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追悼 加藤周一   加藤周一が観察し、考え、書いたこと [Book_review]

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「中肉中背、富まず、貧ならず。言語と知識は、半ば和風に半ば洋風をつき混ぜ、宗教は神仏のいずれも信ぜず、天下の政事については、みずから青雲の志をいだかず、道徳的価値については、相対主義をとる。人種的偏見はほとんどない。芸術は大いにこれをたのしむが、みずから画筆に親しみ、奏楽に興ずるには至らない。---こういう日本人が成りたったのは、どういう条件のもとにおいてであったか。私は例を私自身にとって、そのことを語ろうとした。
 題して「羊のうた」というのは、羊の年に生まれたからであり、またおだやかな性質の羊に通うところもなくもないと思われたからである」
岩波新書『羊のうた』(1968/8/20)あとがき、から。


『羊のうた 正・続』は加藤周一が幼児から壮年(1960年、新安保条約の成立)にいたるまで加藤周一が観察し、考えてきたことを書き記したものである(初出は朝日ジャーナルの連載)。冒頭の2つの章「祖父の家」と「土の香り」は加藤周一を知るのに重要である。

「祖父の家」から:
「前世紀の末に、佐賀の資産家のひとり息子が、明治政府の陸軍の騎兵将校になった。日清戦争に従軍するまえに、家産を投じて、馬二丁と馬丁を貯え、また名妓万龍をあげて新橋に豪遊し、イタリアに遊学しては、ミラノのスカラ座にカルーゾーがヴェルディやプッチーニを唱うのを聞いた。それが私の祖父である。」 (p1)

「私の父は祖父を好まず、その「放蕩」を非難していた。妻以外の女との交渉は、悪事のなかの最悪のものであった。カトリックの尼僧が経営する学校で育った母は「放蕩」を悪事とすることで父とちがわなかったろうが、そのことを非難するよりも、むしろ説明しようとしていた。」(p7)

「私は一体こういう祖父の血をうけついでいるのだろうか。しかしそもそも血統なるものを、私は、若干の遺伝的体質以外のことについて、まったく信用しない。そういうことがあるかもしれないが、たとえあっても知ることができないとすれば、考えの上でそれを除外する他ないだろう。そういうことよりは、子供の私が、身の廻りに「放蕩者」といわれる人物をもっていて、その人物について、おそらく多くの失敗を想像することはできても、悪事を想像することはむずかしかったという事実に、意味があるにちがいない。」(p9)

「土の香り」から:
「私は田舎で暮らしたことがない。しかし田舎とのつながりが、全くなかったわけではない。父の生家は、関東平野の熊谷にちかい村で、徳川時代には帯刀を許された名主の家である。1920年代には、村の森林と耕地の大部分をもち、みずから農を営みながら、大勢の小作人に君臨して、豊かに暮らしていた。(略) 次男、つまり私の父は、浦和の中学校に入ったときから村を離れ、東京で医を業としていたので、農家を襲ぐことは問題にならなかった。」 (p13)

「しかし私と田舎との関係が、一方では村の子どもたちから見られる関係、他方では宴会の男女を見る関係からはじまった、ということには、注意しておく必要があるかもしれない。相手に見られながら相手を見るという相互的な関係は、はじめからなかった。私は他所者であり、おそらくいつまでも、他所者として生きるだろう。それは必ずしも田舎との関係が、私にとって薄かったということではない。」 (p24)

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『続・羊のうた』には、東京帝国大学医学部と米国軍医師団が共同で45年秋、ヒロシマに送った「原子爆弾影響合同調査団」の一員として加藤周一は原爆で崩壊したヒロシマを訪れたときの見聞を記している。『続・羊のうた』の「広島」の章:

