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母と暮らせば [Cinema]

本記事は映画評。内容に触れるから、これから映画を見る予定の人で先にストーリを知したくないひと、はパスした方がいいかも。

大晦日の午後急に見たくなったので一人で行ってきた。一緒に見ようというたじゃない!と、後で娘から文句を言われたが。イオンのシネコン。午後4時からの上映、なんと、館内はガラガラ。本当にガラガラで、約300人収容のスクリーンに観客は私一人!一瞬、スクリーンを間違えたか?と半券を見直したくらいだ。だが、一番後ろの高い場所を見上げると(階段状の座席)一人だけ客が座っていた。私はスクリーン正面の特等席。二人の観客で大画面を眺めたのである。上映中、とくに前半、その客がクツクツとよく笑った。笑い声から婦人だと判断したのだが、終映後ゆっくり降りてきたのはおじさんだった(わたしもおじさんだが。。)。

...

広島原爆を背景にした『父と暮らせば』。この映画は長崎原爆を背景にした家族ドラマである。昭和20年8月9日11時頃落とされたプルトニウム原爆で、吉永小百合演じる母の一人息子が、長崎医大で受講中に爆死する。小百合の旦那はずいぶん前になくなっている。息子には将来を約した恋人(マチコ)がいた。息子のことは忘れていい人がいたら結婚して、と、マチコを諭す小百合。いいのです、わたしは一生一人で生きていきます、と決意を示すマチコ。

最終的にマチコは背の高い無口の恋人(片足を失っている)を見つけて婚約する。(なぜ、マチコが翻意したか、を、わたしは見逃した)。

これだけの話である。小百合の息子はわたしからみると、まだ、子供でオッチョコチョイ(私の娘が昔夢中だった人気グループ『嵐』のメンバーらしい)。これが映画を浅くしていると思う。『父と暮らせば』との違いだ。この息子は亡霊となって現れた当初、小百合に対して、マチコが結婚するのに絶対反対していた。マチコにふさわしいのは俺だけだ!というのだ(ようゆうわ、このオッチョコチョイ目が <- これわ私の意見。息子に人間として、男性としての魅力ゼロ、であるところがこの映画の大きな弱点だ。『父と暮らせば』の宮沢りえは、女性として、すぐに結婚してもいい、実質を備えていた。この映画では、息子を、医大を卒業した社会人=医師になりたてほやほや、勤務中に爆死、として設定せねばならなかったはずである)。

映画で描かれるのは戦時中の長崎。終戦までの群や警察の横暴と、終戦直後の物資不足。物資不足の中でも、闇商品でたくましく生きていく長崎の人々。小百合の家にも知り合いの闇屋(小百合を恋慕している)がおり、小百合はその横流し商品でなんとか健康を保っているという設定だ。小百合は産婆を職業としている。

最終的に小百合は体力消耗して死ぬのだが。。。ストーリだけを眺めれば、オッチョコチョイ息子の亡霊はほとんど用をなしていない。ストーリ進行になんの役割も果たしていない。いてもいなくてもいい存在である、ということだ。このへんが、『父と暮らせば』の父親(原田)と大きな違いだ。『父』では、亡霊の父親がいなければ娘の宮沢りえは結婚を拒否する女、として一生を暮らしたろう(ただし、原田が演じる父親(娘は宮沢りえ)は亡霊のくせにお節介が過ぎ、広島にはこんなお節介な父親はいない、と私は考えているから、『父と暮らせば』に私の点数は辛い)。

小百合の住む家は、被爆地からは十キロ以上?離れた、長崎湾を見下ろす丘の途中にある。原爆の被害はなかった。長崎にはキリスト教徒が多い。小百合の家もキリスト教である。ただし、土俗化しており仏教色も混じっているキリスト教である、と長崎の知人から聞いている。

映画への不満はいろいろある。まず、原爆の描き方が淡泊すぎる。原爆投下三年後の長崎が舞台だ。長崎では異常出産はなかったのだろうか?小百合は産婆なのだから、話を異常出産など原爆被害にひきつけられなかったか?しかも、息子は医大生。福島原発事故後、放射能被曝で苦しんでいる日本との関連、現代的視点が全くないのはどうしたことか。

音楽は坂本龍一が担当している。重要な場面で流れてくるのはマーラーの緩徐楽章に似た音。最終場面の大コーラスを含め、すべてマーラーの曲で統一してもいいのではないか、という気もした。

小百合の映画をこの前、映画館で見たのはいつか?と考えたが、どうも、70年代の青春の門、が最後のようだ。私が結婚したての頃すんでいた大宮の小便くさい映画館で妻と一緒に見た(青春の門では、死んだ仲代達矢の妻だった小百合が、小林旭と再婚する、という設定。女盛りの美しい着物姿だった)。その前は、というと、17~18歳の頃、広島市内の映画館でみた青春映画だ。小百合を好きではないが、あの声は昔と同じ全く衰えず、どきどきさせる。この日も、わたしは、最初、画面の小百合の顔を正視できなかった(ドキドキ)。だが、現在の年齢を考えると、映画の役はちょっと苦しいね、美しい小百合であっても。。。

小百合やマチコの長崎弁は、もすこし、どぎつくてもよかったのじゃないか。宮沢りえもがんばって広島弁をなんとか操っていたんだから。。。

。。というわけで、おしまい。娘ともう一回見るかもしれない。

大ヒット上映中、といっているが、実情は違うらしい。。この内容ではヒットは無理だね。吉永小百合を栄養失調?病気?で死なせるくらいなら、『父と暮らせば』とおなじく、爆死させ、亡霊として登場させ、生き残った息子(ただし、俳優は変えてよね)を助ける設定にすべきだった。ストーリは大幅に変更する必要がある。結婚を拒む、被曝した息子(たとえば、異常出産を恐れて)に、結婚を勧める役割、とか(これは現在に通じるアクチュアルな問題を提起しよう。)、あるいは結婚だけがすべてではない、子供を作るだけが結婚だけではないではないか、と、果てしない問答を繰り返す親子。産婆が、亡き母の職業であった、という設定がここで生きるのである。

この映画のラストは感動的である。親や祖父祖母が原爆被害者である長崎市民には感動を与えたろう。だが、戦争を生きた一人の婦人の生涯、という以上の感動は与えない。述べたように、フクシマの問題に切り込んでほしかった。


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