似非ナショナリストと異なり地球化時代の現代においてナショナリストはヒューマニストであるより以外に存在しえない、ということである。ニッポンと東洋における地球化時代の幕開けであり時代の<転換期>であった幕末にいきた崋山や長英、象山はとりわけ現代(とくに戦後)との比較無しに彼らを評価することはできない、と両者は認識していたはずである。明治に先立って東漸する欧米の文物、軍隊に対抗させて自己の方法(言語と文化の翻訳、を含む)と、ニッポンという国(国防をふくむ)を如何にして確立するかが彼らの当面の問題であったが、これは現在のニッポンにおいてもそのまま、課題として存在する。これは雑種文化論の範疇である。

加藤に倣って言えば、加藤と鶴見はチシキ人(critic)になったからニッポンを批判したのではなく、ニッポンを批判していたからチシキジンになったのである。


加藤周一 1968年を語る   “言葉と戦車”ふたたび
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-12-15
追悼 加藤周一
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-12-14

<済州島を買ってしまえ>発言   存在の耐えられない軽さ [history]

「済州島買ってしまえ」 小沢氏が発言と笹森氏
2009/03/12 00:08 【共同通信】
 笹森清・前連合会長は11日夜の都内の会合で、民主党の小沢一郎代表と先月会った際に、小沢氏が韓国資本による対馬の不動産買い占めに対抗し「今、円高だから済州島を買ってしまえ」と述べていたことを明らかにした。

 笹森氏によると、小沢氏から「対馬のことをどう思う」と問い掛けられ、「ものすごく心配している」と答えたところ、済州島買収発言が飛び出したという。

 笹森氏は「日本が世界に伍していくためには、当たり前のことを考えていてはだめだ、ということだ」と、小沢氏の意図を解説した。



よう、ご両人!

...と、声をかけたくなる馬鹿ぶりである。

小澤も口が軽いが、笹森のこの軽さがタマンナイ。

どういう場所で小澤が、いつ、しゃべったのか?
それを、今、このとき、なぜ公開するのか?(二人だけが酒を飲んでいるとき冗談を言ったのならありうるが、その冗談を いまの時点で公表するのは信じられないくらいの政治的センスの無さ。あるいは、検察並みの頭脳の持ち主、である)

国民として、こういう馬鹿どもとは付き合いきれないね。

こういう口軽男(小澤)に政治を任すのも不安である、と思わせる事実(政権を取っても、いずれマスゴミの餌食になることは間違いない)。 

笹森が、<小澤は軽いよ。小澤を首相にするのはやめたほうががいいよ> というシグナルを国民に送りたかった、というのであれば納得であるが。

ついでなら、沖縄を明治政府による同化以前、あるいは薩摩藩による侵略以前の状態に戻したほうが、沖縄住民はシヤワセである、あるいは、日本列島を、米国に買ってもらった方がニッポンジンはシヤワセだ、くらい言ったらどうか。


>「日本が世界に伍していくためには、当たり前のことを考えていてはだめだ、ということだ」

。。世界にゴシテ行くためには、まず当たり前の思考と言動ができるニンゲンになってほしか、とオイドンはおもう。



済州島@ウィキ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6

アメリカ黒人の歴史  デモクラシーの将来 [history]

090108_0217~01.JPG ミシェル・オバマと娘たち@8/25/2008,民主党全国大会

ミシェルさん(オバマ夫人)の記事が昨日の毎日夕刊に載っていた。オバマの母さんは白人だが、ミシェルさんはシカゴの黒人貧困街で生まれた。猛勉強してバラク・オバマ氏と同じハーバードの法科大学院を修了。オバマもミシェル夫人も、原稿無しで何時間でも演説できるだろう。貧困と世の中の矛盾を知りつくしているからだ。

ミシェル夫人は「目標は母親司令官」と言っている。軍の最高司令官である大統領になぞらえ、子育てを最優先にする決意だ、という(毎日新聞)。

ミシェルさんの父方の高祖父は南部サウスカロライナ州の農園で働く奴隷だった。同じ黒人でも、ケニア人留学生だった父と白人の母の間に生まれたオバマ氏とは決定的に異なる。奴隷の子孫として差別されてきた黒人にとっては、ミシェルさんのホワイトハウス入りの意味は大きい(毎日新聞から)。

ニッポンの国会議員に自前で1時間の演説ができるのは何人いるか?
ゼロ、である。 利権にしか目がない七光りヤローばかり。

オバマ氏は支援者集会に行くバス代もだせなかった位の貧困時代を経験している。

岩波文庫の『アメリカの黒人演説集』は1830年から2005年のオバマ議員(議員になってから半年)までの黒人演説を収録。米国の、負の歴史、である。 この演説集の冒頭は、デイヴィッド・ウォーカーの訴え(1829)である。『奴隷制度のもとのわれわれの悲惨な状態』:

「。。さて私は天地に、とりわけアメリカ人に訴える。かれらとその子どもたちの支配のもとで、われわれの状況が<厳しい>ことはない、われわれが悲惨と苦痛の状態に結構満足してとどまっている、と喧伝して止まないアメリカ人に向かって訴える。じっさい、黒人の大統領、知事、立法者、上院議員、市長、法廷弁護士の実例を見せたことがあるのか。この偉大な共和国の全土においてさえ、黒人が就いている職は警察の最下級職の保安官か、陪審員席に座る陪審員ぐらいではないか。惨めな同胞の裁判だというのに!!!。。」 (p9)

                                                 090108_0219~01.JPG



トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(岩波文庫全四巻)。第一巻第二部第十章『合衆国の国土に住む三つの人種の現状と予想されるその将来に関する若干の考察』は、黒人とインディアン、それに白人の将来を考察している。たった9ヶ月の米国滞在、1831年頃(仏共和革命直後)、でよくここまで書き込めた、というほどの内容。黒人への同情と(ときに、そのあまりに冷静な、事実記述に驚くが)、奴隷制に対する怒り、ヨーロッパ白人の自責、を感じざるをえない。 いかにも、フランス人権革命をへている近代人、である(トクヴィルが米国調査(米国の監獄を調査目的として政府から出張が許可された)に出向いたとき、25歳だった。旧貴族の出身であるトクヴィルは、はやばやと俺たち貴族の時代ではないと、貴族身分を棄てた)。 トクヴィルの恩師ギゾーのソルボンヌにおける文明史講義録は、福沢諭吉『文明論之概略』の種本となった。

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トクヴィルから数十年あと、明治革命を担った諸藩の下級武士(身分を失って、政府に仕官したのだからトクヴィルと立場は同じである)が大挙して欧米を1年以上に渡って見学旅行した。が、米国で、トクヴィルほどの民主政治や黒人、インディアン、白人の将来像について、深い認識には達していない。これが歴史の、差、であろう。


第十章から引用する:

『この空間(アメリカ連邦のこと)に広がって住む人々は、ヨーロッパにおけるように、同一の種族の子孫ではない。そこには生まれながらに異なり、ほとんど敵同士と言ってよいような三つの人種が一目で見出される。これらの人種の間には、教育と法と血統、さらには外見によって、ほとんど越えがたい障壁が初めからうちたてられていた。偶然によってこれらの人種は同一の地に集まったが、混ざり合っても一体化はできず、それぞれが別々に運命に従っている。

このように異なる人々の間で、最初に目に入る人、教育においても権力においても、また幸福においても第一の人は白人、ヨーロッパ人であり、彼こそがすぐれて人間なのである。その下に黒人(ニグロ)とインディアンが現れる。

この二つの不運な人種は生まれも外見も違い、言葉や習俗の点でも何一つ共通性がない。似ているのは両者の不幸だけである。住んでいる国の中で、どちらも同じように劣った地位にある。どちらも暴政の被害をこうむっている。境涯の悲惨さに性質の違いはあるとしても、その責任を問いうる相手はどちらにとっても同じである。

世の中の現実を見るにつけ、ヨーロッパ人の他の人種の人々に対する関係は、まるで人間と動物の関係のようではあるまいか。前者は後者を使役し、言うとおりにならぬとなると、これを滅ぼしてしまう。

アフリカ系の人々に対する抑圧は、彼らから人間に本来備わる権利をほとんどすべて一挙に奪ってしまった。合衆国の黒人(ニグロ)は自分の国の記憶さえ失った。父祖の話した言葉もわからず、その宗教を放棄し、その習俗を忘れた。このようにアフリカへの帰属をやめ、さりとてヨーロッパの恵みに与るいかなる権利も得ることもなく、二つの社会の間に留まり、二つの国民の中間で孤立したままである。一方からは売りに出され、他方からは見捨てられ、黒人にとっては不十分ながらも祖国の思いをいだけるものは、天(あめ)が下、主人の館のほかにはいない。

黒人は家族をもたない。女性を快楽の一時の相手としか見ることができず、子供は生まれたときから親と対等である。

人をして悲惨の極にも無感覚にさせ、ときには自らの不幸の原因に倒錯した好みを覚えさせることさえあるほど精神状態は、これを神の至福と言うべきか。それとも神の怒りの究極の呪いと言うべきか。

このように不幸のどん底に投げ込まれながら、黒人はわが身の不幸をほとんど意識していない。暴力が彼を奴隷の身にし、その後の隷従の習慣は彼に奴隷の思想と奴隷の野心を植えつけた。黒人は彼の暴君を憎む異常に崇め、自分を抑圧する者を卑屈にも真似して歓び、誇りに思う。

(以下略)』 p265-267


そして、大統領選挙勝利後の演説(11/24/2008)で、バラク・オバマは、こう宣言した:
アメリカよ、我々はついにここまで来た
  America, we have come so far」 


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追記:
<。。。(奴隷制度は。。) 米国の、負の歴史、である >
しかし、アフリカ黒人奴隷を三角貿易することにより荒稼ぎしたのは英国である。奴隷三角貿易による利益=原始蓄積、によらずんば、英国の産業革命はあり得なかった。資本主義の発端から、経済はグローバルだったのである。
時には母のない子のように あるいは、いまどきのグローバリゼーション http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2006-04-24



トクヴィル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB

加藤周一 1968年を語る   “言葉と戦車”ふたたび [history]

ETV特集 「加藤周一 1968年を語る~“言葉と戦車”ふたたび」
放送日 :2008年12月14日(日) 午後10:00~午後11:30(90分)

12月5日死去した評論家・加藤周一さん。1968年パリ五月革命やプラハの春を目撃した。40年前の若者の反乱が今問いかけるものとは…加藤さんのラストメッセージを伝える。

2008年12月5日、評論家の加藤周一さんが89歳で亡くなった。加藤さんは夏、病をおしてインタビューに応じた。テーマは1968年。その年、加藤さんは五月革命に揺れるパリでサルトルと議論し、プラハの春を推し進める市民に接する。その体験は著作「言葉と戦車」にまとめられ、権力と言論の問題を考えていく。そして今、68年と同様に「閉塞(へいそく)感」が社会に広がる中、あの年が私たちに問いかけるものとは?
### 以上、NHKの番組案内。



加藤老師が入院する直前、今年の7月、どうしても語っておきたいことがある、と、自ら求めてフィルムに残したメッセージである、という。

加藤周一は1968年『言葉と戦争』を出版しているようだ。この年、米国はベトナム戦争にドップリと浸かっていた。この年、チェコでは新たに選ばれた改革派、新任のドプチェク党第一書記が1968年の春から夏にかけ相次いで自由化政策を実施した。たとえば、一切の検閲廃止。市民は歓びと将来の明るい暮らしに湧いた。いわゆる、プラハの春。。。そんな、ある日の深夜、なんの前触れもなく、ソ連軍が国境を越え、プラハに侵入してきたのだ。戦車七千両による軍事介入。

そこでたまたま欧州に滞在していた加藤周一は何を見たのか?

ジャーナリストの抵抗の姿勢、である。
ソ連軍はまず、プラハの放送局を襲った(放送局をいのイチバンに襲撃するのはクーデターのイロハ、である)。
放送局員はどうしたか?銃を背中に突きつけられ、ソ連軍のための放送を行うよう強いられた。
一部の抵抗する放送局員は、接収を逃れたアンテナを使い、TV電波を地下から流し続けた。周辺国の国民へ、政府へ。この放送を聴いた人は、プラハへのソ連軍侵入の事実を国連事務総長、安保理理事国へ伝えてくれ、と。

加藤がその夜、ウィーンの友人宅で偶然点けたTVの荒れた画面から、男性放送局員が真っ正面を向かって訴えかけるメッセージであった。

ソビエト兵に発見され放送局を制圧された後も、ソビエトの軍事介入を伝える地下放送は、すべての放送局員が逮捕追放されるまで継続し、プラハで何が起こったかは海外に流し続けられた。

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はかなく終焉をつげたプラハの春。


しかし。。これは最近われわれが眼にした光景とどこか似ていないか? 帝国が、なんの根拠もなく、圧倒的な軍事力により中東の国境を侵略する。国連事務総長も安保理(利権コッカ)も、超大国の侵略に抗するためには、屁の突っ張りにもならない。

権力に対抗するにはペン。戦力に抗するには人々の言葉。すなわち、言葉と戦車。。。

これはたしかに、現代の問題であり、もっともこの問題を自覚しなければならないのはジャーナリスト、であるはずだ。この番組はマスゴミの諸君が眼をカッポじいてみなければならぬ番組であった。

しかし、ニッポンにおいては権力がマスゴミを急襲、ということはありえまい。ものわかりのいいマスゴミ(NHK..)の自主規制あるゆえ。

たかだか数十年前に起こったこと(だれが起こしたのか?)を、過去のこと、<その時歴史は動いた>。。にしてしまう、NHK。すこしは、<現代>をうごかしてみたく、ないか? NHKのニュースキャスターやアナウンサにはパーソナリティというものはかけらもない。口から出る言葉は、すべて、社内検閲済の原稿を棒読みしているのだから。


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身体は折れ曲がり、髪の毛はほつれ、眉毛は伸び放題、眼はヤニのようなものがたまっている。加藤老師はすでに世俗の些細な事々を超越されているようであった。 凡俗の人間にはここまで、できまい。

加藤老師には、サルトルやボーヴォワールがそうしたように、老いについて、死についても語って欲しかった、とおもうこともあるが。


4年前に死んだ私の父は加藤周一より一歳年下。医者に余命3年を宣告されたが小康状態を得て、ひょっとして、と希望を抱いたが、ピタリ3年で死んだ。加藤とちがいガクレキは小学校を出ただけである。日支<事変>に志願して参戦し、中国大陸を転戦。九死に一生を得て帰った。同期の2/3は戦争で死んだという。加藤は肋膜炎をわずらい、偶然、徴兵から逃れえた。


生々死々。




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*画像はすべて上述のNHK番組から。


追悼 加藤周一
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-12-14
生と死 加藤周一
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2006-08-24

吉田茂と安保、天皇。 麻生のクチのネジレの起源 [history]

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夕べ(10/3)TBSラジヲ・バトルトークに、小澤の代表質問演説(あるいは所信表明)を起草したという民主党議員?が登場した。(小澤のこの演説はなかなかのものであった)

かれがつぎのようなエピソードを紹介した。安保と吉田茂。それに天皇。

##引用
講和条約は日本にとって極めて寛大な条約であり、この条約を吉田茂は高く評価していた。しかし吉田は首席全権代表を強く拒んだ。つまり「ひどく不機嫌」だったのだ。なぜか。

 吉田は講和条約に署名したくなかったのではない。その直後に控えていた日米安保条約に署名する事が嫌だったのだ。吉田は、少しでも対等な条約をと、粘り強い交渉を重ねていた。これに対して、天皇の戦争責任をせまるソ連の影響を恐れた昭和天皇が、安保条約の早期締結を命じ、出席を渋る吉田に、はやく出席し、署名するように、と迫ったという。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-1104.html


番組に登場した議員は歴史学者がまったくこのことを書いていない、不勉強だと。


ところで。。
麻生は、所信表明演説あるいは代表質問において、オモロイ一節を挿入した。

阿修羅ブログから。
http://blog.livedoor.jp/asyura2007/archives/51080177.html
##引用
麻生は言う。「わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第九十二代内閣総理大臣に就任いたしました」。
 「かしこくも御名御璽をいただき」だって? この発言は、「かしこくも」天皇の任命によって首相の地位に就けていただいた、という「臣民」としての言辞以外のなにものでもない。この言葉は「国家統治の大権は朕が祖宗に承(う)けて之を子孫に伝ふるところなり」(憲法発布勅語)、「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」(大日本帝国憲法第一条)という天皇主権による「大命降下」によって首相の任についた、という思想の表現なのである。 
麻生のこうした明治憲法的天皇主義者の思想は、この冒頭発言に続く以下の言葉によっても示されている。 
「わたしの前に、五十八人の総理が列しておいでです。百十八年になんなんとする、憲政の大河があります。新総理の任命を、憲法上の手続きにのっとって続けてきた、統治の伝統があり、日本人の苦難と幸福、哀しみと喜び、あたかもあざなえる縄の如き、連綿たる集積があるのであります。/その末端に連なる今この時、わたしは、担わんとする責任の重さに、うたた厳粛たらざるをえません」。

 麻生の言う「憲政の大河」とは、まさに「大日本帝国憲法」の伝統に立脚したものであって「主権が国民に存する」ことを確認した現憲法は、「大日本帝国憲法」の直接的な延長上にある。麻生にとって「厳粛」たらざるをえない「責任の重さ」とは、主権者としての「国民」に対するものではなくて、「御名御璽」をいただいた天皇に対するものにほかならない。

##

TBSに登場した議員は、いう:

そもそも議会は、君主に対する革命権を宣言して設立されたものである。議員はそれを担う役割を負うのであり、麻生は、これをまったく理解していない、と。漫画しか読まず、新聞など全く読まない、という麻生に政治の歴史などベンキョーしろというのは無理。

麻生ばかりじゃなく、マスゴミや憲法学者もまったく不勉強。


戦後天皇の退位を求める<やから>に対して吉田茂は断固天皇を<護持>した:http://blog.goo.ne.jp/lazybones9/e/90770002ffdd2265ea2ec53e97188695
## 引用

《(前略)吉田はこの憲法九条に関連して、政府案が上程されたばかりの衆議院本会議(六月二十八日)で共産党野坂参三と論争している。野坂は「正シクナイ不正ノ戦争」すなわち侵略戦争と「正シイ戦争」すなわち自衛戦争とを区別し、政府案にある「戦争ノ抛棄」を「侵略戦争ノ抛棄」に変更べきことを訴える。これに対し吉田は「国家正当防衛権」を認めることが「偶々戦争ヲ誘発スル」がゆえに、「正当防衛権」自体を「有害」であると断言したのである(「第九十回帝国議会衆議院議事速記録第八号」)。》(124ページ)このくだりで共産党の『正論』に同感するのも本読みにはこたえられない楽しみである。

昭和天皇は《国民に戦争への自責と謝罪の念を表明》しようとするご意志をお持ちであったようである。ところがそれを形にする『退位』そして『謝罪詔勅』のそれぞれを吉田が握りつぶしてしまう。そして著者はこう述べる。
《天皇がその意に反してみずからの戦争責任を形にしえなかったというその歴史的含蓄は重い。》(以下153ページから155ページ)

《もし天皇が被占領時代はともかく独立を機に退位していたら、戦後日本の絵姿は大きく変わっていたであろう。天皇退位は日本が国内外に向けて少なくとも国家の道義的負債を精算していく最大かつ決定的な機会になったであろうし、ひいては独立回復後の国民にその再出発のための新たな道義的基盤を用意したであろう。》

《天皇が退位をもって戦争への道義的責任を示したなら、軍部暴走と戦争にかかわった政治家、軍人、言論人等々は指導者としての出処進退を厳しく問われることになったであろう。そしてアジア諸国への賠償・補償もすべてはこの地点から始まっていたであろう。日本が占領軍による受身の懲罰ではなく、自身の意志によって戦争責任に明確活早期の決着をつけることが国家として必要であったなら、「天皇退位」は一つの重大な選択しであったに相違ない。》

《過去の責任を曖昧にして道義的負い目を引きずっていく国家は、諸外国からその弱点を衝かれ、国内に無責任の風潮が瀰漫するのは当然である。》

《天皇股肱の臣吉田茂が、敗戦日本を捉えて離さなかったこの「天皇退位」という戦後史最大の難問を抱えて歴史の岐路にあったことは事実である。しかもこの歴史の分岐に立って吉田が天皇の「退位」のみならず「謝罪」をも否定するという、この上なく深大な決断を下したことだけは記憶されてよい。》

『人間天皇』を宣された昭和天皇の心を慮ることを吉田茂は僭越と懼れたのかそれとも己の情念にのみ忠実な尊皇家だったのか、結果的に昭和天皇のご意志を無にした『臣・茂』こそ『不忠の臣』ではなかったのか。
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吉田 茂 ―尊皇の政治家
原 彬久
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0510/sin_k255.html
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  天皇を「現人神」とする明治絶対君主体制、すなわち旧憲法の秩序観・価値観にどっぷり染まった吉田――その吉田が新憲法制定に冷淡であったこと、「大逆罪」や治安維持法の存続をGHQに求めたこと、さらには(戦争責任と関連した)天皇の退位や(国民への)謝罪発表を阻んだことなどが、次々に明かされていきます。1952年1月の国会では、昭和天皇退位論の立場から質問した若き中曽根康弘議員に対して、そのような立場を「非国民」と断ずる答弁までしているのです。
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麻生のクチがねじ曲がるのももっともである。

やられた側とやった側 記録映画『ヒロシマ・ナガサキ』 [history]

NHK で 記録映画『ヒロシマナガサキ』を放映した。この映画は日系三世の米国人Steven Okazaki
の 製作・監督・編集になるもの。 WHITE LIGHT/BLACK RAIN: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki)
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Government efforts to expand the aid given to A-bomb victims is in the news today, which reminded me of a very good documentary I watched recently. White Light, Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki is a HBO documentary that focuses on the experiences of atomic bomb survivors: On August 6th and 9th, 1945, two atomic bombs vaporized 210,000 people in Hiroshima and Nagasaki. Those who survived are called “hibakusha”–people exposed to the bomb–and there are an estimated...