 「広島には一本の樹さえもなかった。見わたすかぎり瓦礫の野原が拡り、その平坦な表面を縦横の道路と掘割りの水が区切っていた。石垣の建物のいくつか、崩れ落ちずに立っていたが、その窓は破れ、壁は半ば崩れて、近づくと建物を透して向こう側の青空が見えた。人の住むことのできる家は一軒もなく、しかし、その焼け野原には陰のようにいつも誰かが彷っていた。国民服の男の埃に汚れた顔は、放心して現(うつつ)ないようにみえた。子供たちの顔は、火傷の瘢痕(はんこん)にひきつり、髪の抜けた女は、風呂敷で頬かぶりをして、太陽の下を逃げるように歩いていた。爆心から遠く破壊を免れた郊外の病院には、まだ病人があふれていて、歯ぐきを腫らし、傷口から膿を流し、高熱に昼も夜も苦しんでいた。それが二ヶ月まえでは広島市民であった人々の生きのこりであった。

 1945年8月6日の朝まで、そこには、広島市があり、爆撃を受けなかった城下町の軒並みがあり、何万もの家庭があって、身のまわりの小さなよろこびや悲しみや後悔や希望があったのだ。その朝突然、広島市は消えて失くなり、市街の中心部に住んでいた人々の大部分は、崩れた家の下敷になり、掘割にとびこんで溺れ、爆風に叩きつけられて、その場で死んだ。生きのびた人々は、空を覆う黒煙と地に逆まく火焔の間を郊外へ向かって逃れようとして、あるいは途中で倒れ、あるいは安全な場所に辿り着くと同時に死んだ。さらに生きのびた人々も、田舎の親類家族と抱合い、九死に一生を得たよろこびを頒つと思う間もなく三週間か四週間の後には、髪の毛を失い、鼻や口から血を流し、やがて高熱を発して、医療の手もまわらぬままで死んでいった。それから二ヶ月、辛うじて難を逃れた人々は、親兄弟を失って呆然とし、みずからも「原爆症」の恐怖に怯えて、追いたてられた獣のように、あてもなく焼け野原を歩いていた。もはやそれは嘗ての広島市民とは別の人間であり、あたかもそのことが無かったかのように、彼らが以前の人間にたち戻ることはできないだろうと思われた。

 (略) 

 理解を越えたもの、すなわちそこから意味を抽きだした時間に、その意味の直ちにいろ褪せるもの、しかし、それと向きあっている限り人間の全体を抗し難く規定してやまぬもの -- 私はそれを経験しなかった。しかし経験した人々を見たのである。広島についてのすべての言葉は、それがどれほど納得できるものであっても、聞く度に私に「ああ、それはちがう、どこかちがう」という気をおこさせた。 (略) 私は広島を見たときに、将来の核兵器については何も考えていなかった。後になって、核兵器についても考えるようになったが、そういう私自身の考えと、広島の人々を沈黙させた経験との間に横たわる遥かに遠い距離を、私はいつもくり返し想い出したのである。」

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「広島の第一印象は「広島はこんなにも平らだったのか」ということでした。建っている家が一軒もない」(講演『ヒロシマ・ナガサキ50年』)



加藤周一の代表作は何だろうか? わたしは、
「天皇制を論ず」1946/3
「日本文化の雑種性」1955
「日本文学史序説」1980
を挙げたい。

日本文学について加藤周一は1960年前後から多くの論文を発表しており、「序説」は60年代のカナダの大学での講義、さらにそれを文字化した朝日ジャーナルへの連載を元にしている。『序説』の姉妹編として『日本美術の心とかたち』(1997、著作集20。これは1987年のNHK番組を出版したもの)、さらに、比較文学的見地から時間と空間の表現の特徴を整理した『日本文学における時間と空間』(2007)がある。

鶴見俊輔は、加藤の評論中もっとも重要な作品として<雑種文化論>をあげている。
「それ(雑種文化論)は、異国からきたという区別なく、日本文化の中に織りこまれ、とけこんでゆく事実に注目したからである」 (2008/12/10 毎日新聞夕刊、『加藤周一さんを悼む』)

<雑種>とはなかなか伝わりにくい概念である。最近、上野千鶴子(平凡社の加藤周一セレクション5の解説、1999)がその解釈を述べており、小坂井敏晶も『異文化受容のパラドクス』(朝日選書、1996)で加藤<雑種>説の修正を試みている(文化を受容するさいの<免疫システム>)。

