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団藤重光 『法学の基礎』 [Law]

最高裁判事を務め、『死刑廃止論』で著名な団藤重光の『法学の基礎』を近くの古書店で安く入手。

久しぶりに基礎法学の本を読む。著者は参考書の博引旁証ではなくあたかも教室で諄々と説いて聴かせるような口調で自然に語りかける。、とはいえ、内容は専門家向けであり、速読というわけにはいかない。
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著者のいう法律、とは 動的なモノである。法律自体、人間が作成したものであり、時間とともに、社会の発展と共に変わる。社会無くして法律はなく、法律無くして社会もない、そういう相即の関係に、現在なってしまった。。

人間の行為は、環境で決定できる側面もある。犯罪現象と経済的条件の密接な関係など。。。しかし、著者は、人間の行為における主体的側面に着目することが多い。

p45「。。人間行動は、素質環境による必然的制約のもとに立ちながらも、また、多かれ少なかれ、主体的コントロールが可能なものであるといわなければならない。

(略)

決定論に対する批判ないし反省は、物理学や分子生物学のよういな自然科学の分野でも次第に広がりつつあるように見受けられる。

(例として、量子力学における不確定性原理、木村資生による分子進化中立説など、をあげたあと。。)

ただ、このような不確定性をみとめることは非決定論には違いないが、それだけでは、まだ人間の主体的な自由を認めることにはならない。自然科学の哲学的基礎付けを試みている批判的合理主義者ポパー(Karl Popper)が決定論を排斥するばかりでなく、このような単なる非決定論(不確定性理論)でもなお不十分だと主張して主体性を論じているのは、わたくし(団藤)としては心強い。(ポパーが)「友好的=敵対的な協働(friendly-hostile co-operation)」の意味での「間主体性 inter-subjectivity を説いているのも、わたくし(団藤)の共鳴を禁じ得ないところである」

隣接分野への目配りが十分なことは索引を覗けば分かる。

最高裁判事としての経験が生きているとおもわれるのは、司法権の独立を論じるくだりである。p202以降。

「。。司法の政治的中立性はきわめて困難な問題である。ひとは、法の解釈において、いかに客観的であろうと努めても、意識的・無意識的を問わず、なんらかの立場に立っていることを免れない。

(略)

新憲法のもとにおける司法権独立の特徴のひとつは、旧憲法では他の二権(立法、行政のこと:古井戸)に対する「司法権」の独立という見地が強かったのに対して、個々の「裁判官」の独立がいっそう強調されることになった点にあるとおもう。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)という規定がこれを示している。

(略)

客観的良心論者は、この良心を、単に「裁判官の良心」という以上に「裁判官として客観的にもつべき良心」と解するのであるが、いやしくも「良心」の名に値するものである以上は、一人一人の裁判官がみずからの内奥の声にきくのでなければならない。

(略)

裁判官は、普通の場合には、自己の本来の良心の声と自分の職務上の義務とのあいだになんら矛盾を感じないどころか、むしろ両者の積極的な一致を自覚することが多いであろう。しかし、問題がひとたび世界観、政治的立場などの根本的なものに触れるときは、この両極性が意識され、そのままではすまされないところ -- ばあいによっては裁判官の辞職 -- まで行くことがありうる。これは、もとをただせば、法そのものの動的性格に胚胎しているのである(注)」p204

(注)として著者は、死刑廃止論者である米国のある最高裁判事が1995年、良心の命ずるまま職を辞任し世間を驚かせた、という例をあげ、その出処進退の見事さに深い感銘を受けた、としている。その判事が著者の講演を聴いたあと、この二人は盟友となったそうだ。

著者は裁判官の独立を論じているが、おおよそ、あらゆる職業で、現在、妥当する考え方を示しているとも言える。