White Light, Black Rain - The Destruction Of Hiroshima And Nagasaki : Japan Probe
#http://b.hatena.ne.jp/entry/7925226
080806_1140~02.JPGSteven Okazaki

ヒロシマ、ナガサキで被災した人約10名、それに、原爆投下に従事した元米軍兵士が登場し、当時の記録フィルムを挿入し、被爆体験者が言葉として体験した原爆を伝えている。

わたしは、ビデオに記録し、昨日今日数回見た。以下、コメントをアトランダムに記す。


1 元米軍兵士は、当然のことながら、原爆投下を後悔していない。命じられたことをそのままこなしただけである。実際、投下に責任を有する科学者、軍人や大統領(トルーマン)まで 原爆がいかなる被害をもたらすものか、知っていなかった。その規模だけはネバダ州の砂漠で実験をして確認していた。(米国は、1946~62にかけて、米軍兵士数万人を強制的に立ち会わさせて、原爆、水爆の爆発実験をくりかえした。米軍兵士たちと、その子どもたちは、ヒロシマナガサキの被災者が受けたと同じ原爆病を発病している。これは、先々週のNHK BSで放映したフィルム、Nuclear Soldiersに記録されている。あとで記事にする予定)。


2 広島で被爆した韓国女性も登場した。「朝鮮ではできた米はすべて日本に没収された。仕事もなく、やむをえず広島にきた。日本にくるか、餓え死ぬか」。韓国人だけの原爆慰霊碑に参拝していた。いまだに、広島市は合同追悼していないのだろうか?ナガサキにも軍需工場は多いから朝鮮から強制徴用されたひとが多く被爆しているはずである。なぜ、朝鮮人が日本で働いているのか。考えていたナガサキ、ヒロシマ市民はだれひとりいなかったろう。ニッポンが朝鮮で何をした?考えた人などはいなかったろう。原爆はそういう無知に対する罰である。


3 登場者が口々に話すのは敗戦を国民は悟っていたことである。食糧も不十分。日本政府はそれでも戦争を継続しようとした。ポツダム宣言をつきつけられず、原爆も投下しなかったら、はたして、いつまで戦争を継続したのだろう? 原爆を投下したのは戦争終決を早めるためだった、という米国の言い訳は、トルーマンらの真の意図とは別に、日本国民やアジア人にとって真実なのであった。

4 被爆したナガサキの婦人。両親が死に、妹と二人残されたが妹は鉄道自殺した。「妹は、餓えと孤独で生きる気力を失った。わたしも死のうとして線路に立ったが、汽車の汽笛や蒸気音が聞こえてくると怖くなって逃げた。。」 「終戦後、米兵がナガサキに来た。わたしは米兵に言った、両親や妹をなぜ殺したのか、返してください!。。しかし日本語だから分からなかったでしょう」
 このご婦人の怒りは、そのまま、朝鮮、フィリピン中国、インドネシア。。のアジア人が日本兵にもつ怒りだろう。広島ナガサキで被災した人々はそのことを、現在、理解しているのだろうか。日本兵に人間とおもわれず、食糧は奪い尽くされ、銃剣で刺し殺され、大根のように首を落とされたり強姦されるのと、原爆でやられるのとの、差、である。



この映画は昨年米国の公共放送でオンエアされ、米国人数百万人が視聴し、かなりの反響があったようだ。NHKの番組ではある高校でこの映画を教材として使用し生徒にディスカッションさせていた。ある生徒:「米国がこのようなことをやっていたとは知らなかった。政府は国民に真実を穂知らせる必要がある」 080806_1140~01.JPG

NHKはこの番組に優れたドキュメンタリとしてNHK賞を贈ったという。賞を贈るのも結構だが、戦時中、政府に尻尾を振って、国民に真実をシラせなかったNHK。今になっても、中国、朝鮮、台湾、フィリピン、シンガポール、満州。。で日本兵が何をしたのか、NHKが、海外に取材して生き残った人々から、記録フィルムにして放映する、という話を聴いていない。最近、NHKがやっと、生き残り日本兵にインタビューを行って、その証言記録を放映しだした。しかしこれは、いかに悲惨な闘いを日本兵は南洋や中国大陸でやってきたか。。という記録であり、アジアの民衆に対して日本兵がいかにひどいことをしたか、の記録ではない。あと、10年もすれば、原爆被災者や、元日本兵は全員死に絶えるだろう。NHKや政府はそれを待っていたのだろうか? 戦争に負けたからといって記録を残さなくていいことにはならぬ。国民の税金を巻き上げて政府の政策として総力戦を遂行したのだ。いかに闘って、いかに負けたのか。すべてを国民に公開すべきではないか(なん、ちゃって。。。冗談よ。冗談)。 NHKはこの夏もゾクゾクと、イージーな戦争回顧番組を作成するようである。ニッポンジン、なかんづく政府やゴロツキ政治屋に口当たりのいい番組ばかり作って何になるか?アホ国民を再生産するだけ、滅びへの道である。



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挿入した写真はすべてNHK放送から。


この映画で正視できなかったのは、最後の当たりに登場する谷本清牧師の話である。
谷本牧師についてはつぎのブログを: http://info.linkclub.or.jp/nl/2005_10/anata.html
谷本牧師は米国にヒロシマと被爆者の惨状を訴えるため米国のTV番組に出演して、義捐金を募ったという。出演を斡旋したのは評論家ノーマン・カズンズである。この番組にはエノラゲイ搭乗者にも出演させ『私はなんということをしたのか』と悔悟の念を述べさせている。なぜ、正視できないのか?いま、ひと言では言えない。

私個人にかんして、この映画から 原爆に関して思考を変える、あらたな真実というのはなにもなかった(映画に出演した被爆者個々の体験などはむろん知らなかった個別的な事実である)。 多くの日本人にとってはそうであるはずだ。 この映画は何も知らない米国人を啓蒙するために、米国人がつくったものである(それが赦される時代になった、ということ。しかしこの映画は原爆被害をあきらかにしたものであり、原爆投下にまつわる政治の真実をひと言も語っているわけではない。ベトナムやアフガン、イラクについても被害を明らかにするフィルムはあらわれても、政治の真実は当分明らかにされることは期待できない)。日本人がこの映画に感心しているようではしょうがないだろう。 日本がやるべきことは、この映画と同じく、日本人の手で 朝鮮、中国、フィリピン、インドネシア、その他のアジアの国々で被害者を調査し、ニッポン軍が行った事跡を記録に残すことである、が、どうやらそれは時間切れ、関係者はまもなく、すべて、この世界から消えるだろう。


やった側が、やられた側の記録を残し、記憶しているか? これはやった側の自覚と教育の問題である。 戦争、といえばやられた記憶しか頭にない。 これは小児病である。 ニッポンの現在は小児病的といっていい。日本軍が行った重慶、上海に対する無差別爆撃、長年の朝鮮支配、アジア各地で行った住民を人間と思わぬ扱い、731事件、毒ガス使用。原爆は、加害者の地位から一挙に被害者の地位に日本の市民を置き直し、対アジア戦争の記憶を麻痺させる効果を与えた。ニッポンにとって原爆は二重の悲劇である。


なぜ原爆の投下がアジアの人々に歓呼をもって迎えられたか。原爆追悼の日の秋葉広島市長の追悼メッセージには、例年のごとく、ひと言も言及はない。原爆はヒロシマ長崎市民への天罰でもあるのだ。加害者であることをまず自覚して、そののち、原爆の使用を云々せよ。しかし、無差別爆撃(重慶、上海)を世界で最初に決行したのはニッポン海軍であることをわすれてはならない。


原爆の悲劇とは何か。原爆などものの数でない悲惨をアジアの人々に加えた過去をスッカリ忘れたニッポンジンをゾクゾク、排出させていることである。これは、悲劇であり、喜劇である。

この米国映画からニッポンが学ぶべきことがあるとすれば、やった側=ニッポンが、アジア各国でやったことを調査し、証言と記録をフィルムに収め、わかい、戦争を知らないニッポンジンに学習させ続けることだろう。が、現状、ほとんど、絶望的である。



関連記事:
なぜ広島に原爆が投下されたか、を問うことに意味があるか
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-08-06

3月10日 東京大空襲追悼日
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-03-10

アーネスト・サトウの歳月 [history]

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サトウ(Ernest Satow)、23歳のころ


萩原延寿『遠い崖』を読み始めた。20年以上前、朝日新聞夕刊に連載されていたときから、拾い読みしていたのだが、いずれ書物になった時に読もう、とそれ以後ほかっていたのだ。この本は幕末から明治にかけて英国の日本領事館員、外交官として働いた英国人アーネスト・サトウが生涯書きついだ日記をひもときながら、歴史家萩原延寿がその後の史実、資料、サトウの書簡、萩原の史観を折り込みながら時代と当時の人物群像を描いた読み物である。サトウという人間、英国人の目に映った当時の日本人の言動、英国政府の政策とその命により動くサトウ(日記や書簡にも書けないことも多かろう)という官吏。それを解読する萩原。全14巻。最近、明治維新ものを読むことが多いので、図書館で借りてきたが。。英国人アーネスト・サトウ(1843-1929)とは予想以上の人物であった。


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遠い崖、は幕末から明治維新にかけて、最初英国領事館の通訳として働き、のち、その実力が認められて中国やシャムで外交官として働いたアーネスト・サトウが一応、主役である(あるいは、幕末維新をかけめぐった志士、か。あるいはニッポン、という国か)。

オックスフォードやケンブリッジという名門校の出身(外交官は彼らでほぼ独占されている)でないところからくる鬱屈も、彼の生き方に影響を与えているのじゃないか、。。というのは、鬱屈している私の見方だが。彼は、ペリーの『日本遠征記』やオールコックの書いた日本滞在記などを少年のころ読み、ニッポンに憧れた、という。しかし、大英帝国の少年が、極東の小国に本を読んだだけで、行きたい!と思うものだろうか?



彼が英国外務省の審査に受かって、英国サザンプトン港を発ったのは1861年11月4日。まだ19歳の青年である。真っ直ぐ日本に来る予定だったが、<狡猾な日本人にダマされないためには漢字くらいは覚えてこなくてはダメだ!>という前任者の建議により、途中中国の上海、北京で約半年、中国語と日本語の勉強を行った。当時、日英間の条約正文は英語でも日本語でもなく<中国語>だった。幕府官吏は中国語は使えた。英国外交官も漢字がわからないでは狡猾な幕府官僚にダマされてばかり、という苦い経験があった。サトウの語学勉強ぶりは半端ではない。かれは満州語もマスターした。文字どおり朝から晩まで、時間割通りに、中国語、日本語を勉強している(『一外交官の見た明治維新』によれば、サトウが中国滞在中に、日本から急便が届いた。なかに閣老直筆の文書が入っていたがこれを読める支那人は誰もいなかった!これでサトウは、支那語の理解が日本語を解することの早道、というのは嘘であることを悟り、直ちに北京を発って日本に向かった、とある)。もちろん、ラテン語フランス語など欧州語はマスターしている。老年(70歳)になっても古典文学を愛し(愛読書はダンテの神曲)、そのころトルストイの戦争と平和をロシア語で読むため1年くらいでロシア語をマスターもした。

日本の風物と文化も愛した。古事記を英訳し、琉球語やアイヌ語についての業績もあり、日本の学会で論文を発表している。

彼が上海を出発できたのは1862年9月2日。横浜に到着したのは、9月8日。生麦事件が起こるのは9月14日のことである。



サトウ(Ernest Satow)には日本人の妻がおり、二人の男の子もできた。長男は長じて米国のデンバーに渡った。次男はサトウの趣味を引き継いで植物学を専攻し、ロンドンに留学した。サトウは彼らと文通したが、萩原の本には、サトウの日本語による書簡を載せている。

サトウは妻と次男を置いて中国やタイで外交官生活を送った後ひとり故郷に戻るのだが(日本に永住しよう(小泉八雲のように。。。)という気はなかったのか?

次男は年老いた母をおいて好きな英国に長くいることはできない、とサトウに訴えている。


080319_0724~01夫妻.JPG 080319_0727~01夫妻.JPG  Satow 夫妻  (Wikipedia↓から)


サトウは幕末激動期を日本で過ごした。当時、ニッポンの幕藩体制は制度疲労があらゆる面で露出し、末期を迎えていた。薩摩や肥後は幕府の支配を離れて独立国のごとく振る舞い、強力な軍備を保持していた。フランスや英国、オランダは幕府とは別に各藩に深く食い込んで商売をしていた。幕府は一藩にすぎず、いずれ倒壊する、ということを見越しての行動である。


生麦事件とは、神奈川県生麦において、薩摩藩の行列の前を横切った英国人を薩摩武士が斬り殺した<無礼打ち>、という事件である。たまたま馬で遠出した横浜租界地の英国商会(ジェームスマディソン)のリチャードソンが被害にあった。これがもとで、賠償を求める英国と対応の悪い薩摩藩の間で薩英戦争がおこる。この事件に際して、サトウの態度の落ち着きぶりは、なんだろうか?サトウは武士の切腹を残酷で野蛮な行為、と断罪するような人物ではない(先日、NHK TVでドナルドキーンが語っていた)。大名行列の前を横切る、ということは当時の日本にあってはあり得ぬ行為であった。それを理解せずに、日本で商売しているのか?在地研究が足りない、と着任したばかりの若いサトウは商社員を<切って捨てたのか>?





無口と言われる西郷吉之助も、サトウの前ではおのれの描いている日本の将来像を語り尽くしたようである。西郷の、鬱屈したモノに対する、サトウの共感が二人を引きつけ合ったのだろうか。

『遠い崖』第13巻は「西南戦争」。明治十年、たまたま、直前に休暇で長く英国に戻っていたサトウは政情視察を兼ねて、鹿児島にいたサトウの友人でもある医師ウィリスのもとを訪れた(ウィリスは留守だった)。ここで、薩摩が、反乱準備を着々と備えていることにショックを受ける。サトウがウィリス宅にいたとき、西郷が訪ねてくる。2月15日の熊本に向けて進軍開始の一週間前である。西郷は何をしゃべりに来たのか?型どおりの挨拶だけだったのか?ウィリス宅を訪れた西郷は常時、兵士二十人に取り巻かれていたという。起つことに熱心でなかった西郷が余計なことをしゃべらないか、監視されてでもいるかのようであった、という。このとき、サトウと西郷だけの会談が実現していたら、ふたりはなにを語らったのだろうか?過ぎた10年の歳月を、か。将来の日本を、か。


080316_1725~01.JPG080316_1724~01.JPG 西郷&Satow


萩原延寿は、第一巻「序章」をつぎのように締めくくる。

「。。文久二年(1962)から明治元年(1968)にかけて、つまり、19歳から25歳に書けての青春の日々に、サトウが幕末期の日本で味わった政治的な体験は、あたかも「強烈な酒」に似ていて、やがてサトウにつぎのような感慨をいだかせるほどのものであった。
 明治3年(1970)6月14日、賜暇でロンドンに帰っていたサトウから、日本にのこっていたアストン(サトウの友人、日本歴史文化に関する多数の著述がある)に送られた手紙の一節である。
『つくづく日本がいやになった(Disgust with Japan)というあなたの気持ちに、わたしはまったく同感です。わたしも日本をはなれる1年ほどまえから、自分の仕事にたいする興味をすっかり失っていました。これからも日本人は進歩をつづけてゆくでしょうが、われわれ外国人はただ退場してゆくよりほかはないとおもいます。』

サトウが第一回の賜暇で帰国するため、日本をはなれたのが、明治二年(1969)の初頭であることを考えると、サトウが「自分の仕事に対する興味」を失ったのは、まさに明治新政府が成立したころ、ということになるではないか。

「つくづく日本がいやになった」ということばのふくむさまざまな意味を解明していくことは、いずれ本稿でおこなわなければならないが、そこにサトウが幕末期の日本で味わった「強烈な酒」の問題が登場してくることは、まずまちがいないし、チェンバレンの語った「植民地生活で身に付いた錆」の問題も、おそらく顔をのぞかせてくるにちがいない」


一筋縄ではいかない、サトウの魅力がある。



薩英戦争の直後、英国は、幕府を見限り、薩摩藩に財政支援をおこなう。薩摩も、英国から軍艦を購入する。薩摩への英艦隊による攻撃は本国政府の了解を得たものだろうか?そうではあるまい。鹿児島市街の大半が焼失し、英国政府はこれを英艦隊の暴挙として非難、譴責している。


薩英戦争の翌年には攘夷の先鋒であった長州藩を米英仏欄の艦船が砲撃した。
サトウ『一外交官のみた明治維新』(岩波文庫)で、サトウはこう言っている。「日本国内の紛争には頓着なく、いかなる妨害を排除しても条約を励行し、通商を続行しようとする当方(英国)の決意を日本国民に納得させるには、この好戦的な長州藩を徹底的に屈服させて、その攻撃手段を永久に破壊するほかはない」 連合国の圧倒的な軍事力は、薩長の攘夷論を一変させた。以後、組織化された薩長の武力による倒幕戦争が頻発することになる。