加藤周一の言いたいのは次のことである。

「。。。日本の文化の特徴は、その二つの要素(注:西洋的、と、日本的と)が深いところで絡んでいて、どちらも抜き難いということそのこと自体にあるのではないかと考えはじめたということである。つまり、英仏の文化を純粋種の文化の典型であるとすれば、日本の文化は雑種の文化の典型ではないかということだ。私はこの場合雑種という言葉によい意味もわるい意味も与えてない。純粋種にしても同じことである。よいとかわるいとかいう立場にたてば、純雑種にもわるい点があり、雑種にもおもしろい点があり、逆もまた同じということになるだろう。雑種とは根本が雑種だという意味で、枝葉の話ではないということをはっきりさせておく必要がある。枝葉についてならば英仏の文化も外国の影響を受けていないどころではない。インドや中国の場合にはなおさらであって、日本の文化を特に区別して雑種の典型だという理由はない。」 (加藤周一セレクション5から『日本文化の雑種性』 p42)

「日本主義者は必ず精神主義者となり、日常生活や下部構造がどうあろうと、精神はそういうものから独立に文化を生みだすと考える他はない。ところが念の入ったことに、そう考えた上で行う議論の材料、つまり立論に欠くことのできない概念そのものが多くは西洋伝来の、和風からは遠いものである。自由とか人間性とか、分析とか綜合とか、そういう概念を使わずに人を説得する議論を組みたてることは、議論の題目によっては不可能であろう。日本の文化の雑種性を整理して日本的伝統にかえろうとする日本主義者の精神がすでにほんやくの概念によって養われた雑種であって、ほんやくの概念をぬきとれば忽ち活動を停止するにちがいない。日本の伝統的文化の影響から区別して拾い出すなどということは、今の日本では到底できるものではない」 (同、p43)

私なりに言い換えれば、純粋種とはたとえば、鉄(純粋なFe)あるいは炭素(C)であり、これは科学的には純粋であるけれど、生活の用途としての使い道は制限される。この二つを化合させて(溶融)、<鋼鉄>(スチール)に変成すれば硬度が高まり、溶けにくく、錆びにくい、したがって用途が一挙に広がる。<純粋>も<雑種>も、価値があるかどうかは条件による。無条件の価値などはない、その観点からすれば純粋種と雑種は等価である、ということだ。純粋を誇るのでもなく、雑種であることを卑下するのでもなく、開き直るのでもない。(<雑種>の命名はいかにもマズイし誤解を与える。ついでにいえば、純粋種、雑種というときの<種>は、生物における種とは異なり、実体のない、すなわち、人間がつくりあげた虚構である、とおもう)。

この短い論文は先見の明に満ちた問題作といえる。雑種の概念を使って論文中で、日本の近代の概念の洗い直しも迫っているのだ。

さらに、この<雑種>概念を文学や思想に拡大させて適用し(外来の思想を、いかに変容させて日本土着思想に織り込んだか)、日本の土着思想を探ろうとした試みが『日本文学史序説』である。『序説』とは、土着思想を近代合理主義に照らして否定し、さらに、ニッポンを愚劣な戦争に巻き込んだ天皇制国家機構を生み出した特殊日本的な世界観がいかに生まれたのかを探るための試論であった。加藤周一が戦中、戦後から貫いた思考を展開させた書といえる。しかし、『序説』のなかでは<土着思想>が何であるかはついに明らかにされていない。丸山真男のいう<古層>とおなじく、実体のない単なる補助線的な中間概念=作業仮説、ではあるまいか。。。

1946年3月に発表した「天皇制を論ず -- 問題は天皇制であって、天皇ではない」(加藤周一セレクション5に収録)は、痛烈な天皇制批判文書である。この論文を引くのは控えるが、加藤周一セレクション5の該当論文への著者による追記を掲げておく:

「。。。1945年、敗戦が事実上決定した状況のもとで、降伏か抗戦かを考えた日本の支配者層の念頭にあったのは、降伏の場合の天皇の地位であって、抗戦の場合の少なくとも何十万、あるいは何百万に達するかもしれない無益な人命の犠牲ではなかった。彼らにとっては、一人の天皇が日本の人民の全体よりも大切であった。その彼らが、降伏後、天皇制を廃止すれば、世の中に混乱がおこる、といったのである。そのとき彼らに向かって、無名の日本人の一人として、私は「天皇制を論ず」を書き、「恥を知れ」と書いた。日本国とは日本の人民である。日本の人民を馬鹿にし、その生命を軽んじる者に、怒りを覚えるのは、けだし愛国心の然らしめるところだと思う」  (セレクション5、p207)


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日本の文化・思想の型を<時間と空間>概念を、世界の他文明のそれと比較して特徴を論じたのが『日本文化における時間と空間』であり、さらに、焦点を日本美術史にあてて論じたのが『日本美術の心とかたち』である。『日本美術の心とかたち』を読みはじめたのは、実は、数日前からである。読み始めた途端、わたしは、その文章の端正、簡潔にして、リズム感のある行文に一驚した。これは『文学史序説』以上の傑作と言えるのではないか、と。

『心とかたち』は、まず次のように始まる。

<はじめに形ありき>
「             縄文の形

日本列島の住人は、旧石器時代、その内陸に住んでいた。新石器時代には海岸へ出て、およそ一万年ぐらいの間、紀元前200年頃まで外部から孤立した条件の下で、土器をつくって食物を煮たり貯えたりし、いわゆる「貝塚」を残した。その土器が「縄文土器」である。
 日本の美術史をそのときから始める理由は、何よりもそこに形と文様のおどろくべき独創性があったからである。たとえば深鉢の開口部をとりまいて、渦を巻きながら火焔のように立ち昇る複雑で立体的な装飾は – それが火焔であるか否か、どういう象徴的意味をもつかは別として、その力強く、激しく、動的な形が、その後の日本の造形的世界にみられないばかりでなく、世界の他の地域においてもおそらく土器としては例が少ない。また縄文土器は、本州の東部を中心として日本全土に及び、地域的にも時代的にも、その形の豊富な多様性を示す。旧大陸でも新大陸でも、また南太平洋でも、多くの新石器文化が知られているが、これほど独創的で多様な形を生みだした例は多くないだろう。日本の新石器時代、縄文時代の文化が、その少い場合の一つであることはあきらかである。
もし美術史を人間の生みだした形の歴史と考えれば、日本列島にこのような独特の形の土器が出現したときから、日本の美術史が始まったのである」 (著作集20,p5)

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あるいは、<水墨・天地の心象>。

「        抽象的表現主義

水墨画は、紙(または絹布)に墨を含ませた筆で描き、時に淡彩を加え、時に彩色を用いない。彩色を用いない場合の材料と用具は、書に同じ。筆は線を引くのに適し、面を塗るのには適しない。したがって、水墨画は、対象の輪郭を描くことから始り、その線は、太く細く、墨の濃淡も自在で、表情に富む。線の性質を決めるのは、もちろん、筆の種類にもより、墨に加える水の量にもよるが、紙と筆先の接触面、および筆を動かす速さの加減による。一点につけた筆から墨は滲みだすから(毛細管現象)、筆はある速さで動かさなければならない。しかも一度引いた線を、画家は手直しすることも、消すこともできない。すなわち原則として、水墨画は一気に描きあげられなければならない」  (p159)