サトウ(すなわち当時の西欧先進国と、その官僚)が当時の日本を、欧州の先進国並に扱っていないことはアキラかである。民間商社の先兵となって販路拡大を行うのが政府・軍隊の仕事、という欧州パラダイムにドップリ浸かっているのである。


サトウは当時まだ外交官ではなく、一段ランクの低い領事事務(サトウの場合は通訳が主体)をまかされている。しかし、日本語の読み書きができ、当時の、だけでなく古来からの日本の風物や文化に対する興味と愛情はニッポン人を越えるものがある。半世紀あとに日本にふらりと訪れたラフカディヲハーンを想起させるほどのモノである。


サトウは幕府や各藩の有力な人物にこまめに会っている。暇を見つけては日本の各地を旅行している。もちろん、当時の英国は世界を圧する大帝国。ニッポンの横浜に軍事基地を置いて3千人の常備兵を配備し、港には軍艦を停めていた。このような軍備による隠然たる威圧、それに、大国である中国をも陥落させたという<実績>は幕府や諸藩をビビらせていた。その大帝国の駐在員という背景がなければ、サトウがその威をかりたかどうかとは関係なく、幕府官僚や、諸藩の武士ともこれほどの交流はできなかったろう。しかし大帝国の外交官、という肩書きとは別に、彼の力量と仕事の熱心さ、人柄、ニッポンに対する愛情(もちろん日本語も読み書きできたし、日本の文物に対する研究発表をに日本の学会でやった)は、当時誰からも好感をもたれ、信頼されたようである。


最近で言えば、サトウに対比できるのは、ドナルドキーンであろうか。キーンの『明治天皇』を読み始めたがわたしはこの本を誤解していた。明治天皇を奉る本でもなければ、天皇制を論じた本でもない。近代の日本がいかにして成立したか、を論じている。

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ハーン、サトウ、キーン、等に共通するのは民族を越えて、人間や文化を愛し、理解する能力に優れている、ということである。こういう人は時代を越えた存在になりうる。



                               
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Sir Ernest Mason Satow@1903 London


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サトウの故郷の小村。86歳で世を去るまでの22年をここで過ごした。オタリー・セント・メリー(Ottery St. Mary@Devonshire)



Ernest Mason Satow@Wikipedia

グローバル・キャピタルはビター味 [history]

                           

今朝配信されたメルマガを紹介する。

チョコレートの真実-復活した奴隷労働」2008年01月19日(土) 萬晩報、伴武澄

http://www.yorozubp.com/0801/080119.htm

内容を一部引用:

キャロル・オフ『チョコレートの真実』(英治出版)を読んだ。チョコレートの原料のカカオ豆の主産地はガーナだとずっと思ってきた。日本に輸入されるカカオの場合は正解なのだが、70年代からコートジボワールが最大の生産国に変わり、いまでは世界生産の35%を占める。かつてガーナがトップだったころはアフリカが価格支配力を持っていたが、悲しいことに今ではカーギルなど世界の食糧メジャーが支配する。

 カカオだけでない。綿花や砂糖など多くの商品作物の生産は暗い過去を引きずって来た。奴隷制である。アフリカの奴隷が長くその生産を支えてきた。19世紀に欧米諸国が奴隷制廃止を決めてからも、中国人クーリーなど奴隷制に近い労働実態が続いた。

 戦後、アジア、アフリカ諸国が相次いで独立を達成し、人身売買を含めて奴隷制は地球上から姿を消したものだと思っていた。この本は1990年代にコートジボワールに復活した奴隷労働を告発する。しかも相手は少年や子どもだった。

 

NGOであるACE(Action against Child Exploitation)は1年前に記事にしていた:

http://acejapan.org/modules/tinyd8/

##引用

チョコレートの由来

実はカカオは2000年の歴史を持つ食べ物で、正式名はラテン語で「神々の食物」という意味。通貨として使われていた(うさぎ1匹=10ココア、等)こともある貴重なものでした。カカオの木は赤道から南北15度以内の地域でしか育たないのですが、16世紀にスペインに持ち込まれ、王族の飲み物としてヨーロッパに流通した後、1828年にオランダでココアパウダーが開発されると、1875年にはスイスでミルクチョコレートが登場。こうして、庶民に親しまれる製品としてチョコレートは600億ドルの世界市場を持つようになりました。

現在カカオ豆を生産している主要国のうち4カ国が西アフリカ(カメルーン、ガーナ、コートジボワール、ナイジェリア)に集中していて、ここでの生産は世界の生産高の約7割を占めます。中でも世界の43%の生産量をかかえ、国民の3分の1がカカオかコーヒー栽培に関わっているという国が、コートジボワールです。

人身売買され、カカオ豆農場で働かされる子どもたち

2001年4月13日に西アフリカのギニア湾で、10~14歳の139人の子どもを乗せた船が消息を断った事件が報道されました。この船に乗っていたのは、近隣の国から連れて来られた子どもたちで、ベニンからガボンに入り、そこからコートジボワールなどのカカオ豆農場で働くために売り渡されるところだったといいます。報道によると、この船は目的地であるガボンの港で上陸を拒否されたためベニンに引き返したのですが、その時船には23人の子どもしか乗っていなかったそうです。処分に困った船長が子どもを投げ捨てたと疑われていましたが、真相はわかっていません。このようにして、労働者として人身売買される子ども、そしてカカオの栽培に児童労働が使われていることが世界中に知れ渡りました。

##

 

Forbes.comの記事が翻訳されている。2006年4月。「奴隷によるチョコレート?」

http://www.ftrc-jp.org/news/Slave%20Chocolate.pdf

一部引用:

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ネスレCEO であるペーター・ブラベック氏が言っている。「ネスレがその農園を所有しているわけじゃない。」彼は、このスイスに拠点を置く多国籍企業への、7 年も続く抗議活動に苛立ちを隠せないようである。「あの国は内戦状態だ。知らないだけで、ほかにも人権侵害に当たる行為はあるかもしれない。」彼は、ネスレがコートジボワールからカカオを買わなかったら、きっと事態は更に悪化していただろうと言っている。


米国務省の報告によると、コートジボワールでは、約21 万5 千人の子供が路上暮らしをしており、教師はわいせつ行為と引き換えに生徒によい成績を与え、また人身売買に対する法律もない。
ワシントンを拠点とするチョコレート業界団体は、西アフリカにおける児童労働を批判している。欧米の抗議団体は、奴隷農場の状況をビデオテープに録画した。人身売買によって強制労働をさせられている12 歳の子供たちの悲痛な体験談も録画されている。彼らは高収入と楽な職場環境を約束された。原告の一人、隣国マリ出身の男の子は、コートジボワールでのカカオ農園の話にうまく乗せられたと言う。「逃げようとしたけれど、捕まえられて罰として足を切られた。そして傷跡が治るまでの数週間、働かなければならなかった。大きな部屋で他のマリ出身の子供と一緒に暮らした。」と苦境を語った。
彼を知る少年の証言では、別の男の子が奴隷としてやってきたので、彼は解放され、マリ大使館へ自力でたどり着いたという。マリの外交官が少年たちが家に帰るのを手伝ったということだ。
5 年前、トム・ハーキン上院議員(民主党 アイオワ州)は、アフリカでの児童奴隷のカカオ栽培に関して疑惑を抱き調査を開始した。彼は、米国内で売られるチョコレートには「奴隷が関与していません」と記載されたシールを貼る法律を提案した。法律は、成立はしなかったものの、ネスレはそのメッセージを受け取った。ネスレ、その他大手のチョコレートメーカー、ILO そして非営利団体は、2005 年7 月までに、搾取、児童奴隷でないチョコレートを認証する制度を確立することに調印した。

##

 

資本は労働者を生かさず殺さず、毛穴から生き血を搾り取る、と述べたのはマルクスである。それは当時のロンドン、現在のアフリカまで旅せずとも極東ジパングで、われわれが眼前にしている光景である。

 

ビターやで

グローバルキャピタルは。

 

 

この味がいいね

 とアナタが言ったから2月14日は

     児童奴隷記念日

     コートジボワール記念日

     チョコレート革命

 

  

関連ブログ記事: 

『フリーター漂流』 あるいは エンゲルスのこと

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-12

時には母のない子のように あるいは、いまどきのグローバリゼーション  

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-04-24


わかっちゃいるけどやめられなかったオトコたち [history]

去年秋、NHK ETVでチェゲバラ伝を講義していた戸井十月が、今朝、TBSラジオで自著を紹介していた。植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」 戸井 十月。昨年十二月発刊の新著である。

 

戸井によれば植木の家は代々寺をやっており(浄土真宗か?)、オヤジも寺の住職だった。オヤジは共産主義運動にも入れ込んでおり、植木が小学生のとき、オヤジが警察に逮捕され檀家回りができなくなった。そこで急遽小学生の植木が覚えていたお経を称えながら檀家を回った、という。植木は元もと歌手になりたいとおもっていた。とくに、ペリー・コモにいかれていたらしい。あるときふと、口にした、

          すいすい~っと。。

というフレーズを仲間の渡辺(のちのナベプロ社長)が聴いてこれは歌になる!と、青島に作詞させた。ペリー・コモを目指していた植木はこんなふざけた歌を唄えるか!と抵抗し、オヤジに相談をした。植木の父親は、「わかっちゃいるけどやめられない~」という台詞は親鸞上人の教えに通じるところがある、おまえ、是非唄え!と説得されたらしい。

クレージーキャッツが流行ったのは私の中学時代。九州に修学旅行に出かけて帰ったその日、ちょうど田植えが終わった頃、わが田舎のイチバン美しい季節であるが、TVでクレージーキャッツ公演を放映していて、疲れも忘れゲラゲラ笑い転げたのを覚えている。

 

夕べ、ビデオをつけっぱなしにしていたら録画したまま放っていた稲尾投手(西鉄)の追悼番組になって、見入ってしまった。

稲尾に関しては想い出がある。私は名古屋で学生時代を送っていたが、あるとき軽食をとりに入った喫茶店で読んだスポーツ紙の記事が忘れられない(72~3年頃か)。当時、中日は弱く最下位をうろうろしていた。稲尾はそのころ、中日の監督をやっていた。伝統的に中日は広島に弱かった。広島遠征の夜間ゲームでカープにコテンパンにやられた深夜、広島市内のナイトクラブでひとり酒を飲んでいた稲尾が、突然、嗚咽し始めた、というのである。稲尾と知っている周囲の客はカープファンばかりだったろう。店内は粛然とした、ということだ。

                                    

稲尾追悼番組で、先輩である西村氏(西鉄投手)の語るところによれば、稲尾は責任感のあるオトコだった、と。西鉄の同僚・池永投手が野球賭博問題でプロ球界を永久追放になったが、稲尾は「おれにも責任がある」と、池永の名誉回復を訴えて関係者に働きかけを続け、ついに処分が解かれるに至った。

 

チェ・ゲバラの日記。読んだのは60年代末の正月。炬燵で寝っ転がって読んだ。母がその前年の秋、脳溢血で倒れ、ヒロシマ市内の病院で療養中の正月。オトコだけのわびしい正月、であった(母は奇跡的に回復した)。ゲバラはボリビアで革命運動を起こすべく、数十名のゲリラ部隊(出来のわるい兵もおおかった)を率いてボリビア山中を行軍した。その日々の記録が『ゲバラ日記』である。日記が途切れた日がボリビア軍から攻撃を受けた日だろう。チェは捕えられ銃殺された(その数年後に公開された映画『明日に向かって撃て』のラストを想い出す)。チェはキューバ革命をカストロと共に戦い産業大臣として建国にたずさわった。カストロと別れてボリビア革命運動に身を投じたがカストロとは、仲間割れだったのかどうか(カストロは無論、否定している)、未だ真実は明らかになっていないようだ。その年の正月、併せて読んだのは丸山真男『日本政治思想史研究』である。門外漢のわたしが、最後の行まで一気に読みおおせたのは著者の、氷をも溶かすほどの意志を行文に感じたからだろう。

 

チェ、も、

稲尾、も、

植木等も、

親鸞も、

わかっちゃいるけど、やめられなかったのだろう。

 

カストロは、一昨年だったか演説中に倒れて政界引退か。。とおもわれたが最近また復活した、という話をきいた。わかっているならやめてほしい。

 


岸田秀の押しつけ憲法論、あるいは、反=押しつけ憲法論 [history]

                                                                                     

2007年6月14日朝日新聞朝刊文化欄に岸田秀(心理学者)の短文『安倍改憲は「自主」なのか』  米に従属する現状、直視を』 を掲載している。 現実のニッポンは第二次大戦敗北後、米国の属国状態であることは誰しも認めるところだが、その現実を認めることをせず、憲法を改正すれば属国状態から抜け出せると自己幻想にひたり、その実質は一層の対米従属をもたらす。これをうすうす感づいていながら感づかない振りをしているだけ。岸田は、ニホンの隷属的状態を直視して、この現状を認識した上でそのなかで最善の国益を考えるべきであるという。現状で改憲すれば、これまで以上の押しつけ憲法になることはあきらか、という。

「さきの日米戦争において。。。(日米の)両陣営とも狂気に陥ったとしか見えないが、日本側の「狂気」にはそれなりの理由があった。破れれば日本が米に隷属する属国になることが火を見るより明らかで、それだけは断じて避けたいと必死にあがいていたのである。しかし日本は徹底抗戦をあきらめて降伏を選んだ。恐れたとおり日本は米に従属する属国になった。」

「わたし(岸田)はかねて日本の歴史を、外的自己を崇拝する卑屈な「外的自己」と、外国を憎悪し軽蔑する誇大妄想的な「内的自己」との葛藤、交代、妥協などの歴史として説明してきているが、日米戦争の敗北に際して日本は、戦争中には猖獗(しょうけつ)を極めていた内的自己を抑圧し、もっぱら外的自己で対米関係を維持する道を選んだ。

そして、内的自己が日本の不可欠の一部であることを否認し、この戦争は日本国民が気の狂った軍国主義者に騙され強制されたに過ぎず、日米の友好関係こそ本来の日本の正しいあり方であるとした。

もちろん、これは自己欺瞞であった。

この自己欺瞞によれば、憲法第9条は米に押しつけられたのではなく、日本国民の希求したものであった。

(略)

しかし、内的自己は抑圧されただけであって、消滅したわけではない。日本のあちこちに米軍の基地があり、日本がその占領下にあること、日本の外交政策はほとんど米に決定されていること、経済や金融や犯罪捜査の面でも米の意向に逆らえないこと、要するに、日本が米に隷属する属国であることは否定しようのない事実であり、抑圧された内的自己の自尊心はつねに傷つき疼いている。」

「しかし、今度の安倍政権の動きはタチが悪い。

今の憲法は押しつけ憲法で、第九条は二度と日本が米に戦争を仕掛けないようにするためであったから、この条項を改定し自主憲法を制定するというのが、安倍首相の意見である。

それはあたかも内的自己の立場を尊重し、日本国民の自尊心を回復するためのようだ。しかし、日本が米の属国であるという現状においては、事実上、米の許容する限度内での改憲しかできない。

今の第九条の歯止めを外せば自衛隊員は米が勝手に決めた戦争で世界のどこかの最前線に送られる消耗品になりかねないし、このように米に好都合な改憲は米の要請である疑いが濃い。今の憲法が押しつけ憲法であることは確かだが、現状で改憲すれば、これまで以上の押しつけ憲法になることは明らかである。

このことを隠蔽して、あたかも自主憲法をめざしていくかのように説くのは卑劣な嘘でしかない。

現状では、日本は米の属国として隷属的に生きていくほかはない。この現状を認識した上で、そのなかでの最善の国益を考えるべきである。この現状だって永久不変ではないから、いつかは変わる。その日を待って辛抱強く臥薪嘗胆の日々を送るしかない。

やむを得ない隷属的な政策を「対等」とか「自主」とかの言葉でごまかして、日本の従属的立場から目を逸らすべきではない。

そのような自己欺瞞こそが、そこから抜け出すためにはどうすべきかという道を見えなくさせ、必要以上に隷属的になっているのにその自覚を麻痺させ、結果的に歯屈辱的隷属を永続させるのである」

##

岸田秀は33年生まれ。この短文を一読するだけで生まれた年代は争えないな、とつくづく思う。私は、戦後、昭和23年生まれの団塊世代である。岸田との違いは、ひとことでいえば国家の呪縛などなーーんにもない、ということ。憲法が押しつけ、というが、別のブログ記事のべたようにそもそも、憲法が押しつけであってなぜ問題なのか?歴史的に見ても近代憲法の骨子をなす、「国民主権」「基本的人権」は何百年という支配階級(国王、封建領主、教会など)との闘争で得られたひとつの思想である(短期的に言えば、普遍思想とみなされた)。日本国憲法は、枢軸国がすべて敗れた歴史的エアポケット期間に米国政府の若手研究者(役人)が、再出発するニッポンに与えたプレゼントであるが、当時の近代憲法常識から比較しても、新規性のない当たり前のことが書いてあるに過ぎない。それより、GHQが日本政府に預けた新憲法の草案作成作業、その答えとして出した日本案があまりに酷すぎた。旧明治憲法の字句を変えた程度のシロモノなのである。そもそも、憲法を誰が文字として表現したか(日本人学者であれ米国の政府役人であれ)、がなぜそれほど問題なのか?重要なのは何が書いてあるか、である。細かな字句をもんだいにしなければこの憲法は世界の現状のどの国の憲法より優れていることはまちがいあるまい。平和主義=不戦・軍備不保持、が時の政権(日米)に不都合になっている、というだけを問題にしているのだ。しかし、この平和主義を謳った憲法によりニッポンは国際社会に復帰したのであり、世界の各国は日本がこの憲法により国家を運営することを担保したのである。平和主義をはずしたら、今後の世界はどうなるか?高度技術を兵器に適用し軍備拡張がどんどん進だけである。これを抑える力は働きようがない。英独仏は革命を経験し、その過程ですぐれた人権思想をとりこんだ憲章・憲法を制定しこれは、世界各国の人権思想主義者や国家運営者の基準となった。米国は創立以来、人間はすべて平等という思想を掲げたが現実においては長く奴隷制を継続し続けた。米国は、奴隷制が現実にあることをもって、米国憲法に奴隷制承認条項を追補したか?それはできないことなのだ。誰しも奴隷として生まれるのではないことは、誰にも分かっている普遍思想なのである。それと同じく、平和・不戦、武器を作らず持たず、使用せず、も普遍思想なのである。現実の情勢がソレを一時的に許さないからといって憲法を変えるなど、自己欺瞞的行為にしかすぎない。歴史に対する恥知らずの行為である。

岸田秀は心理学者なのであるから、憲法も心理学者として解釈して欲しいモノである。そもそも人間は誰でも、生まれてきたとき国家を選べない。親も家族も選べない。当然、憲法なども選べない。名前だって選べない。親の押しつけである。憲法も社会の諸制度(教育、政治、納税、労働、移住、人権なども法律で枠を決められる)も、押しつけであり、個人は憲法を含めた諸制度を、生まれて、教育を受けたある時期に知ることになり、これに背くと生きていけないと覚るのである。戦前を生きた人間にとって、明治革命実行者が作成した天皇制度など、押しつけ以外のなにものでもなかったろう。<押しつけ>かどうかは憲法に限らず、制度にとってはどうでもよいことなのだ(いわば、すべてが原理的にも、歴史的にも、事実としても押しつけなのである)。岸田やその他の論者は、<押しつけ>に拘泥しすぎている。(以下コメント欄に。。。) 