この文章を引き写しながら、わたしは谷川俊太郎の詩集『定義』を思い浮かべた。


##

加藤周一とサルトルについて。

フランスの哲学者サルトルは加藤周一の友人であり、加藤はこの哲人にして政治的行動家を敬愛してやまなかった。サルトルとの交渉がなければ加藤が後年、護憲運動を発起し、死ぬまで活動を続けたか、疑わしいとさえ私は思う。1966年サルトルは、ボーヴォワールを伴って来日し、数多くの講演と座談会、インタビューをこなした。1966年10月12日に、日本滞在日程の締めくくりとして行われた『現代状況と知識人』と題する座談会を再読した(『加藤周一対話集2』かもがわ出版。座談会参加者はサルトル、ボーヴォワールのほか、大江健三郎、阪本義和、鶴見俊輔、日高六郎。司会を加藤周一がつとめた)。この座談会は核兵器やベトナム戦争など政治的な話題に及ぶ白熱したものであった。締めくくりに司会者・加藤周一から「最後に広島の印象についておうかがいしたいのですが」との求めに応じて、サルトルとボーヴォワールが3頁にわたって<対話>を繰り広げている(この座談会の直前にサルトルとボーヴォワールは広島を訪れている)。この座談会を、以前わたしは読んでいるはずなのだが、今回、読み直してショックをショックと、感動を同時に受けた。サルトルとボーヴォワールが、短期間の広島滞在にもかかわらず、表面的でない認識に達していること、二人で交わした<対話>の絶望と深さ、に対してである。以前読んだとき、恥ずかしいことに私はこれに気づかなかった、あるいは、すぐに忘れてしまっていた。

サルトル: 実に悲惨な印象を受けた・・・・・・・。
ボーヴォワール: その通りだわ、実に悲惨だった・・・・・・・。
サルトル: 悲惨な印象を受けた。この点でこそ、大江氏の提唱する運動が正当化されると思うのです。つまり、広島は近代的な都市だ、まるで原爆など落ちなかったような近代都市だ。苦しんだ人々のことなど全く忘れてしまっている。原爆記念館はある、しかしそんなものは何の役にも立たない、第二の死だ。一方に・・・・・・・。
ボーヴォワール: 一方に、全く打ち棄てられ、自ら非人(パリア)であると考えているような人々がいる・・・・・・・。
サルトル: 完全に打ち棄てられている。しかも同じ広島市民から連帯意識も持たれていない。政府が無為無策でいるだけではない、市当局も・・・・・・・。
ボーヴォワール: 彼らになにも与えられないでいる。
サルトル: 市当局も彼らのために、少額でも特別税を徴収することを考えない。彼らの救済のためにはなんでもないことなのに。しかもこの人たちは自分の生きていることにむなしさを感じているのだ。彼らは・・・・・・・。
ボーヴォワール: 心理的には非人(パリア)意識を持っていたのです・・・・・・・。
サルトル: 彼らは非人だ。実に酷いことだ。この事実こそ、原爆が全く忘れ去られつつあることを証拠だてている。またそれだからこそ、平和運動を推し進めることが必要なのだ。しかし、実になにか・・・・・・・。とにかく広島での印象は無惨なものだった。今なお苦しんでいる被爆者を見たから無惨なのではない。彼らは少なくとも看護を受けている。そうではなくて逆の理由からだ・・・・・・・。
ボーヴォワール: 彼らの肉体的苦痛は精神的苦痛に比べたらなんでもないからなのです・・・・・・。
サルトル: そうだ、その上彼らは精神的に苦しんでいる人々なのだ。彼らはたとえば彼らの体験について、こういうことを言っていた、「確かに当時、私は大変苦しみました。しかしそのこと自体は余り重大ではないのです。ただ社会には復帰できませんでした。やっと両手が使えるようになってから、復帰できたのです、働くことができたからです。」彼らが求めているのは唯一つ、仕事だ。ところが、彼らにはこの仕事が与えられないことが多い。第一肉体的に弱い人々が多いから困難だ。彼らには被爆者相互の連帯意識もない。彼ら自身そう言っている。だから、被爆者の間にさえも、連帯的運動を組織できなかった。そこへもってきて、さまざまな原水爆禁止運動があり、反目しあっている、しかも、被爆者の置かれている事態を利用している。そこにさらに、広島という名のあの都会があるというわけだ・・・・・・・。
ボーヴォワール: 広島がシンボルとして利用されているのを見るとゾッとする。一方で、被爆者は完全に忘れられ、政府の援助も受けていないのに。なにかこう、見るに忍びない気がしました・・・・・・・。
サルトル: そうだ、本当に見るに忍びない・・・・・・・。
ボーヴォワール: シンボルがあることは重要です、とくに広島を語るときには。私たちだって、広島にシンボルを見出すつもりでいたのです。ところが、被爆者に会ってみると・・・・・・・。
サルトル: そう、彼らに会うために病院に行ったのです。不愉快なことになるかもしれぬとは思っていた。しかし全然そうではなかった。もちろん、そういう見地から彼らに会ったのではないからだ。そうではない。病室に入ったときは、カメラマンが25人もいて、テレビ局の人間もいた。そんななかに、婦人の被爆者が三人、われわれは花をもたされて・・・そういうことが実に不愉快だった・・・・・・・。
ボーヴォワール: 私は花束を持たされて、婦人のひとりに贈ることになって・・・・いかにも不愉快でした。しばらくしてやっと彼女たちと話すことができたのですが、彼女たちの言ったことはそれはもう堪え難いことでした。それに彼女たちの態度も慄然とするものでした。それも、だれひとりとして、あの人たちが全くうちひしがれた人たちであることを知ろうとしないからです。それに、ほら貴方に言ったひとがいるでしょう・・・・・・・。
サルトル: ああ、あの・・・・・・・。
ボーヴォワール: あの、年寄りのなかにはなにか自分の罰のように考える被爆者がいると言っていたひと・・・・なにか自分が悪いことをしたに違いないなどと・・・・・あの人たちは、全く打ち棄てられている・・・・・本当に堪え難いことでした。 
加藤: 大江氏は『ヒロシマ・ノート』でまさにそのことを言っているのです。
ボーヴォワール: ああ、あの本を書いたというのはこの方ですか。やはり同じ印象を持たれたわけですね。 (『加藤周一対話集2』p245~247)