 

 しかし、憲法を含めた制度が押しつけであることと、規定する内容が押しつけ的(非民主的)であることは、まったく別である。押しつけ憲法反対論者が、現状のニッポンの基地や政策がほとんど米軍・政府の押しつけであり、日本国民や政府の自由になっていないことを、非難しないのは滑稽千万である。いや、政府は日本国民の側にではなく、米国政府の出先として機能している。山口県岩国市民が沖縄からの基地移転に反対の意思表示をしたとたん、防衛省が握っている特別補助金を山口市に与えない、という挙に出た、という出来事が先日あった。日本国民は米軍の意を組んだ政府の政策により、自分の払った税金さえ自由に使えないのである。こういう政府が、憲法を押しつけ、といっているのだから笑止。

http://www.gensuikin.org/gnskn_nws/0703_2.htm

安倍の叔父、岸信介は天皇機関論者である。岸信介は、新憲法の骨格というべき平和主義や民主主義の諸原則は認めていた。しかしそれでも、彼においては、国家の基本法が他国から<押しつけられた>こと自体が問題なのであり、それこそが民族の自立を阻害するというのだ。岸信介が巣鴨刑務所から出所し、政治に登場したとき、彼は国の独立を仕上げとは、まず第一に、憲法改正と等価であった。しかし、岸が憲法改正に執心したのは自分を刑務所にたたきこんだGHQのマッカーサー憎し、だけではなく、この目標をかかげることで保守党諸派閥を束ねる、という意図があったという(安倍も同じだろう)。わけても、岸は、戦力保持を拒む第九条の改正を強調した。日本敗戦と米国の対日占領の後遺症を根絶する方法はこの<憲法改正>をおいてほかにない、という。個人都合による憲法改正、なのである。コマッタちゃん一族、というしかない。


 

 

日本国憲法の誕生 憲法は押しつけであってはいけないか
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-05-13
佐藤優、山川均の護憲論、それに天皇制
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-04-15-1

 

日本国憲法の誕生    [history]

                                 

 

 

日本国憲法は昭和21年(1946年)11月3日に公布され、昭和22年(1947年)5月3日に施行された。公布の翌年、施行から3ヶ月後の8月2日、文部省は中学1年用の社会科の教科書『あたらしい憲法のはなし』を発行した。

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%84%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%97-%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E5%B1%8B%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/4887470150

http://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

口語体で新憲法の内容をやさしく子どもたちに説明している。全体の構成は次のとおりである。


        目次
一  憲法…………………………………………
二  民主主義とは………………………………
三  國際平和主義………………………………
四  主権在民主義………………………………
五  天皇陛下……………………………………
六  戰爭の放棄…………………………………
七  基本的人権…………………………………
八  國会…………………………………………
九  政党…………………………………………
十  内閣…………………………………………
十一 司法…………………………………………
十二 財政…………………………………………
十三 地方自治……………………………………
十四 改正…………………………………………
十五 最高法規……………………………………


第六章「戦争の放棄」の内容はつぎのようである:

六 戦争の放棄

 みなさんの中には、今度の戦争に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戦争のあとでも、もう戦争は二度とやるまいと、多くの国々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戦争をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
  そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
  もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
  みなさん、あのおそろしい戦争が、二度と起こらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。』

##

敗戦直後からの憲法改正への動きはつぎのようである(小学館『日本の歴史』第31巻、戦後改革、執筆者=大江志乃夫、p136~)。

昭和20年10月に成立した幣原内閣には憲法改正の積極的な意志はなかった。昭和20年10月11日にマッカーサーから憲法の自由主義化を示唆されると、憲法改正は国務であり、内閣の責任であることを閣議で決定した。しかし憲法担当の松本丞治国務相(丞は正確には<蒸>の草冠を取ったモノ、以下同じ)は、「成算はなにもなく、ただ調査だけをすることだ。(中略)この内閣だけでは調査は完了しないかもしれない」と語り、改憲をサボタージュする方針を明らかにした。しかし、日本の民主化を要求する連合軍の要求は厳しさを加え、天皇の戦争責任を問う国際世論も硬化しつつあった。

 

新憲法の草案は、帝国憲法の全文改正という形式をとって6月20日、第一次吉田内閣の手で議会に提出された。この間、幣原内閣の手で、政府草案の「要綱」はなお精密化と部分的修正ののち、片かな文語体から平がな口語体に改められ、枢密院にかけられた。松本丞治国務相は「国民の至高なる意志というけれど、政治的な意味をあらわしているのであって、主権の所在に変更を加えるものではない」と説明し、主権在民を否定している。

吉田内閣の憲法担当国務相は金森徳次郎であった。憲法審議で一番問題にされたのは、国体は変わったかどうかということであった。金森国務相は、この問題について1365回も答弁に立った。彼は「日本の国体は天皇と国民との心の奥において深い結びつきをもっており、いわば天皇は国民の憧れの中心である」という立場をとり、国体はかわらないという印象を与えようとした。吉田首相にしてから、昭和天皇自身が退位の意図を示したのにかかわらず、国会で「天皇の退位を口にするものは非国民であります」などとトンデモ答弁をしている。

金森徳次郎は「『国体』という言葉は、本来は法律上の言葉でなく、単純な学問上の用語であったにとどまるけれども、それが治安維持法が制定される際に、法律用語に採り入れられて、国体の変更を企てる者を厳罰に付する旨の規定ができた」とし、「天皇主権が国体の実体であるということを固定させて考え、即ち治安維持法に使った『国体』の意味をそのまま用いて議論を進めるならば、我々は国体を変格せられたりといって正しいのである」といっている。天皇機関説論者の金森国務相は、法令でない教育勅語の「国体」論を法解釈の手段としては認めない結果、当時の国体護持論とは治安維持法体制護持論のことであり、新憲法はこの治安維持体制としての「国体」を変革したものであると主張している。あいまいな表現でのこの治安維持体制としての「国体」を温存しようとこころみた国体護持勢力の意図は、「日本国憲法は、主権が国民に存することを認めなければならない」との極東委員会の決定を考慮して、議会審議過程で修正され、主権在民が(やっとのことで)明文化された。

現在の日本国憲法を形作っている源流は4つある。

1 主流は、マッカーサー・ノートの三原則と、これにもとづき、日本の民間私案をも参考にしながら起草された総司令部(GHQ)案である。

2 これに、日本政府の手が加えられて、憲法改正草案要綱が作成される。この段階で、第2の流れである幣原内閣の考えが合流する。

3 議会での審議段階で各党や国民諸階層の要求、つまり第3の流れが加わる。この流れは、GHQ草案や政府草案の段階にもとりいれられている。

4 第四の流れは、極東委員会(21年3月設立)決議の形をとった国際世論。主として議会審議の過程で採用された。

幣原首相が(その主観的意図としては)、天皇の地位を救う代償として軍備全廃を提案し、これがマッカーサーの賛成を得てマッカーサー・ノートに盛り込まれた可能性は強い(大江志乃夫)。「占領軍の終戦処理からくる徹底的な非軍事化政策のあらわれとしての反軍国主義的改革が、天皇制の温存とひきかえに、憲法改革に取り入れられ、現代憲法としても世界の中できわめて特色ある第九条の規範がつくられた」(渡辺洋三)。『毎日新聞』(昭和21年5月27日)の世論調査では、70%が戦争放棄条項に賛成しており、国民から圧倒的支持を得ていた。 

##

憲法草案の戦争放棄条項についての世論調査結果@昭和21年5月27日:

●戦争放棄条項  必要                       1495人(69.8%)

     草案通りでよい                        1117(55.9%)

     自衛権をみとめるべき                     278(13.9%)

●戦争放棄条項  不要                         568(28.4%)

     自衛権を放棄する必要はない                 101(5.1%)

     条約による国際保障をとりつけよ                72(3.6%)

     国民的宣誓とすれば十分                     13(0.7%)

     その他

●いずれでもない                               37(1.9%)

##

                                    

                                  

       帝国議会における憲法審議@1946

 

 

政府案が完成した昭和21年6月、国会でその内容の審議が始まった。これに先立ち法制局は「憲法改正草案に関する想定問答」を作成した。その一部を紹介する。

http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/118shoshi.html

http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/04/118/118_002r.html

「9条が国連憲章と矛盾するのではないか。将来、国連加入するときこの憲法では不都合ではないか(つまり、一定の軍備をもつことを国連憲章もようきゅうしているのではないか)」

。。という懸念(想定質問)に対する政府側回答(想定)は次のようである:

『。。。わが国は第九条第一項の示すように、永久に戦争を放棄することを国是とし、第九条はこの国是を鮮明にしたものでありますから、。。(略)。。この基本的立場を堅持し、むしろ、国際連合憲章自身に対しても批判的な態度をとり、連合加盟各国といえども将来はわが国に追随し軍備無き平和国家となるべきものであり、国際連合の究極の目的もこの理想の達成にあることを思い、この見地に立って国際連合を指導するの態度をとるべきものと考えることもできるのであります』

つまり、国連に対して、日本国憲法の不戦の誓いを、<押しつけよう> としているのである。なんと高邁で、確信に満ちた考え方だろう。

昭和26年9月5日、サンフランシスコ講和会議で、日本の独立を認められたのに対し、吉田全権が平和条約受諾演説を行ったが、吉田はこの『  』内のことを述べるべきであった。(そうではなく、吉田茂は講和会議当日の午後、サンフランシスコの米軍下士官会議室で、アチソン米国国務長官との間で日米安全保障条約の調印を行った。講和後の日本は、軍事面では米国に<下士官>として待遇されることになったのである。) そうすれば、連合国代表に不戦を憲法で誓約したニッポンの、深い印象を与えたろう。 今からでも遅くはないのだが。 日本の首相が、半世紀前の我らの先輩の考え方で通すことにした、それはこういうものである、と 半世紀前に示した覚悟を国際連合総会演説で示せば、日本もパアプウじゃなかったんだ、と見直されるだろう。

日本国憲法はGHQに押しつけられたという側面は確実にある。しかし、<押しつけ>がなかったらどのような改正がなされたか?いや、そもそも政府は改正をサボタージュしようとさえしたのである(明治憲法をそのまま維持)。上記のように松本丞治国務相を頭とする「憲法問題調査委員会」の試案は「第一条 日本国は君主国とす」にはじまる、明治憲法の焼き直し、というお粗末さであり、2月にGHQとの間で行われた憲法検討会でも、男女平等さえ認めまいとする有様であったのだ。

現在、日本国憲法はGHQに<押しつけられた>、という理由で改正をもくろむ連中がやっていることは強行採決につぐ強行採決。しかし、近代憲法は、英国、仏国、米国などの歴史を少し学べば明らかなように、各国が革命により血をもって獲得した<押しつけ>の成果なのである。国王や貴族、守旧階級に対して権力の制限を設定するのであるから彼らが抵抗勢力となり、国民自身にとっても旧い常識を改めるのだから精神的な葛藤が湧くのは何ら不思議はない。新しい制度を導入する場合、抵抗勢力が存在するのは当たり前のことだ。それを強権=暴力で抑え込むか、あるいは、戦争・飢餓(日本では終戦以後も数十万人の餓死者が発生した)による国民の疲労・厭戦・反省により獲得するか、個別の歴史状況による。すなわち、1945年に日本で発生した事態は、無血による革命なのである(戦争による大量の兵隊、市民の死と財産の喪失を伴ったが)。平和主義(不戦の誓い)は理想を宣言しているのであり、これを現実に(政治外交の稚拙により)戦争の危険があるからといって撤回すべきでないのは、米国やフランスの人権宣言に述べた人間はすべて生まれながらにして平等、という内容が、現実に奴隷や不平等が存在するからといって、撤回すべきでないのと同断である。人民主権、人権、平和(不戦)の現在では当たり前とおもわれる原理は人類が長年の歴史を経て獲得したものである。ということは、言い替えれば生まれ来る個人も共同体や自身による学習や教育を怠ると一代にして、その頭脳や常識は、数百年前、数千年前の無権利、強権、戦争状態に舞い戻る、ということである。

さらにいうなら、ここに名前が出てくる、半世紀前に憲法を議論している人びとは、戦争責任の一端を有すると思う。国民のすべてが戦争責任を何らかの形で有する。かれらは、その責任を深く反省して、不戦の誓いの印として不戦を誓う憲法を作成したのである。

万が一、憲法第9条を改訂する場合であっても、米国の憲法と同様に、旧憲法条文を削除するのではなく、旧憲法はそのまま残し、これに 改憲部分をアメンドメントとして追補する形にスベキである。こうすれば、われわれの先人が半世紀前に作成した高邁な憲法と、その半世紀後に国民の多数が賛成した恥ずべき改訂内容が、そのまま歴史として残ることになる。我々の子孫が日本国憲法の歴史を学ぶことができ、 われわれの先輩にも優れた人びとと、劣等の人びと、いろんなのがいたのだということを示すことができる。

わたしは、劣等の部類に入いるのは真っ平ご免である。

将来、国連憲章が日本国憲法の<旧第九条 不戦条項>を採用しよう、という時代が必ずくるだろう(そうしないと人類は滅亡である)。 そのときには、日本も、再々度、アメンドメント追補するのだろうか?さらにいうなら、ここに不戦条項を受け入れた半世紀前の国民や議員らは、戦争責任の一端を有すると私は思う。当時の国民のすべてが戦争責任を何らかの形で有するのだ。かれらは、その責任を深く反省して、不戦の誓いの印として不戦を誓う憲法を作成したことを忘れるべきでない。さらに、歴史的には第九条は第一条とパッケージで新憲法に取り入れられたのだが、この歴史的経緯にかかわらず、第九条不戦条項を廃棄する場合、第一条天皇条項の廃棄は必須となる。第九条を堅持したままでも民主化と、シビリアン・コントロールの徹底のため、マッカーサーと国体護持派により<押しつけられた> 第一条 天皇条項は 早晩、廃棄すべきものである。

 日本国憲法はGHQに押しつけられたのか?政府にとっては押しつけられた、のである。政府には明治憲法の国体(天皇統治)を維持することしか頭になかったのであるから。来るべき時代の主権者たる国民にとっては待ちに待ったものであり歓迎されたのである。政府の能力が国民の要求から遠く離反しているのであれば、たとえ外国軍であっても用できるものは何でも利用して、自己の要求を実現するのは当然のことである。敗戦前から戦後にかけて、日本国政府と国民とは憲法により実現すべき内容(統治の主権、戦争、基本的人権)に天と地ほどの差ができていた、ということである(GHQの内部も一枚岩ではなかった)。もちろんこれは、戦争の結果ではなく、これこそが戦争の原因でもあった。日本国憲法成立の法理を説明するに<八月革命説>が妥当とみなされるのは当然のことである。

 

         

City of Hiroshima & Tokyo, Sept/1945

 

                

 

 

参考資料

1 岩田行雄編著 『検証・憲法第九条の誕生』 
http://himawari823.no-blog.jp/unchiku/2007/02/post_a05a.html 

2 大江志乃夫 『戦後変革』 小学館・日本の歴史31

3 『占領時代』 集英社・図説昭和の歴史9
 

関連記事:

佐藤優、山川均の護憲論、天皇制  http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-04-15-1

岸田秀の押しつけ憲法論(あるいは反押しつけ憲法論)
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-06-14-1


『ユダの福音書』 & 『私家版・ユダヤ文化論』 [history]

『ユダの福音書』は、イエス・キリストとユダの関係に新たな光を当てる重要な史料です。新約聖書ではユダは裏切り者として非難されていますが、新たに発見されたこの福音書には、ユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは、イエス自身の言いつけに従ってしたことだと書かれています。
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/topics/n20060407_1.shtml
## 『ユダの福音書』

本日の毎日新聞、「この人・この三冊」、は荒井献。
『ユダ』

最近のユダ研究の成果を採り入れた三冊を紹介している。

最近発見された問題作が上記引用の『ユダの福音書』。

ユダは福音書記者が、イエスを騙って官憲に売った、と記したためこれを利用して、ユダヤ民族を迫害してきた。神学者や教会もこの解釈に乗ってきた。

ところが↑の説明にあるとおり、売ったのではなく、それはイエスの意志を遂行したのだという。イエスの肉体を官憲に引き渡すことにより、イエスの霊魂を肉体から解放し、人間解放の元型たらしめた、と荒井献は説明する。 キリスト教成立後、最初最大の異端として教会から追放されたグノーシス派の立場からユダ観を180度逆転したのだ、と。

最近、ローマ法王がイスラム教をめぐってバカな発言をし、すぐに撤回、謝罪した。だれも撤回が本心から、とは思うまい。
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20060917AT2M1601N16092006.html

いつまで敵を作りたがるのだろうか?

それより、大昔の賢人物語を後生大事に一字一句、しかも、つごうのいいところだけを都合のいいように解釈して、それで人々に説教を垂れたり、モラルの基準としたがるのは人類の悪癖。いつになったらこんなバカを止めるのだろうか。

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↑の記事を書いて、毎日新聞書評ページをぱらり、とめくったら、なんと、
内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書、の紹介。

サルトルは、ユダヤ人迫害には根拠がない、ユダヤ人とは反ユダヤ人主義者が幻想的に作り出したものだ、とまず紹介(当たり前のことである。こんなことをわざわざサルトルが言わなかければならないことがすでに欧州がイカレポンチになっていることの証明である)。

精神学者ラカンを引用「『ユダヤ人』というシニフィアン(能記:言語の表現=発音、言語の内容に対立するもの)を発見したことによってヨーロッパはヨーロッパとして組織化されたのである。ヨーロッパがユダヤ人を生み出したのではなく、むしろユダヤ人というシニフィアンを得たことでヨーロッパはイマのような世界になったのである」
↑これを作業仮説として、内田は、最期の結論を構築する。

「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に『知性的』と呼んでいるのである」

評者鹿島茂がわかりやすく次のような内田の結論を紹介する。

##引用
では、そのユダヤにおいて標準的な思考傾向はなにか?
それはレヴィナスが『ヨブ記』のなかに発見した、ユダヤ的アナクロニズム(時間錯誤)である。すなわち、人間は神の世界創造に遅れてきたため、自分が犯しもしない罪についてすでに有責である、ゆえにすべての責任を引き受けるように成熟していかなければならないという時間の倒立した思考法である。非ユダヤ人は「すでに存在するもの」の上に「これから存在するもの」を置くが、ユダヤ人は「これから存在させねばならぬもの」を基礎づけるために「いまだ存在したことのないもの」を時間を遡った起点に置くのだ。

非ユダヤ人にとってこうしたアナクロニズムとはどうしても思いつかない超絶思考法であった。そして、そのユダヤ人の知性の効率的な使い方に非ユダヤ人は嫉妬し、激しい欲望を感じ、「その欲望の激しさを維持するために無意識的な殺意」を抱くに至ったのだ。

構造主義を完全に自家薬籠中のものにした著者だけに可能な独創的ユダヤ人論」
###以上、書評の末尾。

生まれながら道徳的債務をしょわされるのが不幸なのか、生まれたら金を儲けろ、正しく振る舞えという俗世間道徳にまみれるのが不幸なのか。


『明治維新を考える』 『思想としての全共闘世代』 [history]

朝日新聞と毎日新聞の書評欄、つぎの3つの書評が歴史物、をとりあげている。9/172006

朝日新聞:
1 三谷博『明治維新を考える』有志舎
2 ユンチアン『ワイルドスワン』

毎日新聞:
3 小阪修平『思想としての全共闘世代』ちくま新書
著者インタビュー記事である。

1 三谷博『明治維新を考える』有志舎
明治維新、を歴史の謎として次の3点に整理している。
(1)武士が打倒されたわけでもないのに、黙々と秩禄処分を受け容れ、社会的自殺を遂げたのはなぜか?
(2)権力転覆の明解な原因もないのに幕府が瓦解したのはなぜか
(3)明治維新が「復古」の大義を掲げながら「文明開化」なる欧化策を推し進めることに矛盾を感じなかったのはなぜか。

なに?今更何を言ってるの?という感じ。これが謎なのか?
次のような回答はどうか?
(1)武士階層は当時、戦のできぬ官僚役人に堕していたのではないか?上意下達の官僚体制は残っていた(ただし、すべての藩が幕府についたわけでもないし、武士のすべてが藩主に付いたわけでもない。倒幕を目指す脱藩的行動もみられた。これは危機意識の現れ。国家のためというより組織防衛、自己保存本能から出た行動だ)
(2)幕府が武力で雄藩をだまらせるパワーに欠けていた。(しかし、破壊すれば、あるいは、復古すれば、日本という統一国家の対外的パワーが上がる、という保証は無かろう?)
(3)復古(伊藤博文による天皇制の設計)は、手段であり目的ではなかった(途中でそうなった)。文明開化に、国民の意思統合の「象徴」が必要であった。(したがって、安倍の『美しい国へ』でいうむかしから「象徴」であった、というのは明治以後についてはある程度当たっている。安倍は、だから象徴で問題ない、というのにたいし、わたしはだから、象徴も不要(明治以後の国民圧殺のイデオロギの元にもなった)、民主主義を危うくするし、実際したではないか、というのである)

まあ、読むに値する本ではあろう。図書館に予約しよう。

3 小阪修平『思想としての全共闘世代』ちくま新書
全共闘ものには、ナルチチズムに堕した本が多く読むに耐えない。この本も本屋で手にしたが、そう感じた。私も団塊の世代、この時代に学生をやったが何も語るものナシ。ただ、長期ストによる休校で、毎日テニスと読書、アルバイトに明け暮れていた。親に仕送りダケさせていた。

著者小阪が冒頭で引用している『全共闘白書』(新潮社、1994年、450頁)という充実した本があるのに、こんなものを今更書く必要性があるのだろうか。
全共闘世代とは、団塊の世代、という意味。小阪は勘違いしている。そもそも「団塊の世代」に思想などあるわけもない。全共闘運動の思想、ならありえようが。全共闘を、「世代」の問題にしようとするのは誤り。全世代の問題なのだ。つまり時代、の問題。 小阪の文章になぜこれほど緊張感がないのか、も気になる。新潮社刊『全共闘白書』を読めば小阪の認識がいかに浅く、オセンチかがよく分かる。

##
東大全共闘議長であった山本義隆はその後、塾講師をしながら物理学史『重力と力学的世界』『熱学思想の史的展開』等、三部作を書き、コペルニクス、ケプラー、ニュートン以降の力学や熱力学における人間の認識の深まりを跡づけた。彼なりの一つの答えであろう。山本義隆がこれを執筆中(雑誌『現代数学』に連載)、資料集めに苦労していた:

「。。この(執筆の)途中で、「共同利用研究所」と称される東京大学物性研究所に図書の閲覧を申し込んだのですが、よくわからない理由で拒否されたことは、やはり記しておきたく思います」(『重力と力学的世界』後記)

大学UNIVERSITYはイタリアで12世紀前後に最初に発生した組織である。当時、庶民にその門は開かれ、才能ある者は国籍階級を問わず門戸が開かれていた。丸山真男等にそういう大学をつくろうなどという意識はさらさら無かったろう。日本には、打倒すべきものは多い。

同書後記で山本は、つぎのような科学史家トマス・クーンのコトバに『わたしは実感をもって頷くことができます』、としている:
「。。科学の授業では、たいてい、大学院の学生にさえも、学生向きの特に書かれたものしか読むことを勧めない。。。。科学者の教育の最後の段階まで、独創的な科学文献文献の代わりに教科書が系統的に与えられている。この教育技術はパラダイムがあるから可能なのである。そのパラダイムへの信頼を教え込まれ、それを変えようと志す科学者はほとんどいない。。。この型の教育法を特に弁護しようと思わなくても、その持つ有効性は認めざるを得ない。もちろん、これは、おそらく正統神学を除いては、他のいかなるものよりも狭い型にはまった教育である。」(クーン『科学革命の構造』)

<パラダイムparadigm= クーンが科学史記述にあたって導入した考え。科学研究を一定期間導く規範となる業績。のち一般化されて、ある一時代の人々のものの見方考え方を根本的に規定している概念枠組み(大辞林を参照)>

全共闘時代をある程度考えながら生きた人間は、科学に限らずあらゆる分野で時代のパラダイムを変えるのがいかに困難か、を自分自身のその後の人生を含め深く実感したであろう。

「構内への機動隊導入などに現れた大学の体質、知識の偽善に向けられた怒り」。すべて戦前から現在まで一貫して変わらぬ大学であり、政府やそれを支える官僚、大学教師の資質は敗戦という表面的にはエポックメーキングな事態に遭遇しても、上っ面を一枚はぎ取れば、なんら揺らぐことはなかった。現在の大学の無様な政権追随は昔から予告されていた。これを心ゆくまで納得せしめたことは全共闘運動の貢献であった。70年前後でなくても、いつかは起こるイベントであり、潰されるイベントであった。

パラダイムとは何か?時代のパラダイムと、個人内面のパラダイムがあるはずである。前者は虚構であり、後者は個人の行動を決するリアルなものである。


坪内祐三 <昭和天皇の「発言」に私は失望した> 月刊文藝春秋9月号 [history]

文藝春秋9月号は、保阪正康の連続対談「昭和の戦争 7つの真実」70ページ、さらに
昭和天皇「靖国メモ」半藤/秦/保阪、
が読ませる。
ただし、記事、昭和天皇「靖国メモ」の天皇メモに対する読みは平板だ。とくに 坪内祐三の記事に比べると。(もちろん、日経が載せなかった部分、手帳のページの裏にうっすら写ったメモから、その裏のページもパソコンソフトで再現しているところなど、すごい!とおもわせるところはある)

坪内の記事は<人声天語>というシリーズもの、たった2ページの記事であるが、このメモを、深く、読み解いている(ようにみえる)。 題して <昭和天皇の「発言」に私は失望した>。

坪内がいうには、 天皇は過去の記憶を巧妙に修正している、と。

発見されたメモで、天皇はこう言っているS63.4.28:

「ある時に、A級が合祀され」「私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。

歴史的な経緯はどうか?

S53.10  東條をはじめとするA級戦犯が靖国に合祀
S54.4   これを新聞が報道
  
   。。であるから、S53あるいはS54から天皇は参拝をしていないことになるはずだ。 ところが、昭和天皇はそれ以前から靖国に参拝していないのである。最後に参拝したのは
S50.11.21のことだ。

この日付に天皇の<作戦が透かし見える>。

昭和天皇はS27からS44までに6回靖国に参拝している。それから長い中断を経てなぜ、S50に参拝したか?

それはS50にハト派総理三木が遺族会の票欲しさに8月15日、私人として参拝したからである。この時以後、政治問題化し、靖国は<この前の戦争>との関連で語られる事になる。<勘のよい昭和天皇はそのことを察知していた>。 だから、同年S50の11月に、駆け込み的に最後の参拝を済ませ、以後、参拝していない。。つまり、天皇の参拝中止は、<昭和53年のA級戦犯合祀>とは関係ない、というのが坪内のいいたいこと。 「以来参拝していない」それが彼(天皇)の「心だ」。

くりかえすと。。。

「天皇が参拝を中止したのは、A級戦犯たちの合祀以前の出来事であること。この段階で昭和天皇は、靖国を媒介に、自らと、この前の戦争との関係と、さらに言えば自身の戦争責任に距離を取ろうとした。。」

「参拝を取りやめた3年後、A級戦犯の合祀を知って、昭和天皇は、これでいよいよ自分は太平洋戦争の被害者であると思ったことだろう。そしてそのことに記憶を執着させただろう」

「しかし、A級戦犯と言われる彼らは、天皇の名の下に、日本を戦争へと導き、あのような結果を招いてしまったのだ。そういう臣下たちを昭和天皇は突き放した。
 このメモの出現を機に今こそ改めて昭和天皇の戦争責任が問われるべきだ」

これが記事の、締め、である。

坪内は言う「私は天皇制には無関心だが、昭和天皇は好きだった。それが昭和の日本人としての私のアイデンティティだった。
だから私の失望は大きい」

わたし(古井戸)は、天皇制は粉砕すべき対象とおもうが、昭和天皇個人は好きも嫌いもない、「天皇位」に就いていた一人の日本人にしかすぎない、と考えている。この程度のメモ発見、この程度の記憶の「偽造」で、失望したりする坪内の天皇への思い入れ、が ナイーブすぎるのではないか?あるいは、自身のメモリをこの「天皇メモ」で「偽造」ないし「再整理」しているのではないか?という疑いを持つ。「天皇制には無関心だが、昭和天皇は好きだった」人間が天皇の戦争責任をなぜ、いまになって、問い出すのか?問うべきは天皇制じゃないのか?

天皇の戦争責任を問うのに、この程度のメモ(S63.4.28)など、鼻くその役割も果たさない。戦争は、昭和20年に終わったのだよ。

坪内の指摘する 昭和天皇の<3年>という記憶の詐術は、詐術ともいえないのではないか?東條首相という人事は真珠湾以前から天皇は疑いを持っていた、その沸々たる疑いが記憶となって残っていた、<合祀>という事態で過去の記憶を整序した。。 この事態を、正直に告白したところで何ら問題ない。すなわち、坪内の勘ぐりすぎ、ということにもなろう。 

しかし、A級戦犯合祀は、天皇としては、ラッキー!であったには違いない。これは坪内さんのこの記事で教えてもらった。

戦前の立憲君主時代の君主であった「天皇」は戦後は存在しない。「象徴天皇」という呼称も誤解の元となるためこのましくない、戦前の天皇とは似ても似つかぬモノであることを明示するため「天皇」という呼称は廃棄すべきである、といった 横田喜三郎は正しかった(http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-13)。いまだに、天皇陛下万歳、といって死んだのだから、靖国には 天皇陛下がお参りすべきである、。。という人々がいる。 戦前の「靖国」、も、「天皇」も もはや存在しないのである。政治施設であった靖国は最初、GHQが考えていたように廃棄すべきであったろう。宗教的な実体はないのに宗教法人として残し、くわえて、厚生省の旧軍人グループが戦前と同じく靖国を実効支配しつづけるなど混乱の極みとなった。 戦争で死んだ霊を、「国家」として公的に祀る場所など、どこにも存在しないのだ。もって、瞑すべし。

##
文春の記事、昭和天皇「靖国メモ」半藤/秦/保阪、から、歴史学者秦郁彦の発言:
「もともと、A級戦犯の祭神名票を送ったのは厚生省援護局中の旧軍人グループです。
そして靖国側でも筑波宮司のほうから総代会へ諮ったわけではないんです。総代会のほうから、A級を合祀すべきだと要請した。とくに元大東亜大臣でA級容疑者として巣鴨プリズンに収容された青木一男氏が熱心でした。総代会は宮司の人事権を持っているので、宮司もノーとは言えず承知し、。。
 筑波宮司は、昭和40年に突然「鎮霊社」という小さな社を靖国神社の境内につくり。。ここには、白虎隊や西郷隆盛から、湾岸戦争の外国人犠牲者まで、とにかく靖国神社には入っていない内外の戦没者の霊を祀ることにしました。実はこの鎮霊社のなかにA級戦犯をくわえたんです。。」


『フリーター漂流』 あるいは エンゲルスのこと        書評 [history]

5月10日付け毎日新聞によると、2004年の自殺者も3万人を超え、これで98年から連続8年連続して3万人を超えることが確実になってきた、ということだ。(厚生労働省と警察庁では自殺の定義が異なるという。厚労省の値は警察より限定的であり、毎年1000人から2000人の差がある、と)。

自殺者統計。年齢別にみると高齢者が多く、職業別に見ると無職者が圧倒的に多い。
http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm

自殺者数統計は、失業率統計とは異なり、その影響は累積的である。男性の自殺が女性より多いから、家計収入の多くを負担している世帯主が自殺した場合も多いだろう。すると、その影響は家族全員あるいは親族にまで及ぶ。学校を中退しなければならない、職の身に付いていない主婦が働きに出なければならなくなる等々。自殺者一人の800倍の潜在的自殺者がある、という話もある。原因が個人の器質のみでなく、個人を取り巻く社会にその原因があるのならば、潜在的自殺者(自殺予備軍)はかなり多数になると考えるのが自然である。自殺者が出れば残された家族の経済と、心と、その後の生活に(おそらく、一生)大きな影響を与える。むしろ後者が重要かも知れない。自殺、という区分はどうなっているのだろうか?潜在的自殺願望者は病気になっても自立的に回復の努力をしない。そのため、病死と自殺の判別できぬ多い場合が多いと聞く。実際、私も仮に自殺したいときに重病にかかれば、自律的な回復努力などしないだろう。

上記毎日新聞に野田正彰のコメントがある:「自殺者の増大は格差社会の影響が大きい。勝ち組は弱者へのいたわりがなくなり、負け組とされる人たちは挫折感を強く感じさせられている。競争に勝つため、子供のころから相手に弱点を見せられず、本音が話せなくなり、人と人とのつながりが薄れている」

一冊の本がある。『フリーター漂流』松宮健一著、旬報社刊行、2006年2月。
著者はNHK記者。書名の番組に使用したインタビュに、追加インタビュを加えた本である。200ページのペライ本だ。10分で読めるが、内容は重い。

抜粋してみよう。
##
p70
給料日になって給料明細を見た瞬間、今井さん(25歳)の顔色が変わった。
総支給額は15万円ほど。そこから社会保険や夫婦二人分の寮費、さらに病気で早退した罰金まで引かれていた。
手取りの給料は7万円ほど。残業があった前の月よりも8万円ほどダウンしていた。今井さんは呆然と空を仰いでいた。
今井さん夫婦は、将来の出産や育児に備えて積み立てを始めるつもりだった。
7万円足らずでは、1ヶ月分の生活費にも足りない

p92
「請負業者は、若者が半年間、がんばって働いてお金を貯めるところです。技能を身につけようとする人には不向きな場所です。」(製造業社員から)

p93
「身につまされる思いでした。私はある電子部品の工場に派遣というかたちで勤務しておりますけれど、番組のすべてが私や私の周辺のスタッフの境遇にオーバーラップし、涙が止まりませんでした」(26歳、フリーター)
##

著者は「おわりに」で、コメントをつけている。
「おとなたちは「フリーターはいけない」と否定的に論じる一方で、正社員の採用数を減らし、フリーターを雇い続けてきた。国もこうした企業の動きを本気で止めようとはせず、フリーターを企業に供給するシステムだけが合法的に整えられてきた。この矛盾が若者達を追いつめてきた。」
「経済大国として享受している豊かさを取り崩してまで、若者たちを育てる場所を社会の中につくらなければ、根本的な問題の解決にはつながらない。」

豊かさを取り崩す? フリーターを低賃金で働かせたことによって生み出された 「豊かさ」といおうか? マスコミや識者は「格差問題」という。 そのむかし、おなじことを「搾取」といい、「貧困」ないし「窮乏」といった。 好きなときに解雇できるフリーターを採用すれば、企業の人件費は減るし各種手当て、保険費用の支払いは不要になる。その分、製品コストも下げられ、競争力もつく。しかし、いったい誰が製品を買うのか?結婚もできない、子供を産めないフリーターが増大する。親の介護もできない、自分たちの介護をやってくれる家族もいないし、費用もない。そういう国の未来を、誰か責任をもって、ケアしているのだろうか?もっとも安易な方法で目先の利潤だけを追う企業達、マクロの生活水準の帰趨を監視せず、企業のいいなりになっている政府。大量のフリーターが存在する時代の最低賃金規制は、当然見直して企業に正規雇用を確保するよう圧力を掛け、競争力は売り上げ増によりつけさせるべきである。労働者の負担による安易な利潤確保と政府の無策は日本を滅ぼす。軍事費に何兆円も捨てるような余裕は日本にはないのだ。

##

160年前の英国で労働者にインタビュを行って、労働者問題に関する著作を書いたのは若きエンゲルスである。その本の前書き。

「                     イングランドの労働者階級へ

労働者諸君!

諸君(イングランドの労働者たち)にわたしは一冊の著作をささげる。そのなかでわたしは諸君の状態、諸君の苦悩と闘争、諸君の希望と展望を、我がドイツの同胞の前にありのままに描き出そう試みた。わたしは長らく諸君のあいだでくらしてきたので、諸君のくらしむきについてはいささかの知識を持っている。諸君の暮らし向きを知ろうと、わたしは細心の注意を払った。入手できる限り、様々な公式、非公式の文章をわたしは調べた。だがそれだけで満足したわけではない。私の主題についてのたんなる抽象的知識以上のものを私は求めていた。わたしは諸君を自宅に尋ね、諸君の日常生活を観察し、諸君の状態や苦しみについて諸君と語り合いたかったのであり、また諸君を抑圧する者の社会的・政治的権力にたいする諸君の闘争を、わたしは目の当たりに見たかった。わたしは実際にそのようにした。中産階級とのつきあいや宴会、彼らのポートワインやシャンペンをやめて、ただの労働者との交際に、わたしは自分の余暇をほとんどもっぱらあてた。そのような行動を取ったことをわたしは喜び、かつ誇りとしている。

(略)

彼ら(中産階級)の利害は諸君の利害とは正反対である。彼らがつねに逆のことを主張して、諸君の運命に心底からの共感をいだいている、と諸君に信じ込ませようとしてはいるのだが。彼らの行動が彼らの嘘を証明している。中産階級の狙いは – 言葉ではどういおうとも – 労働の生産物を売ることができる限りは諸君の労働で私服をこやし、こうした間接的な人肉売買から利益を上げることができなくなるやいなや、諸君を餓死にゆだねることにほかならないのだ、という事実の証拠を、わたしは十二分に集めたつもりである。諸君にたいする口先だけの善意を証明するために、彼らがなにをなしたというのであろう。諸君の苦しみに対して、少しでもまともな注意を払ったことが一度でもあったであろうか。6つほどの調査委員会の経費を支払う以上のことを、彼らは行ったであろうか。委員会の膨大な報告書は、内務省の書棚の紙くずの山の間で永遠に眠ったまま埋もれる運命にある。

(略)

私の英語は純正なものではないかもしれないが、平明な英語だと見てくれるものと思う。イングランドでは – ついでにいうならばフランスでも – 労働者は一人として私を外国人あつかいしなかった。結局のところ大きな利己心にほかならない国民的偏見や国民的自負に諸君がとらわれていないことを知って、わたしは大変うれしく思った。

(略)

諸君が人間であり、自分たちの利益と全人類の利益とが同一であることを承知している、人類という大きくて普遍的な家族の一員であることを私は知った。そしてそのような者として、この「単一不可分の」人類という一家族の一員として、最強の意味での人間として、そのような者として、わたしは、そしてまた大陸の他の多くの者たちも、あらゆる方向での諸君の進歩を歓迎し、また諸君の迅速な成功を希望する。
(略)」  