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加藤周一は講談社『人類の知的遺産』シリーズの一冊である『サルトル』を担当し、サルトルの伝記と著作解説を行っている(加藤周一著作集16に収録)。加藤周一は、日本滞在中のサルトルとの討論から受けた印象を次のように述べている(著作集16,p191)。

「会話の知的密度は高く、具体的な観察から抽象的な分析に移り、また逆に抽象的な水準から具体的な話題へ移る精神の働きは、おどろくべき速さを備えていた」 (p191)

「サルトルはどこでも常に考えていた。しかし誰かが彼に話しかければ、それが予定された会合でも、行きずりの出会いでも、常に注意深く最後まで相手の話を聞いた。彼の前にあらわれるすべての人間は、彼と対等であった。世界的な名声の有無、知的能力の隔絶ということが、たしかにあって、しかしそれを無視する意志、あるいはむしろ習性となった態度が、私の知る限り一度でもあいまいであったことはない。それは傍から見ていても、素晴らしい見事な光景であった。彼は人間を決して差別しない、アルジェリア人も、ユダヤ人も、女も、労働者も、学生も。私が近づいて見たサルトルは、人間的な温かみがその身体の全体から自然に溢れだしてくるような人物であった。そこには優しさがあり、誰に対しても開かれた心があった。」 (p193)

長々とサルトルについて引用するのは、もちろん、私が著作から抱く加藤周一の印象と、サルトルの姿があまりにもピタリと、重なるからである。

「サルトルに会ったら、彼の考えを訊いておきたいと思うことが私にはあった。弁証法は世界を叙述するために必要であるか(この場合の「必要」は、論理的な意味での「必要」である)。「必要ではない」と彼は言下に応じた。それならば、弁証法は認識を導く原理であり、世界の現実を発見するための手段heuristiqueであると考えているのか。「その通りだ。私は弁証法がheuristiqueだと繰り返しいってきたのだ」 -- それは立ち話であった。」 (p192) 

サルトルの著作は70年前後、私も夢中になって読んだ。とくに、『シチュアシオン』、と、『弁証法的理性批判』、『弁証法的理性批判』の序説である『方法の問題』。『方法の問題』でサルトルが述べた探究の論理(手段)としての<前進的・遡行的方法>こそは、弁証法なのだ(発見的手法としての)、とサルトルは言っているのであろう。わたしは、デューイのプラグマティズム(探究の論理)と、これを重ねて理解した。