以上、フリードリッヒ・エンゲルス著 『イギリスにおける労働者階級の状態』の前書き(岩波文庫)から。

エンゲルスは、22歳で父親の経営するマンチェスターの工場にオランダからもどり、当時、世界の木綿工場の一大拠点であったこの都市で資本主義の現実をまのあたりにした。彼は事務所で勤務するかたわら、そののち彼の妻となる、アイルランドの紡績女工、メアリ・バーンズとともに、マンチェスターの各地を歩き、労働者の家を訪ね、貧困の支配する彼らの日常生活についての知識を深めていった。彼はこのような個人的な観察や交際を通じて、「イングランドのプロレタリアートとその努力、その苦しみと喜び」を知ったのだ。

『イギリスにおける労働者階級の状態』は1844-45年にエンゲルスの故郷プロイセン、バルメンで執筆され、1845年ライプチヒで出版された。エンゲルスはこのとき25歳であった。資本主義の実態を知ったエンゲルスが、資本主義の内部構造の分析を開始するのはこのころである。

1844年の8月、エンゲルスはフランスを迂回して郷里バルメンに帰ったが、彼が、パリのマルクスを訪れ管鮑の交わりを結んだのはこの折りである。両者は驚くほど意見が一致していることを発見し意気投合した。

当時エンゲルスは工場主を父とする一私人でありなんら公職には就いていない。 いま、このとき、毎年だまっていても6000万円の俸給があるニッポン国の国会議員、や厚生官僚らのうち、何人がフリーター問題(搾取、窮乏問題)を、自分らが解くべき問題、あるいは、ニッポンの大問題、として真剣に考えているだろうか? 首相や馬鹿な評論家はフリーター問題を「格差」問題と考えている。資本主義経済で格差ができるのは当たり前、これを恨まないような人間になれ、と説教をするのだ。格差を問題にしているのじゃないのだよ。絶対的窮乏なんだよ。現在生きるため、かつかつの給与しか与えず、年金や税金はしっかりふんだくっては、預金などできるわけもない、すなわち、結婚もできない、もちろん、子供ももてない。つまり、日本の次世代がなくなる、ということだ。現在の国民の幸不幸を考えない人間に、次世代、次々世代のシアワセを考えられる想像力がないのは当然のことか。人口が大幅に減る、ということの<政治的意味>が分かっていないこの国の政治家には絶望するしかない。それでいて、いませっせと<愛国心>法案なるものを審議しているというのだ。ブラックジョーク、である。国民の税金で養われ、憲法に謳う<文化的生活>を国民に提供の義務がある公人でありながら、究極の<私人=エゴ人間>たちである。失せろ。(private <= priv (奪う)。公務を離れることをいにしえの西欧では Priveと言ったらしい。)

エンゲルスの頭脳と行動力と、資産のない我が身を恨みたい。

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記載に当たり、岩波文庫『イギリスにおける労働者階級の状態』と 廣松渉著作集第9巻を参考にした。

関連記事:
https://www.so-net.ne.jp/blog/entry/edit/2006-03-19-3

 ブルジョアジと貧民 (岩波文庫から)


十五年戦争とパール判決書 by 家永三郎 [history]

パール判決書も、パール判決を論じた(読むにタル)論評もなかなか見あたらないのだが、幸い、近くの図書館に所蔵の「家永三郎集」第12巻、岩波書店刊、に 十五年戦争とパール判決書、というタイトルの論文がみつかった。 論文執筆は、1973年である。

一読、パール判決の問題点はこれで重要なところは論じ尽くされている、と感じた。

家永著作集は図書館で簡単に読めるはずだから興味ある方は読んでもらいたい。

以下、簡単にこの論文の概要を示す。家永は、このパール意見のうち、歴史的真実の究明と歴史的評価にとうたつするため、なにが有益な見解であり、なにが有害な見解か、を判決を引用しながら述べている。

以下、引用のページは著作集のページを示す。 家永論文の引用は「」で、論文中、パール判決の引用は『』で区別して示す。

「パール判決書は、戦犯裁判という刑事訴訟の判決として書かれたものであるから、当然事実認定と法律論との2側面を含んでいる」

「まず、法律論のなかで、極東軍事裁判所の有罪判決(多数意見)をもって事後法の遡及適用を認め、これに反対したことは、傾聴に値するところと考えられる」
「したがって、日本の遂行した戦争の性格とか、被告の演じた役割とか、その他事実認定と関連する一切の争点から切り離し、純粋な法理論のみに論旨を限定するならば、この点で有罪判決のうちに問題の含まれていることは争いがたいのではあるまいか」

このあと、法理的に、遡及適用とはいえ、一定の効力は持つ、という他の論者の意見を紹介している。

p79.たとえば、横田喜三郎は、戦争戦犯を「古い秩序が破壊され、新しい秩序が建設されようとしている転換期」のいわば革命裁判に類するものと考える観点から、あるいは、団藤重光は、「国際平和の確立」という平和主義的観点から、この裁判における事後法の適用を支持した。
しかし、
『国家はそれがどんな国家であっても、又戦勝国であるか敗戦国であるかを問わず、過去の行為に対する俘虜の責任に影響する「事後法」を制定することはできない』とした「パール判決はこの点に関する限り正論であったとしなければなるまい」

しかし、法理論に関する部分は上記の限りでは問題ないが、パール判決の全理論を肯定することができない、として、家永は、パル判決書につけた 次の田岡良一の主張を引用する(講談社学術文庫版『パル判決書』の序文に掲載してある)。。p80 

- パール判決のように、従来いかなる種類の戦争も犯罪もしくは違法とならなかったとする見解は適当でなく、不戦条約の禁止に背いて武力を行使した国は、不法行為をなしたものであるという説の方が、妥当と思われるし

- 自衛権をいついかなる場合に行使するかは、国家自らの判断に任せられた問題であり、その正不正を問題とすることはできないというパール意見も正しくない。

- 自衛権の行使は、第一次大戦以後、「非常に狭い意味のものとして用いられるようになっ」ていて、その行使が正当な限界を超えていなかったかどうか」の批判を免れるものではなく、完全に国家の自由に任せられていない、と(田岡は)論じる。

そのあとで、家永は
「私も田岡氏に同感であって、自衛権概念の拡大解釈とその行使についての国家の恣意を許容することにより、日本の戦争行為の違法性を全面的に否定したパール判決は、後述の事実認定とあいまち、日本を曲庇する結果となっていると考えざるを得ない。この点をさらに具体的に考えるため、次にパール判事の事実認定の部分の検討に映りたいと思う」

として、続くp81-88(著作集)で パール判決の事実認定の誤りを説明している(上記の部分だけで、止めておけばパール判決書の輝きはかなり増していたであろうが。。)。 この部分は個々では簡略したい。というのは、現在当事者の証言などから多くの事実が明らかになってきており日本が中国を侵略したという事実は明らかになっているからだ。しかし、家永は次のような保留をまずつけている。p81

「パール判決の事実認定は、極東国際軍事裁判所の法廷に顕出された証拠の質・量に制約されたものであり、その後、20年に近い年月の間に学界に提供されたおびただしい新史料とそれに基づく学問的研究の成果に照らし、いちじるしく不満足なのは当然であって、全く条件を異にする現段階から批判を加えるのは当を失するとも考えられるが、しかし、冒頭に述べたように、今日の時点でパール判決書が一部の人々によって効果的に利用せられつつある現状にかんがみると、特に判決に影響を及ぼすような重大な事実誤認については、そうした事実誤認が存在すること、そしてその点を是正するときには判決の全論旨の妥当性がおのずから問題となってくる可能性のあることを指摘しておくことは、やはりどうしても必要なのではあるまいか」

長い引用だったが、この引用でも、家永が批判するにあたって、公正への配慮を欠かしていないことが分かるだろう。

事実認定の誤りのうち代表的なもの、かつ、重要なのは、つぎのことである:
- 日本の対中国戦争行為は1931年9月に始まる満州事変から1945年8月に至る。戦端となった柳条湖事件について パール判決はこれを、中国側の陰謀による、という「認定に傾斜している」p82

ここで「傾斜している」と書いているのは、パール判決のこういう箇所は法律家らしく断定を巧みに避けた、留保をまじえた複雑な構造を持つ文章になっているからである(したがってパール判決文章を簡単に引用できない。引用しようとすると、すごく長くなり、しかも、部分的な引用では言いたいことを曲げることになる)

事実認定の検証を終えたあと、p84で家永は、つぎのように述べている。
「裁判において、量刑にあっては言うまでもないところであるが、法律論や事実認定にあっても、裁判官の世界観・社会観から影響を免れるものでないことは、すでに法社会学の領域で確認された、疑うことのできぬ経験法則である。柳条湖事件についての事実誤認は、単なる証拠の制約やその見方についての技術的操作の誤りから由来したものというよりも、むしろパール判事のイデオロギーと深い関連をもっているのではないか、という疑問を提起してみることも、けっして不合理でない。また、そのような問題を設定するとしないとにかかわりなく、私はパール判決書の全文を通読し、その全編を貫くパール判事の強烈なイデオロギ的偏向に一驚せざるをえなかった。このことも、従来何人によっても指摘されていないことろであるから、節を改めて一言しておく必要がある。」

この最後の「イデオロギー的偏向」については、前記事(東京裁判)で私も述べておいた。素人が30分立ち読みしただけでも、気が付くような偏向的見解は、そのまま載せておくのは明らかに判決書の説得力を弱めるだろうにかかわらず、掲載するというのは相当の信念なのだろう。

それにしても、私が読んでもそのイデオロギ的偏向が目に付くというのに、家永によれば、73年まで、誰もこれを指摘しなかった、とは。

p85-88では、「イデオロギー的偏向」の箇所を説明している。事実認定と同じく、非常に用心深い文言であるから引用すれば、長くなる。ひとことでいえば、共産主義に対する強烈な敵意が示されていることである。(これは、連合国側とくに米国の、数年後の政策を考えれば、奇妙に考えられるほどだ。いまから考えると。つまりパール判決は長らく封印され、印刷出版がGHQにより許されなかった)。

家永はパール判決を要約している。p89
「。。。正義と人道とを法の領域において明らかにしようとする鋭い法曹的良心と、強烈な反共意識に貫かれた政治的イデオロギーとの奇妙な交錯の下に織り出された、複雑な性格を帯びた文章である、というべきであろう」

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著作集では、家永氏の上記論文につづけて、東京裁判を勝者の裁判と従来から主張しているマイニア教授(著書”Victor's Justice”、Tuttleから安価なペーパーバックで入手できる。わたしも何十年か前に読んだ。そのときはよくわからなかったが。翻訳もあり)の上記家永論文に対する反論に応答した家永の文章を掲載している。家永は、マイニアからの批判を、軽く一蹴している。

さて。。。この著作集の文章を読んで、わたしのブログ記事(東京裁判)は影響を受けるか? 全く受けない。

わかったことは、パル判決のうち、

- 事実認定は現在の視点からみて話にならない、誤りを含んでおり、
- いまでも有効と思われる法理部分すなわち 事後法の遡及的適用不可、の原理も、いかなる場合にも通用するわけではない、

ということである。

いまでもパル判決を後生大事に抱えて(おそらく読みもせず)、日本無罪論を説く論者がいるのは笑止、ということである。講談社文庫版パル判決書の訳者らは、訳書出版にあたりインドのパル判事を訪れ、序文執筆を所望し、パルに断られたという。執筆者の魂胆がパルにも分かったのであろう。懲りない人たちである。

わたしの引用(箇所)に不安があるとおもわれる方は、是非、家永三郎著作集のこの巻(第12巻)を図書館でよまれることを希望する。10分もあれば読める量である。この巻は 15年戦争に関連する論文、エッセイ、書評などを収録している。

 

<関連ブログ記事>

パール判事の冒険:

http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2007-08-15

 

 


東京裁判  天皇制/北一輝 [history]

  北一輝(輝次郎) 1883-1937      


朝日や毎日新聞が、4月末から5月始めにかけて、東京裁判特集を連日やっている。

夕べは本屋でパル判決書(講談社学術文庫)を読んできた。といっても上下本併せて2000ページの文庫本。パラパラと重要そうな所を、30分立ち読みしてきたのだが。(パル判決書、政府が只で、全国民に配布するとか?      ジョーク、よ、ジョーク)

パルの結論は、被告は無罪、というものだ。これは当然の判決である。東京裁判(極東軍事裁判)では、検事側(大幅に米国の意見がはいっている)の訴追した点が果たして、妥当するのかどうかを判事が判断し、弁護士は訴追から被告を守るため反駁する。パルは 検事側が提出した罪状は、当時の法律枠組みからして、罪にあたらず、といって、門前払いしているのである(個別審査というより形式審査で門前払いに近い)。

つまりパルの下した診断は、「当時の国際法で個別の戦争を裁く枠組みはない」といっているにすぎず、これを勘違いして ニッポンジン被告はなにも「悪いことしてない」よ、などと、おもうからおかしくなってくる。法律枠組み、など、どうでもいい、というところから、日本人(われわれ)はこの戦争を裁き、責任者を特定し、処分する必要があったのだ(もちろん、中央政府官僚軍人だけにとどまらず、各地方政府や組織にその影響は及ぶだろう)。これはこの 極東軍事裁判、とはまったく違った次元の裁き、である(東京裁判があっても、これは完全に、やられていなかった。いまだに)。

論理的に、この法廷では、パル判決の通りで無罪、となってもよいものである。そのあとで、国民による「法的根拠のない」(あるいは、裁判のための暫定基準を設定する)審判が必要であったのだ、これは、すなわち人民裁判あるいは革命裁判でしかありえない。 端的にいうと、パル判事の下した(現在でも通じる)「遡及的審判の無効」を overrule=却下するのである、この革命裁判では。

第二次大戦において天皇を含め日本側指導部(軍や政府)を裁ける法律は、当時の明治憲法を含めて、存在しないのだ。明治憲法にしたがって、さばけば、天皇を含めほとんどの指導部が無罪となるだろう。

これでよいか?ということである。

よくはない。パル判事の結論は当たり前のことなのである。パルは、審判を解決したのではなく、きたるべき<審判>への開始をつげたのにすぎない。 すなわち、日本人が、日本人の手で、責任者を裁く必要があるということなのだ。これは法律のない、裁きとなる。つまり、革命裁判なのである(パルは事後法による遡及的審決ままならぬ、といっているが、革命なのだからそんなことに頓着する必要は無論、ない。事後法でよい、のである)。よってたつ根拠は、ない。フランス革命と同じ、「無法」の、正義、なのである。

つまり、<米国主導の連合国勢力>を利用した、日本人民の裁き、と極東裁判を「みなす」のである(すり替える、といってもよかろう)。その結審が多少不十分や過剰であっても受け入れるのであり、 絞首刑にするのは、個々の日本人であり、私(古井戸)、なのだ。

<追記:新聞によると、判決直後(A級戦犯)、判決を妥当と思うか、という当時の調査に対し、賛否半々くらいにわかれていたそうだ。自主裁判も検討jされたらしい(どういう理由からか、この案、採用と成らなかった。自主裁判、冗談としか思えない。イラク人判事が法廷でフセインに手を焼いている。あんなふうになるのかな。映画にしたらオモしろかろう)>

もちろん、敗戦直後、本来なら革命を起こして日本人が天皇を含む政府や軍を処分しなければならなかったところ、知恵も、精力も尽きていた、能無し国民だったのだからしょうがない、それに政府軍部を非難しようとおもってもできない後ろめたい輩がおおかった(手の汚れていないやつがいない状況で、どうやって自主裁判を、開くのか?開廷してもたちまち頓挫、全員無罪、万歳!になることは目に見えている)。米国はじめ連合国側に「勝者側の正義」で裁いてもらうしかなかった、あるいは、代理で革命裁判をしてもらった、ということ。このように「見なして」この裁判を追認するしかなかったのである。かりに「東京裁判」という儀式がなく、後始末はおまえらでやれ!と連合国がさっさと帰ったら、そのあと、日本はどうなっていたか?想像してみれば良かろう。そのあと、どう、決着、着地させるのか、実現可能なプランを示せないものは「勝者の裁判」に従うしかないのである。

これ以外にこの裁判を認める思考法はあり得ない、と私は考える。

自分のこととして、東京裁判を考えなければならない。東京裁判は正義の裁判などではない。裁判でさえもない。つまり、第二次大戦はGHQが引き上げるまで継続していたのであり、東京裁判はもちろん、「戦争の一部」なのである。それが悔しければ、正義の国を建設し、国際世論に恃んで反撃するしかあるまい。2006年の今、世界世論に訴えられるどのような正義を日本が、もちあわせているか?問うてみるがよい。(米国勢力が残っている限りイラクのフセイン裁判は、正義の裁判ではなく、イラク戦争の一部としておこなわれている、ということだ。「勝者の裁判」論者は、フセイン裁判も 勝者の裁判だ、と異議申し立てしたらどうか?米国の原爆を非難している連中は、パル判事が原爆投下を非難したように、劣化ウラン弾をつかい、根拠のない先制攻撃をした米国を公式に非難するよう政府に要求したらどうか?これもしないで、東京裁判に文句をつけられるわけが無かろうが)。815で戦争が終わった、というのは形式、だけである。占領軍の民主主義政策も日本に任せていたら実現もおぼつかなかったろう。アジア人を別にしても、絞首刑を受けたものは東條を始め、300万という当時の <天皇の兵士>、をむざむざ、餓死などにより殺してしまった。被告達が逃亡などせず(罪は認めなかったが)従容として死に付いたのは当然のことである。今更、墓を暴こうというのは、東條はじめ受刑者達の拒絶するところだろう。 多数の兵士や市民達を死に至らしめたのは政府軍部の責任であるのに、いつまでも税金から莫大な遺族年金をばらまき続けて選挙目当ての集票道具にしているのは死者への二重の冒涜、これを死者達に対して恥ずかしく思わないのはすでに、人間失格である。

現在の政府幹部や国会議員の一部が、口を開けば「亡くなった方々の尊い犠牲があったからこそ今日の日本の繁栄がある、死者に対して哀悼の誠を捧げる」などと言っているのは意味不明のごまかし言辞である。「政府軍部の愚劣な判断により、死ななくてもいいのにむざむざ命を落とすハメになり、残る家族に多大な人的物的犠牲を与えたのはわれわれ政府と官僚軍部の重大な過失であります、かくも愚劣な政府、軍部にもかかわらずこれほど日本が復興したのは死者ではなく、生き延びた国民の勤労によるところがおおきい、政府の無作為と失政を心より死者にお詫びするとともに、国民の皆さんが復興のために流した血と汗に対し、心から感謝申し上げます。」と 政府が(国民が、ではない、道連れにするな)国民に、陳謝と感謝の意を表するべきなのである。

「愛国心」とは、主権者たる国民を愛することを、つまり、政府や官僚等が国民に対して払う奉仕の心得であり、国民に対して政府が要求するべきものではない。(ついでに言っておくと、ケネディ大統領の「政府がなにをするかでなく、国民が国になにができるか。。」云々は民主主義の原則を忘れたケネディの(意図的)大失言あるいはハッタリである)。

パル判決を読むと、パル(インド人)にも相当な偏見があることが分かる。近代、植民地化を当然のこととしてアジアを侵略し続けた西洋に対する強烈な報復心。西洋に永年侵略され続けたインド、中国、はじめアジア(の代表ニッポン)を 西洋が裁く権利はない、という意識が強烈にあるようだ。この点は同情に値する、が、アジア(日本)がアジアを襲ったのであるし、なにより、日本人支配者がその国民の人権生命財産を崩壊させたのだ。明治憲法に照らして、人権、生命、財産など存在しない、とでもいうのなら判事などになるべきでなかった。判決の文字にしてはならない部分だ。

勝者による裁判、をバカの一つ覚えのように繰り返すあほな日本人がいまだにゾンビのように生存している。他人に親切にされると(されていると誤解して)、すぐへらへらすり寄るニッポンジンのこらえ性のなさ、いまごろ、天国のパルも苦笑いだろう。「おれのやったこと、ちょっとやりすぎじゃったか?あはは」

                            ###

昨晩から、植村邦彦『近代を支える思想- 市民社会・世界史・ナショナリズム』(ナカニシヤ)を読み出した。とくに、世界史やナショナリズムに関する論考に教わるところが多かった(同じ著者の、『アジアは<アジア的>か』はこの本の続編である。途中で中断して、上記の本を読み出した)

このほんで驚いたことをまず、書いておく(小さな事だが、前から疑問だったこと)。
なぜ、馬場辰猪、が英語をやったか(英国留学時、英語で日本語文法解説書、を書いた)?彼は日本語がそれほどできなかったのはなぜか?ということ。わたしにはこれが不思議でしょうがなかった。理由は、なんのことはない、当時、まだ、「日本語」がなかったのだ! 馬場は土佐弁しかしゃべれなかったのである。当時、ニッポン共通語=標準語というのはなく、彼も 東京の福澤諭吉の主宰した塾で幾度も孤立を味わった。塾生同士で激しい議論になったときは、「英語」を使わねばならなかった、という状況だったのである。 そのあと、標準語を政府が急遽、つくったのである。(文部大臣森有礼が 英語を国語にしよう!と提案したのもこの文脈で考える必要がある)西欧化、が課題であったから続々、欧米語の和訳(造語)が必要となったであろう。

もう一点、基本的なこと。
ナショナリズムがまずあって、ネーションができること。闘う相手(外国)、ができたとき、ナショナリズムが勃興し、つぎに、ネーションが起こる。逆ではない。

英国留学中の馬場辰猪

さて、植村は、天皇制は、伊藤博文の作品であるという(いまでは常識だろうが。。これは次に述べる久野収が半世紀も前に、もっと簡潔に述べていたことなのだ)。天皇のコシキ豊かな、行事、というのも明治になって創られたもの、1000年の歴史。。なんとかいうのも嘘である。天皇が稲を植える儀式などもすべてこのごろ設計されたのだ。江戸期には天皇も中国式の衣服をまとっていたらしい。

このことを突いて(つまり、天皇というのは明治になってぶち挙げたものでそれ以前はありがたい物でもなんでもなく、むしろ代々の支配者は虐げてきた)天皇完全機関説を提唱したのが北一輝。昨日読んだ(何十年もまえに、とっくに読んだもの、と思っていたが、全然読めていなかったわけだ。恥ずかしい)、岩波新書「現代日本の思想」久野収、鶴見俊輔著、の第四章
           日本の超国家主義 昭和維新の思想
に、久野収が 伊藤博文の 明治設計(天皇設計)をズバリ、と書いている。

p126
「明治以来の伝統的国家主義は、思想というよりも、制度であり、思想はこの制度をまもり、動かすための解釈のシステム以上に出ることはなかった。そしてこの制度を作り出したのは、伊藤博文を指導者とする明治の元老達であった。

。。。。

伊藤が明治天皇を中心として作りあげた明治の国家こそは、なによりも一個のみごとな芸術作品のモデルだとみなされてよい。そうみえないのは、伊藤たちが国家を作りだすために使った素材に幻惑されるからであり、みごとな芸術作品として、それが自然的所産にみえ、伊藤もそうみえるように努力したのである。在来の日本の伝統も、外来の制度や思想も、素材として使用されたのであって、どれかがそのまま作品としての国家の構造を支配したのではなかった。」

この伊藤のつくった制度(明治憲法)を 伊藤自身の論理により、つまり内在する矛盾として論破したのが北一輝であり、それをついだ、吉野作造である。北と吉野。この二人の営為に、この章はほぼついやされている。 この章は、先日紹介した坂野潤治『明治デモクラシ』の付録となるべき書き物である。

久野がこれを書いたのは1956年、半世紀前のことである。『国体論及び純正社会主義』は当時第四編「国体論の復古的革命主義」 しか出版されていなかった。(しかし、この主著でもっとも重要なのはこの第四編であり、他はなくてもよい、というくらいのものだ。是非、この編だけでよいから現代語訳してほしい)。久野は北一輝の論理をこれだけで全面展開する。さらに、大逆事件を逃れた北がシナ革命にどのようにかかわり何に挫折したかも書いている。 ニッポンと中国での挫折。 北一輝は、日本の中国侵略と中国の反帝国主義運動の衝突する中で、板挟みの拷問にあい、進退窮まった。最後に、法華教の行者として神懸かり的信仰に血路を見いだすしかなかった。。p164.

伊藤 対 (北一輝 + 吉野作造)、の闘い、といってもいいだろう。(坂野の本は設計側つまり伊藤側の狙い、に関する記述が少ない、これはテーマからしてしかたがない)。

これを読んで、ふと、上山春平の『埋もれた巨像』(岩波書店)を思い出した。上山によれば、8世紀、天皇制を築き上げた、つまり、国家を設計したのは、藤原不比等であり、これは不比等の単独作業であった。伊藤は明治の不比等、か?

とまれ、明治憲法になって導入された天皇制であり、その天皇制が戦争を起こし(戦争自体は主権国の権利だからどうということはない)、失わずに済む多くの生命財産を失って国民に苦しみを与えたことは明らかなのであるから、1945年革命時点で、天皇は廃棄、すくなくとも、明治憲法前の状態に「復古」すべきであった。天皇利権グループがGHQと謀って、これを象徴性として残し、米国の国政への関与を残したことが、ニッポンが現在米国の植民地的状況になりはりはてている一因となっている。すなわち、現憲法の第一条および関連する法律(皇室典範)は廃棄すべきである。http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-13

天皇は茶道華道の家元と同じくクラブ制にして残しておくのがいちばんいいとおもう。もちろん、そうすれば私人である家元は選挙に立候補するもよし、民間外交するもよし。基本的人権を与え、人間として扱ってあげましょう。今の状態はひどすぎる。

岩波新書『現代日本の思想』は上述の第4章のみが、いまとなってはもっとも重要である。この本は今、ブックオフで100円で売られている。久野のすごさは、この第四章 日本の超国家主義で、いまや 「エース」である北一輝や吉野作造のみをとりあげているのでなく、純然たるテロリストもフォローしていることである。この章の冒頭は、安田財閥の当主安田善次郎を刺殺し、その場で自決した神州義団団長、朝日平吾の 遺書の検討から始まるのだ。この点、坂野潤治『明治のイデオロギー』の手法と異なる。坂野は「本書が本当の保守派を分析しなかった理由は、それがあまりに単純であり、しかも筆者が全く好意を抱けない思想だからである。明治憲法下の日本では「万世一系」の天皇個人が権力のすべてをにぎる「主権者」であるという主張には、知的興味も、何等の好意も抱けなかったのである」(『明治のデモクラシー』あとがき)として、本当の保守派=おそらく右翼、あるいは極右の連中、らの分析を拒否している。しかし、明治以後、この極右テロリストによる白昼テロにより、リベラル派代議士を恐喝することで(実際に殺られた)、保守政治屋は生き延びてきたのであり、このヤクザテロにより守られている保守政治の状況は、現在でも同じであることは、報道や出版がビビッテ書かなくても、誰でも知っていることだ。現在の天皇制護持派代議士や思想家ヅラをした評論家、マスゴミが生き延びていられるのはこのテロリストによる支援があるからである。

すでに、別記事のコメントに書いたことだが、政治学者坂野潤治は、久野収のこの半世紀前の北一輝論を称して、眼光紙背を徹する哲学者の読み、といっている。つまり、「ファシスト」ではなく、社会民主主義者北一輝、を日本で最初に見いだしたのは久野収であった。

若干23歳の北一輝が満を持して発行にこぎ着けた一千ページにもなろうかという大著、『国体論及び純正社会主義』。刊行日はちょうど100年前、1906年5月14日のことである。

追記:
時間があれば、パル判決書(講談社)に挑戦してみたい。 かなり、やる気、を貯めねばならぬ。

追記2:
立花隆の『滅び行く国家』日経BP社の、第2章 天皇論、をざっと読んだ。
1 著書「天皇と東大」は終止、近代天皇制(明治以後、ということ)を論じているのだから書名を「天皇と東大」にしておいた、と立花は言っている。なぜ「天皇制」にしなかったの?

2 女系天皇反対論者の 守りたいのは 伝統、ということらしい。(国営にしなくても民営で十分だろう?民間でできることは民間でしなくっちゃ。税金の無駄遣い。家元制にすれば、Y染色体だのミトコンドリアで騒ぐこともあるまい。体外受精ご自由に)。それに、憲法第一条「。。。国民の総意に基づく」 これって、どういう意味なのかね? 総意ならば、総選挙でもしなければ確認できまい?4年に一回国民投票すればいいのだ。ほとんど、大統領制だが。。。 そもそも、憲法自体が国民に計られたことはない。

3 万世一系を守りたいなら、男の染色体でなく、女系のミトコンドリア、という(確かなのだろう、立花がいうのだから)。で、すべからく女帝は体外受精すればよいと言っている。これは私もこのブログのどこかで書いたことだ。もともと、基本的人権のない天皇なのだから、論理的にはこれが一番、一挙解決だろう。(もちろん、天皇制廃棄派のわたしにはどうでもいいはなしだが)。

4 天皇制(第一条)そのものを残すべきかどうか、立花はどう思っているのか、示されていない。(やっぱ、本が売れないとまずいしね。)

追記3:
吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波新書)は、東京裁判頃の宮中護持グループと、GHQのやりとりを描いて面白い。GHQの裁判担当者を連日連夜、接待漬けしていたのである、宮中グループは。今とやり口は同じ、誰の金でやっとんじゃ、われら。

この本で面白かったのは、外務省の怪しげな連中のやったことを暴露していること。とくに、英語ペラペラが唯一の取り柄である加瀬俊一(戦後、外務省を牛耳っていた。息子は、現在評論家として恥をさらしている)をGHQが「よどみない嘘をつく人物」とみていたことを明らかにしている。ここを読んで大笑い、p116。この男、NHKの英語番組にも登場したのを観たが、まさに、嘘を平気でつく男(つまり外務官僚の唯一の取り柄)そのもの、の顔であった。加瀬はそんな人物だからもちろん、NHKの大のお気に入り、歴史番組などに当時を知る男としてしゃべり放題やっていた。視聴者は、たっまんないぜ。加瀬はマッカーサーの依頼を受けて、天皇免責に動いていた男であり、松岡洋右の子分としてナチとの連携工作を疑われた戦犯候補。 軽いのよね。

追記4:
後続記事、『十五年戦争とパール判決書』 もご覧いただきたい。
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-11


時には母のない子のように あるいは、いまどきのグローバリゼーション [history]

                                                                                             

先日CDを整理していたら偶然、10年そこら前に買った黒人霊歌集が出てきた。

"Sometimes I feel like a motherless child"
Negro Spirituals by Barbara Hendricks,
Recorded: 1983/4
ピアノ伴奏はDmitri Alexeev。

バーバラヘンドリクスはジェシーノーマンと人気を分かつ黒人女性歌手であった。
アルバムタイトルと同名の曲、Sometimes I feel like a motherless childは、冒頭に収録されている。バーバラの哀切なソプラノがこころにしみる。

歌詞とメロディのダウンロード:
http://ingeb.org/spiritua/sometime.html

時には母のない子のように
故郷を離れている気持ち
まことの信者
故郷を離れている気持ち

時にはこの世をぬけだして
天の御国にのぼった気持ち
。。。   
             (対訳: 南條竹則)

このCDに、バーバラ自身の解説が付いている。引用する。
「黒人霊歌はさまざまな部族の習慣や言語をもっている人々が創ったものです。
彼らは、奴隷制度という極めて過酷な組織にしばられ、彼らの母国語や文化から隔離され、部族とか家族などとのかかわりをまったく考慮されることなく分散され、外国の文明と言語に順応させられたのでした。これらのアフリカ人は新しい国に豊かな音楽的遺産をもってきたのです。それは音程上の構成および形式と同様にリズムの面でもユニークなものでした。これが新しく発見したキリスト教の知識と解け合ったのでした。奴隷たちは、地上では不公平と苦難に悩まされていたので、天国でつぐなわれ報いられることを説くこの宗教を心底から歓迎しました。
  黒人霊歌は本物の民謡で、もともとグループで歌うようにつくられました。それはグループで歌うと全く自然にハモるということでも、他の民謡とはちがっています。」

三浦敦史の解説<ニグロスピリチュアルスについて>によると、
「。。。黒人の歌唱と歌謡が広くアメリカ全土に知られるようになったのは、南北戦争以後のことであった。。。

黒人霊歌の総体的な性格はシンプリシティ(単純さ、純真さ)である。歌詞および曲の両面において、見せかけの「人種的効果」は避けなくてはならない。各人固有の自然な声ではっきりうたうべきなのである。黒人霊歌のソースはユニークなものだとしても、それは万人のための宗教歌なのである」

また、ピアノ伴奏について次のようにいう。
「黒人霊歌におけるピアノ伴奏もまたコンサート歌手のための譲歩でもある。もともと、黒人霊歌というのは、ア・カペッラでうたわれた。聴衆という存在はなかったのである--あらゆる人が歌ったのだから。。。。(略)。。。しかしながら、ピアノ伴奏で歌う場合でも、テンポとリズムの重要な問題は依然として歌手の責任なのである。黒人霊歌に固有の生活感と活気の印象を聴き手に伝えるよう綿密に準備されなければならない」

ニグロの子供はニグロである。奴隷制の時代、ある日、おのれの運命を悟った子どもたちは自分自身に、どのようにこれを了解させたのだろうか?親は子供になんと伝えたのだろうか?現世の、この理不尽をどうやって飲み込んだのだろうか?

渡辺京二評論集成III(葦書房)中の、「インディアスの驚異」。
18世紀に最盛期を迎えた西インド諸島を中心とした三角貿易について述べている。

「英国本土から雑貨を積み込んでアフリカ西海岸におもむき、それを黒人奴隷と交換する。この奴隷を西インド諸島へ輸送するのが、有名なミドル・パッセジ(中間航路)である。英国本土には、奴隷と交換に砂糖をはじめとする熱帯資源がもたらされる。この三角貿易のことを歴史家達は昔からよく知っていた。知りながらあくまで「周辺的」な事実として黙殺していたのである。(エリックウィリアムズが『資本主義と奴隷制』などで明らかにした、衝撃的な事実とは。。。)この周知の三角貿易をイギリス資本主義の離陸の決定的要因とみなした点にある。つまりそれは、いわゆる「資本主義の原始的蓄積過程」の欠くべからざる一環とされたのである。」

大塚久雄らが熱心に説いた(欧州経済史)、英国の、一国社会主義ならぬ健全な「一国資本主義」など木っ端みじんに打ち砕かれた、ということ。グローバリゼーションは初期資本の原畜段階から貫徹していたのだ(渡辺京二、上記著書)。

これを、地球の裏側、の遠い国の、遠い昔のお話とおもうひとはおめでたい。

21世紀。極東に米国の植民地である島国、ジパングのあり、ジパングにフリーターなる種族の繁殖しおりと、いへり。

このフリーターたるや、低賃金で、性格おおむねおとなしく、そこそこ知識を有し、商品略奪や、店の金をちょろまかすこともなく、労働組合も作らない。電話一本でクビにでき、静かに失業を受け入れる。羊のような市民が多数存在することは、厳しい競争に打ち勝ち、雇用の自由な調整にはまことにもって、都合良し。

「しかし、一定数のフリーターはのぞましいが、あるパーセンテージを超すと、資本主義そのものの危機をもたらす恐るべき存在に変容する。
だってそうでしょ?
「低賃金」であるということは「可処分所得が少ない」ということなんだから。」
                   「フリーターについて」内田樹『街場の現代思想』NTT出版、2004

ジパングの資本家政治屋どもも、一定以上の収入を与えなければ、将来の消費、激減することに気づきおり、定職に就け定職に就け、子供を作れ子作りに励めと、国営放送、新聞など動員し激励督励に精を出したり。

フリーターはもちろん、奴隷ではない。しかし、老マルクスの言った「資本主義はあらゆる毛穴から血と膿汁をしたたらせてこの世に存在し」、ますますスマートにその健やかな姿をさらしている、ようにみえる。

内田先生の導く、結論を紹介しよう:

「人口の再生産が必要とされる一番大きな理由は、実は年金や市場や労働力の制度維持のためではない。スキルもキャリアも年金も妻も子もなく孤独な死を迎えたフリーターにはその死を弔う『喪主』がいなくなってしまうからである。
 あと数十年後に誰にも弔われず孤独死する単身者の数は数百万に達するであろう。この「誰にも弔われない使者たち」が21世紀後半の日本社会にどれほどの 「祟り」 をなすことになるか。

私たちが無言のうちに恐れているのは、実はこの日本の暗澹たる霊的未来なのである」

スピリチュアルズインジャパン。
             あなたの、孫、ひ孫たちのうたう歌は。。。


Carmen Maki
                        


竹内好メモ: 中江丑吉と北一輝 [history]

                                          

遠山茂樹「戦後の歴史学と歴史認識」(岩波)p79-80から引用:
##
竹内好はこの ヨーロッパ=先進 と 東洋=後進、 日本=先進 と 中国=後進 という日本歴史学会の常識的意見をラジカルにひっくりかえし、次のように指摘した。
「日本は、近代への転回点において、ヨオロッパたいし決定的な列島意識をもった。(それは日本文化の優秀さがそうさせたのだ。)それから猛然としてヨオロッパを追いかけはじめた。自分がヨオロッパなること、よりよくヨオロッパになることが脱却の道であると観念された。つまり自分がドレイの主人になることでドレイから脱却しようとした。あらゆる解放の幻想がその運動からうまれている。」
「明治維新はたしかに革命であった。しかし同時に反革命でもあった。明治十年の革命の決定的な勝利は、反革命の方向での勝利であった。その勝利を内部から否定してゆく革命の力は、日本では非常に弱かった。弱かったのは、力の絶対量において弱かったというよりも、革命勢力そのものが反革命の方向に利用されていくような構造的弱さであった(ノーマン「日本における兵士と農民」参照)。辛亥革命も、革命=反革命という革命の性質は同じだ。しかしこれは革命の方向に発展する革命である。内部から否定する力がたえず湧き上がる革命である」(竹内:中国の近代と日本の近代)
##
                     
西川長夫はつぎのように言っているようだ。
##
 福澤諭吉「脱亜論」について、それを転向としてではなく「文明論の概略」からの論理的帰結と主張している。わが国ではいまだに啓蒙主義者としての福澤像が支持されているようだが、啓蒙主義も非西欧に対しては、文明や文化の名において「野蛮」を断罪する植民地主義へと転じたことを忘れてはならない。西欧の文明概念が「文明化の使命」に見られるように、帝国主義的な植民地にいたったのと同様に、「文明概念を深く理解した福澤は、みずから脱亜論への道を準備したのである」
## 戦後思想の名著50(平凡社)から