ひとが存在することの意味は、その人を失ってからでないと覚知できない、ということを、加藤周一においてわれわれは再確認することになる。


加藤周一が毎日新聞のために書いたサルトル追悼文、その冒頭と末尾の文章をかかげる(毎日新聞、1980年6月3~4日):

「交通労働者の罷業でバスも地下鉄も止まっていた1980年4月のニューヨークの客舎で、私はサルトルの死を聞いた。人間は死ぬ、サルトルでさえも。 --- 私は頻りにその人のことを思った。」

「彼は避けがたい死が近づくのを知っていたが、死についてではなく、生きることの意味について、考えることをやめなかった。」


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世界を異邦人のごとく旅し、観察し、思考し、書いた文人・加藤周一、死す。東京世田谷区の病院にて、12月5日(金)14時。享年89歳。病名、多臓器不全。



関連記事:
生と死 加藤周一
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2006-08-24

小田実の考えてきたこと
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-03-27
追悼小田実
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-07-30


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アカショウビン

 遅ればせながら小生のブログへのコメントを読ませていただき上記の未読の文章を感銘深く読ませていただきました。
 私は著作よりも「夕陽妄語」を楽しみしていた読者ですがテレビなどで見かける氏の発言は傾聴し続けてきました。大江氏が評していたように現代日本における有数の「大知識人」だったと思います。ご指摘の著作にも少しは眼を通していくつもりです。
by アカショウビン (2008-12-30 09:35) 

野崎 住人

 あまり注目されていない著作に『日本人の死生観』
がある。R.リフトン氏らとの共著であるが,加藤氏は
友人たちを死に追いやった15年戦争の,一般に戦争
を起こす正体(社会的・政治的要因)を解き明かすこ
とに特に関心があった。つまり「死」といつも隣り合わ
せで一生を過ごしたといえよう。
 いろいろなブログや雑誌,新聞などで加藤氏追悼
文が書かれているが,そのほとんどを読んでいない。
しかし少なからぬ方々が加藤氏に影響を受けたこと
は否定できない。
 小生もその一人であるが,生前にお会いできることがあったなら,尋ねておきたいことが3つあった。
 その1つは,競争的集団主義。これが日本社会の
一つの特徴であると書いていたが,そうでもないとの
発言があった。これは氏の考え方の転換なのだろうか。
 2つめは,『夕陽妄語』が新聞記者向けであるという
発言。これには驚いた。記者でない小生のような一般
読者向けでないという。
 最後の3つめは,専門家の役割。情報爆発の時代
の現代にあって,学問が細分化されればされるほど
専門家は蛸壺にはまっていき,専門外の事件,事象
に対して判断できなくなる。
 そのとき例えば,パレスチナで子どもが殺されること
に対して,たとい情報が少なくとも,専門家は専門に
ついて考えることを止めて子どもが殺されることやパレ
スチナ問題全体について価値判断をしなければならな
い,としていた。しかし最近,判断をしてはいけないと
逆のことを発言された。
 加藤周一氏の30年来の読者の一人として,また論
理学を学んだ一人として興味は尽きない。どなたかの
御教示を待ちたい。
 
by 野崎 住人 (2009-03-11 17:07) 

古井戸

日本人の死生観。三島に対しては厳しい。正宗白鳥に対してもこの本では加藤は厳しいが、晩年になって、変化したのではないだろうか。吉田松陰に対する評価も、晩年になって変わった。好意的になった。

死と隣り合わせ、というより、(偶然もあったろうが)死を避けてきた、という自責もあるのじゃないか。

サルトルはノーベル賞を拒否したが、村上春樹はイスラエルに受賞にでかけた。加藤が生きていれば朝日のコラムでこれを言及したのではないか。
by 古井戸 (2009-03-12 02:07) 

カッサンドラ

この人と一生付き合いたいと思うのは個人的なことでそのような覚悟は公言するものではないことを承知の上。加藤周一はその一人で、また、わたくしにとっては最後の人になると思う。
by カッサンドラ (2009-11-19 12:23) 

spachikasan

ありがとうございます。加藤周一さんの本をもう1回読むのに、大変刺激になりました。
by spachikasan (2016-01-06 11:39) 

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