間奏曲♪:
脱亜論について。。。平山洋「福澤諭吉の真実」(文春新書)は、西川のような見方から福澤を擁護しようとして、脱亜論的=福澤像は 福澤全集編集者が意図的にでっち上げたものだ!と叫んでいる。しかしいかに声を張り上げようとがんばっても「脱亜論」は福澤諭吉の「真筆」であることは間違いなかったらしい(残念、無念さがこみあげているような記述がおかしかった)。さらに平山は言わなくても良いのに 「脱亜論」が時事新報に無署名で掲載されたとき、当時の国民は誰もこの記事に注意を向けなかった、とこのことから何を帰結したいのかわからぬが、言っている。誰の注意もことさら喚起しないのはきわめてあり得ることだろう。すなわち、時事新報社説(東亜論)が掲載されとき、これに読者がことさら注目しなかった理由は、福澤が脱亜論者、中国侵略者論者であることは、当時の国民にとって「想定内」であり、多くの著作で、福澤本人が国民に顕示し続けていたからなのだ(書簡を読めばなおあきらか。日清戦争勃発の報に接し、生涯の歓び、と小躍りしている)。福澤による国民啓蒙の努力が実ったのであり、福澤(や平山)には慶賀すべき事態になっていた(脱亜DNAは平成まで生き延びている、というおめでたき仕儀にござる)、のである。これに目をつむりたい(諭吉が生きておれば余計なことするな!と一喝するだろう)平山のような慶応学者に、お役目ご苦労にござる!の暖かいヒトコトを送るのが人倫の道ってもんだろう。
間奏曲♪おわり。
   **おもひで: ↑を「福澤諭吉の真実」書評としてアマゾンに送ったんだが、ボツ、じゃった。

中江丑吉著「中国古代思想」を 竹内好はつぎのように評している。
##
「高い峰が、あらゆる方向から、それぞれの形で眺められるように、ある学問が個別科学的に徹底すればするほど、その学問は個別性を超えて、真理追究の人間的情熱の普遍性のために、より深い感動を読者に与えるのが普通である。本書はそうした種類の書物の一つである。
「この書物を通じて、第一に感じられることは、体系への志向の激しい気迫である。私のような気の弱い物には、目くるめくほどの雄大な夢を、築いてはこわし、築いてはこわしている一人の人間の孤独さが行間ににじみ出ている。それはほとんど憑かれたひとの姿である。この気迫こそ、これまでの日本の学問、とくに中国関係の学問に欠けたものであって、それに比べれば、驚くべき博引さえも物の数ではない」
竹内はこの文章を次のように結ぶ。
「かれは、北一輝とならんで私には興味をそそる第一流の人物である」

竹内好の「北一輝」という短文から引用:
「日本ファシズムの指導者は数少なくないが、ともかく一つの理論体系をもち、その理論が現実に働きかけたという点では北がほとんど唯一の例外ではないかとおもう。。(略)。。。理論創造の能力において北に匹敵するものは、ほとんど一人もいないのである。」
「おびただしい日本人の中国研究のなかで、彼の「支那革命外史」は抜群であり、それに代用できるものが他にないから、この本は一度は読んでおかねばならぬ」
「彼は終始一貫、天皇機関説の信奉者であり、天皇教には転向しなかった」
以上。

昨日入手した鈴木正「中江丑吉の人間像」(風媒社、1970年)、現在読みかけだ。
本書巻末の年譜によると丑吉は、。。
兆民の子として、1889年大阪曾根崎に生まれ、1910年東京帝大法科に入学、1914年に中国に渡って以後死ぬまで中国で過ごす。死の直前、1942年、レントゲン写真を九大放射線科に送り、「望みあり」の診断にしたがい、北京を去って、大連経由で九大病院に入院、同年5月21日。8月3日、夕方6時5分死去、53歳。

中江丑吉は、資本論を通読すること3度、ヘーゲル精神現象学を2度、カントの「純粋理性批判」を繰り返し通読、とある。この学識をおのれの中国古代思想史研究に渾然させた。読書は丑吉が自身に課したAlbeitであった。

昨晩、ネットで 中江丑吉「中国古代政治思想」を注文。
「支那革命外史」(みすず)も持っているんだがその漢文崩しの文体に何度トライしても、ハジかれてしまう。竹内らに現代語訳しておいてもらいたかった。

追記4/9
中江丑吉 情報をネットで検索した:
http://www.yorozubp.com/0311/031123.htm
http://www10.ocn.ne.jp/~awjuno/sub32.html


時代閉塞の現状 あるいは、必要! [history]

                                    

評論、「時代閉塞の現状」(強権、純粋自然主義の最後及び明日の考察)
朝日新聞に掲載しようとしたらしいが(当時啄木は朝日新聞社員)ボツになったようだ。大逆事件の直後故、社内検閲も厳しかったのだろう。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/814_20612.html

明治四十三年1910 6月 大逆事件発生。啄木は真相を知るため資料の収集に当たった。社会主義文献を熟読、手記評論を残す。8月、評論時代閉塞の現状を執筆。9月に、朝日歌壇の選者になっている。

時代閉塞の現状、は、自然主義に対抗したおのれの思想を吐露したものだが、(「観照のみあって実行の伴わぬ、閉塞した時代の日本人たち全般に対する焦燥を示していよう」by 山本健吉)、その前年の1909年、毎日新聞に連載した評論「食うべき詩」と、内容は似る。

食うべき死、に
「詩人たる資格はまず第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」であらねばならぬ。第三に「人」であらねばならぬ。さうして実に普通人の有ってゐる凡ての物を有ってゐるところの人でなければならぬ。」

と、書き、さらに。。。


「「食うべき詩」とは、。。。実人生と何等の間隔なき心持を以て歌ふ詩という事である。珍味乃至は御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然く我々に「必要」な詩、ということである。」

時代閉塞の現状、その五、では。。。


明日の考察! これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。

さらに、。。。


かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒(しゅんきょ)して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

啄木は北一輝より三つ年下。ともに、裏切られた革命=明治維新に、文と行動で抗して死んだ。

時代閉塞の現状を、ボツにしたのは当時朝日新聞嘱託であった夏目漱石である、漱石の小説、「こころ」に出てくるKとは、石川啄木である。。。と、高橋源一郎は最近の評論で推測しているという。

           岩手山  
                            かにかくに渋民村は恋しかり
                            おもひでの山
                            おもひでの川

「。。ここに立つと、岩手山の秀麗な山色が眉に迫って、はるか脚下には鶴飼橋の絶景を俯瞰し、白波を立てて流れる北上の上流、両岸の柳のやはらかな風光は、泣けよとばかり君を偲ばせた形見である」 金田一京助
http://www.page.sannet.ne.jp/yu_iwata/iwatedaisibutami.html

##
明治四十四年(1911) 腹膜炎と診断され自宅療養。4月、腹膜炎から肺結核に移行。
             妻節子も肺尖カタルで病臥にあった。
              8月、母も、病床につく。

明治四十五年(1912) 3月、母、肺結核のため永眠。
               4月13日、早朝危篤に陥り、9時30分、父、妻、若山牧水にみとられ永眠。27歳。
               妻節子は、翌大正二年、肺結核のため死亡。28歳。
##

「石川啄木と北一輝 --- 新たなる「地上王国」の予見」
著者: 小西豊治  出版社: 伝統と現代社
。。。を古書店に注文した。

*日本詩人全集8 石川啄木(新潮社) を参考にした。(写真も)


農地改革と和田博雄 [history]

春が来た。
医者から余命三年を言い渡された、と親父が電話してきて、その3年も無事やり過ごしたか、と思っていた昨年の春、母から電話があり、親父が入院したことを伝えてきた。それから一年が過ぎた。親父は去年7月に死んだ。

親父が入院した病院は、母等が戦時中、女学生時代、連日、モッコとテミを手に開墾した場所に立っている。

親父を見舞いに行った折、その病院の食堂で、母の思い出話を聞いた。
終戦で物価は100倍以上も高騰したころが一番大変だった。しかし、農村を一番大きく変えたのは農地改革があったからである、というのが母と私の間の結論であった。田畑の所有関係は変わっても、地主対小作という主従関係は、子供目に見てもしばらく残存していたように思う。

戦後改革。とくに農地改革は、抵抗する地主らに対し、GHQの命令により、実施した、と考えていたがとんでもないことであった。今日何気なく、戦後改革をキーワードに検索していたら下記の記事に当たった。
http://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html

##
小作料が収穫物の半分を占める地主制のもとにある小作人の地位向上、自作農創設は戦前の農林官僚の悲願だった。それを実現したのが和田博雄(1903-1967)である。和田は戦後経済復興の政治舞台に彗星のように現れた。
##

和田博雄、など名前を聞いたこともない人物である。わたしは、農村の出身であるのに、なんとしたことか。

英国から終戦後まもなく日本の調査に来た社会学者ロナルド・ドーアも著書で次のように述べている。
「農地改革の勲功をどう割り当てるとしても、相当の分け前は、日本の官僚のなかの用心深いがしかし進歩的な意見をもっていた人々にあたえられなければならない。(中略)…さらに、世論の支持なしに、また、数多くの農林省職員、農村の農地委員会の委員、職員を動かした改革の情熱ともいうべき精神なしには、この法律の運用がかくも徹底的ではありえなかった」
##

我が実家は数年前、稲作を全廃してしまった。一町歩あった田圃は売り払ったり、他人に安く貸し出して耕作してもらっている。親父は養子だが、先祖代々継続してきた稲作を止めることにかなりの葛藤はあったろう。私と弟はなにも、しなかった。稲作を止めた頃、稲作から得られた純益は、年間数万円であった。

親父は病院じゃなく、自宅の離れにあるベッドから転がり落ちて死んでいたそうだ。病院でなく、自分の部屋で死ねたことがただ一つの救いである。

私は中学を卒業した後、あっち、こっちの学校にいったため両親と過ごしたのはたまの帰省のおり、なのだ。いつかは親は死ぬ、と想定していたから、死んだら、返って自分の胸にもどってきた、という安堵感がないでもない。親父は帰省のたびに広島にもどってこい、とよく言っていた。口に出さなくてもそれは伝わってくる。親を喜ばすことをあまりしていないから、その負担を考えるのを避けている、のは自分でもわかっている。いずれそのツケがドサッとふりかかってくるのだろう。


フランス革命 [history]

フランス革命、について。 知識は、とんと持ち合わせていなかった。関連本を何度も読もうとトライしたのだが、頭に入らないのである。中学高校の歴史教科書に書いてあること、年表と出来事、くらいしか私の頭にない。なぜ、大衆が動いたのか?ギロチンというような残虐な手法を取ったのか?なぜ、革命、クーデター、革命、クーデター、革命。。。とせわしなく、その後半世紀も、痙攣したのか?

大きな誤解もあった。なぜか、米国独立革命、がフランス革命に遅れて発生した、と勘違いしていたが、米国革命のほうが先だった(これ、年表を見れば当たり前のことだが)。
米国革命の独立宣言はトマスジェファーソンが参考文献などみずに、鉛筆なめなめ書いたらしい。
(もっとも、ロックやルソーなど読んではいたんだろうし、兄貴分の英国革命の歴史も知っていたろう)。
最近図書館で借りてきた岩波ジュニア新書、遅塚 忠躬「フランス革命」はたいそうわかり安かった(だいぶんはしょって書いてあるのだろうが。この本の対象は大革命から、1799年のナポレオン即位、まで)。この本で参考文献にあげているルフェーブル「フランス革命序説」(岩波文庫)はもちあわせていたのでハラホラ、と眺めたら、記述はこの本によるところが多いようだ。遅塚氏はこの文庫本の訳者でもある。

明治維新の前後、には日本でも一揆や打ち壊しが頻発した。地方の地主、庄屋、領主などが襲われ、江戸幕府にもそうとうのインパクトは与えたようだが、決定的な政治力にはならなかったらしい。シカルニ、フランス革命時の、革命地図を見ると、ほぼフランスの全域で農民らが動いている。なぜ、このような統一的な運動となり得たのか、がわたしにはよく理解できない。数年のレンジで時間をずらせながら起こる、というのならわかる。きわめて短期間に国王や取り巻きに対してインパクトを与えられるほど、議会を支配できたのか?現在のように通信技術はむろんなかったろうに、全国で呼応した動きがとれたのはなぜか?

当時、国王を頂点として、厳格な身分制度があった。
国王 + 貴族、聖職者(アリストクラート) + 平民、農民
当時のフランスの全人口は、2300万。
貴族聖職者は30万人。農民は7割以上だろう(どこかに書いてあったがどこか、わすれた)。
もひとつ、わからないのは、ブルジョアというくくり方だ。農民を除く、都市部の役人、金融業、商人。。その他、勃興期の資本主義から恩恵を受けていた人々が営業の自由を求めていた。こういう人々をブルジョア、とでいう。 アリストクラート、というのはデモクラートに対立する概念だ。貴族、というわけでもない。当時、圧倒的な力を持っていたのは聖職者だ。免税特権もあったし、なにせ、国の全領土の1/10を所有していたらしい。徴収する税金の1割が自動的に教会に落ちていたという。
また、聖職者は町や村の町長のような権限ももち、おまけに、裁判官も兼ねていた。やり放題、なのである。 この宗教者に権威がある、というのが日本人のわれわれには理解しがたいのではなかろうか。日本の仏教寺院は 京都の本店、を別にすれば、支店、出張所並みの寺に生臭坊主がいるだけ、とても、権威にはなれないし、政治ががっしりと頭を抑えていたのだろう。

で、ルフェーブルらの言うには、革命のきっかけは、農民や平民ではなかった、まず、ブルジョアジ(法制的な身分はない、要は、成金。大小の、ホリエモンや損正義、ミキタニのようなものだろう)が商売の自由を求めて議会を開くことを要求し、そこで、国王の権限を抑えた。王権を麻痺させた後で、都市民衆(プチブルジョアだろう)の反乱に、それに続いて、農民が反乱を起こした、という段階的反乱であったようである。このあたり、グラフィカルに説明してもらえるとわかりやすかろうが。

ルフェーブルの本の目次はこうなっている。
第一部 アリストクラートの革命
第二部 ブルジョアの革命
第三部 民衆の革命
第四部 農民の革命

もうひとつ、わからないのは、ロベスピエールなど優秀なイデオローグが次々とギロチンになっていることだ。1999年までの10年間、革命で名をはせた20人くらいのうちほとんどがギロチンで命を落としている。畳の上で死んだのはわずか2,3名である。

外国からの反革命軍も次々フランスを攻略しに入った。それにフランスは義勇軍を結成して立ち向かった。

まあいろいろジグザグはあったが、とにかく、ナポレオンの即位まで、一筆書きできれいに説明しているのが、上記、ジュニア新書だ。最近の研究(といっても半世紀前だが)によると、フランス革命で達成された、といわれている制度も、絶対王権ももとで、79年以前に着々と整備された、とフュレ著「フランス革命を考える」(岩波)に書いてある。

英国 -> 米国 -> フランス、と民主革命が連続して起こった。世界史の本によると、これを、環大西洋革命、と呼ぶ向きもあるようだ。

18世紀ヨーロッパとはどのような時代であったか。遅塚 忠躬の「ヨーロッパの革命」からデータを掲げておく。欧州では18世紀前半まで人口の増加はほとんど無かった、という。なにせ17世紀までは、戦争や疫病が相次いでドンドン人が亡くなった。18世紀のフランスでは夫婦で平均、5人子供を作ったが、1/3は3歳までに亡くなり、無事二十歳を迎えられるのは、50%であった。だから、5人子供を作っても、人口は全然増えないわけだ。産業発展とともに人口は増えるものという常識は19世紀以後の産物らしい。とりわけ死産が多かった。母子共に死ぬ例も多かった(1000年前、弥生、縄文、さらに石器時代。。。出産、というのはどれほどの恐れ、と、喜びであったのだろうか?)

           17-18世紀の年齢階層別死亡率(出生児100人のうち死ぬ者の割合)
     オーヌイユ               サンローランデゾー
     (北フランス:経済比較的良好)   (中部フランス:経済状態悪い)
満一歳未満      28.8            32.6
1-4歳         14.5            22.4
5-9歳          3.8             5.1
10-19歳          4.0             3.3
            -------------- ----------------
計              51.1            63.4
             1656-1735年        18世紀前半
遅塚 忠躬「ヨーロッパの革命」から。p49

ところで、なぜ、フランス革命の本を読み始めたか、というと、トクヴィルに関心を持ち出したからである。岩波文庫で アメリカのデモクラシ、が新訳になって出だした。図書館で、トクヴィル伝、という大部の本も借りてきた。トクヴィルが30歳チョイのコロ、フランスを抜け出して米国に渡り、1831年5月から翌年2月まで米国の北部から南部それにカナダを回ってもどり、この本を書いた。そこで、米国のデモクラシの特徴をしっかりつかんで帰った。トクヴィルは1840年代、外交官や、代議士になったがコミューン発生と共に逮捕されたりした。代議士を辞めて、旧体制と大革命、というフランス革命(79年の大革命)のレビュー、その第一部を書いて未完のまま、死んだ。

日本にも中江兆民らフランス革命の影響を受けた人々はいる(岩倉具視らが世界一周したのはコミューンが終わった直後だ)。トクヴィルは学生時代に歴史家ギゾーの講義を聴講した。ギゾーの著書に基づいて、福澤諭吉は、文明論の概略、を書いた。

英国、米国、フランス、と過去のしがらみのある国無い国、宗教の権威の有無、自由の程度、革命、とその後遺症(よきにつけ、あしきにつけ)と、ニッポンの準革命(革命の定義にもよるが、同列には論じられない。明治維新、と、昭和維新=1945年)の差、を考える必要があろう。

トクヴィルの「米国におけるデモクラシ」。原本はもちろんフランス語だが、英訳を買ってみた。岩波文庫和訳とみくらべているのだが、微妙なニュアンスの差がある。

たとえば、アメリカインディアンを論ずるところ。

インディアンは土地を「占有した」が所有はしなかった、と和訳にある。

英訳ではどうなっているか?
Although the vast country we have just described was inhibited by countless native tribes, it is justifiable to assert that, at the time of its discovery, it formed only a desert. The Indians took up residence but did not possess it. It is though agriculture that man makes ownership over the soil and the first inhabitants of North America lived off the products of hunting.
第一巻、第一章の最後に近い部分。

追記: 当初一定の秩序と規律を守っていた民衆蜂起が、94年以後、血まみれの暴力行為になったのはなぜか。上記「フランス革命」の著者は4つの原因を想定している。
1)敵に対する疑心暗鬼。 敵にやられるのではないか、という不安と危惧から、やられるまえにやっつけろ!「貴族側の陰謀」に対する防衛的反作用。無辜の集団に対する虐殺をやった。
2)リーダーの不在による、自然発生的テロル。計画性無し。
3)大衆の絶対的貧困。貴族や領主への屈従。物価や税金のつり上げに対する不満。大衆の怨恨と復讐。
4)おそらく最大の原因は。。大衆たちがこぞって、自分たちこそ正義の担い手、と確信していたこと。  (聖職者=インチキをやる、に対する信頼感がうすれ、信仰心もゆらいでいた。性道徳も乱れ、未婚の母になる例なども増加している)
  
93年3月から94年8月までに各地の裁判所で死刑宣告、処刑された者は1万6594人。裁判無しの処刑、獄死を加えると3万5千から4万人。農民の都市ブルジョアに対する反乱も西部フランスで激しく、死者総数は20万から40万。なぜこれほど多数の農民が参加したかは、不明、とされている。

参考: 日本では明治維新前の慶応2年(1866年)後半、一揆打ち壊しが全国的に広がり、江戸市中も10日間無法状態になり、幕府倒壊に決定的な一打を与えた(遠山茂樹「明治維新」)。